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お江戸☆吉原遊廓ゆかりの寺社巡り🙏

震災と遊女たちに思いを馳せる。


新吉原総霊塔〜永井荷風筆塚〜本庄兄弟の「首洗いの井戸」〜吉原神社〜吉原弁財天〜吉原観音




尺八研究家、神田可遊師計画の、浅草吉原周辺の寺社巡りについて行ってまいりました。

 

まずは、三ノ輪駅より歩いてすぐの、

投込寺の浄閑寺



浄土宗 栄法山清光院浄閑寺


山門


浄閑寺は安政2年(1855)の大地震の際にたくさんの新吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになった。
新吉原総霊塔や永井荷風の筆塚を始め、数多くの史跡がありますが、特に花又花酔の川柳は有名です。「生れては苦界 死しては浄閑寺」
遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。


浄閑寺史蹟の案内板

たくさんあります。



永井荷風の筆塚

『震災』  
今の世のわかき人々 
われにな問ひそ今の世と 
また来る時代の藝術を。 
われは明治の児ならずや。 
その文化歴史となりて葬られし時 
わが青春の夢もまた消えにけり。 
団菊はしをれて桜癡あうちは散りにき。 
一葉落ちて紅葉は枯れ 
緑雨の声も亦絶えたりき。 
円朝も去れり紫蝶も去れり。 
わが感激の泉とくに枯れたり。 
われは明治の児なりけり。 
或年大地俄にゆらめき 
火は都を燬やきぬ。 
柳村先生既になく 
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。 
江戸文化の名残烟となりぬ。 
明治の文化また灰となりぬ。 
今の世のわかき人々 
我にな語りそ今の世と 
また来む時代の藝術を。 
くもりし眼鏡ふくとても 
われ今何をか見得べき。 
われは明治の児ならずや。 
去りし明治の世の児ならずや。

『偏奇館吟草』 永井壮吉



永井荷風とは、

【永井荷風】 小説家。東京出身。本名壮吉。初めゾラを模倣した自然主義的作品を書いて出発したが、アメリカ・フランスに赴き、帰朝後、耽美派の代表的作家として活躍。かたわら慶応大学教授に就任、「三田文学」を発刊主宰した。江戸趣味を基調として花柳界や陋巷を題材にした多くの作品を書いた。著「地獄の花」「あめりか物語」「すみだ川」「腕くらべ」「つゆのあとさき」「濹東綺譚」など。明治一二~昭和三四年(一八七九‐一九五九)

精選版 日本国語大辞典


荷風が、明治30年初頭の吉原界隈を舞台として、新聞小説「新梅ごよみ」を連載した時の事、

 注目すべきは、浄閑寺を背景に描こうとしていることで、前年作「おぼろ月」の作中にあっても、薄幸の遊女がこの寺に葬られているが「新梅ごよみ」ではこのいわゆる投込寺を主要場面としている。荷風は今次大戦後の晩年まで、遊女その他廓者を多く葬ったこの無縁寺に興味を抱き続け、いくたびかこの寺に赴いて、ここに眠る遊女三千の無縁仏に哀傷の思いを馳せている。

秋庭太郎著「考証 永井荷風(上)」



荷風は子供の頃から邦楽に親しみ、尺八も習っていた。

荘吉は十七歳の頃、上野の音楽学校の音楽会において荒木古童の「残月の曲」を聴いて以来、尺八の妙音に魅せられ、両親に内密で、月々の小使銭を月謝に当てて浅草代地の古童すなわち竹翁の家や、竹翁門下の神田美土代町に門戸を張っていた福城可童ふくしろかどうの許へ弟子入りすると共に、尺八をあがなわんために所持する銀時計を新調の外套を質入れし、父母には時計をそのポケットに入れたまま外套を盗まれたと告げた。その結果、相応に吹奏し得るまでに上達したことは、同好の士と「鹿の遠音」「月の曲」などを吹合わせたり、尺八を好んだ中学の友達やその妹とも合奏したこともあったというので分るが、昂じては尺八の技術を完成するためには一通り三絃の道も心得て置く必要もあるとして中学を卒業したころには三味線の稽古をも試みた。事はすべて荷風の小品文「楽器」にみる通りでであるが、後に荷風は尺八の免許を得ている。

秋庭太郎著「考証 永井荷風(上)」


竹翁の門下、福城可童ふくしろかどうの許へ弟子入りしたのですね。

それにしても、銀時計を持っている17歳…。



大正7(1918)年、永井荷風が39歳の時に書いた尺八の事。「書かでもの記」より。

われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしと共に、尺八吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに築地へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くやうな小理窟つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも果てたり。

永井荷風「書かでもの記」




新吉原総霊塔 

現在の塔は昭和4年8月に、寛政5年(1793年)以来の供養塚を改修し、形を改め、名も「新吉原総霊塔」としたもので、前の塚は安政2年(1855年)10月2日の大地震に横死した遊女五百余人が運ばれ供養されていた。新吉原創業から廃業まで江戸、明治、大正、昭和と三百八十余年間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など遊郭関係のものや、安政、大正両度の大震災に死んだものを含めた推定数は二万五千に及ぶ。

浄閑寺HPより



新吉原総霊塔の前で献笛(神田可遊師)




そして、このお寺には、虚無僧になった鳥取藩士・平井権八に父親を殺され、かたきをとりにやってきた 本庄兄弟の「首洗いの井戸」がありました。


平井権八と本庄兄弟の事について、詳しくはこちら↓


いやはや、怖くて来られないなんて思ってましたが、まさかこんなにすぐに来ることになるとは!



お次ぎは吉原神社へ、


土手通りを行く。

あしたのジョー像


「あしたのジョー」はこの界隈のお話だそうです。



見返り柳

旧吉原遊郭の名所の一つで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したという。
遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから、この「見返り柳」の名があり、
きぬぎぬの後ろ髪引く柳かな
見返れば意見か柳顔をうち 
など、多くの川柳の題材となっている。  
かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。  
平成8年(1996)7月 
台東区教育委員会

この柳も、震災、戦災の憂き目にあっているのですね…。

しかし、この立地。風情も何も無くなってしまい可哀想。



吉原神社


吉原神社は、かつて吉原遊郭にお祀りされていた五つの稲荷神社と遊郭に隣接する吉原弁財天を合祀した神社。


尺八が上達しますように🙏


とまずは祈願。


吉原今昔図


吉原はかなり大きな敷地。



そして歩いてすぐに、吉原神社飛び地境内地、

吉原弁財天本宮


「吉原観音」が静かに佇む「吉原弁財天本宮」は、戦後の再開発で埋められた池の名残を境内にとどめている。

只今、池は工事中でした。



吉原弁財天本宮社殿 にて献笛🙏


弁財天の壁画



吉原観音

関東大震災の殉難者を慰霊する観音像

ここでも献笛させて頂きました。

関東大震災から今年で100年。
この観音さまの前にくると、真夏の暑さも何処かへ行ってしまったような空気感が漂っておりました。

浅草寺からも歩いて来られる距離なので、沢山の人がここにお参りに来るといいですね。池の工事の資金も募っておりました。




今回は、はじめての吉原界隈の寺社巡り。

尺八・虚無僧に関係する、永井荷風や、平井権八関連の遺跡にもお参りでき、色々つながりました。



しかし今年は災害並みの暑さ…。

人はいつ、何処で、どうやって死ぬか予測不可能です。

せめて出来ることは、いつ死んでも良いようにしておくことでしょうか。



打ち上げに、はじめての「どぜう鍋」

冥土の土産の一つができました🙏


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kataha
古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。辻立ちコム活に投げ銭チップしていただけたら嬉しいです🙇