自己嫌悪であり自己陶酔

自己嫌悪という感情は多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。この片桐和也の心にも自己嫌悪は跋扈している。そして人より自己嫌悪の念が強いと自分では思っている。
片桐和也がどんな場面で自己嫌悪に陥るのか?よくあるのが、ババアや女装でさえ短いスカートを履いている人を見るとパンチラを狙ってしまう時である。これはもはや習性というか、本能というか、頭ではどうしようもない力が働いている。気をつけてどうにかなるものでもない。胸元があいた服とかも一緒で、欲情してるとかじゃなしに目線が行く。これからも俺はババアのパンチラと谷間を追いかけては男のバカさ加減を思い知ることだろう。そして自己嫌悪に陥るだろう。しかしこんなのはたいした話じゃない。自己嫌悪の中でもマジでどうでもいい部類だ。俺がこの記事で書きたいのはもっと本質的というか、もっと片桐和也の心の内面に根ざした自己嫌悪の話だ。

片桐和也は考えすぎる。この片桐和也には非常に無駄なところまで考えすぎる悪い癖がある。最後の方はもはや考えすぎというか、被害妄想のようになってくる。ほとんど無意識というか、もはや性格なのでどうしようもない。しかし、ふと自分を俯瞰で見てみた時にめちゃくちゃ滑稽で自己嫌悪に陥るのだ。

片桐和也はレジがあまり好きではない。なぜかというと、自分が何を買ったのか店員に見られたくないのだ。なにもエロ本だとか、真っ黒な袋に入れてもらうようなオモチャを買ったわけではない。それなのに嫌なのだ。
俺がジャワカレーの中辛と豚肉とジャガイモとニンジンをレジに持っていくとする。そのラインナップを見て店員に「ああ、こいつカレーのつもりだな、そしてタマネギは冷蔵庫にラップにくるんだ半分のやつと、おかってのダンボールに何個かストックあったはずだと鑑みてそれで足らすって感じだな?」とか思われるのが嫌なのだ。理解できない人はマジでこの感情は理解できないだろう。そもそもレジのバイトの経験があればわかるが、レジの人はいちいちそんなことは考えない。スキンヘッドで全身網タイツの男が熟女モノのエロ本を十冊買っていくレベルの衝撃がないと覚えてすらいない。俺にとってはたった一人の店員だが、店員にとって俺は無数の客の中の一人なのだ。それはわかっているのになんか嫌だ。
同じ理由で新商品とか期間限定のお菓子とかも買いづらい。昨日テレビで紹介されてた商品とかも買いづらい。「おっ、早速ガルボの新作に飛びついてるよ」とか「さては昨日ヒルナンデス見たな?」とか思われたくないのだ。そんなこと思われることなんてほぼほぼないと頭ではわかっているのに。これこそ考えすぎる悪い癖だ。本当に嫌になる。買い物なんて適当に済ませればいいのに。

いらんことを考えすぎる片桐和也にとって恋愛だとか女性関係みたいなものは自己嫌悪製造マシンと言えるだろう。多分考えすぎるやつに恋愛って向いてないのだ。
俺がデートをするとする、晩飯を食いに行くと。その場合俺は相手の親御さんのことを考えてしまう。とりわけ父親のことをすごく考える。俺にとってその女は人生で出会う様々な女のうちの一人だ。しかし父親にとっては手塩にかけたたった一人の娘である。そう考えると俺はどうしようなく申し訳ない気持ちになる。結局俺みたいなもんが女とデートするにあたって最終目標といったらアレだ。車を出して駅まで迎えに行くのも、小洒落たイタリアンレストランに連れてくのも、オチのない長い話を笑顔できいてるのも、全部最終的にかくためだ。所詮片桐和也はその程度の男であり、タレをかくために頑張っているのだ。なんならたいして好みじゃないけどイケそうだから一緒に飯食ってる場合もある。どうでもいい話をききながら乳の品定めしていることもある。しかしふと思う、俺にとってはその程度でも親御さんにとっちゃ大事な娘だ、と。この子が生まれたとき両親はどんな顔をしただろう、と。この子のことを育てるために両親は社会のあらゆる理不尽に耐えてきたのだろう、と。その考えが頭を支配しだすともうどうしようもない。俺の息子も元気をなくす。
一番最悪なのが親御さんと面識があるパターンだ。節目節目で先に進むたびに親父の顔が頭に浮かぶ。父親似の女だったりするとなお最悪だ。ふとしたとき面影を重ねてしまう。俺は一度、その親御さん面識パターンにハマり、めちゃくちゃド健全な時間に家まで送り返し、大人とは思えない奥手なデートを繰り返した経験がある。あんなもんただの車乗ってて金持ってる中学生だ。
本来恋愛なんてノリとタイミングとリビドーで行うものだ。それを考えすぎる俺の性格が阻む。以前の記事でも書いたが、片桐和也は嫁もいなければ彼女もいないのに、すでに自分に娘ができて嫁いでいってしまうことにおびえている。そんな気持ち悪い妄想癖が片桐和也の恋愛の枷になるのだ。やはりこんな俺が唯一心の底から楽しむことができるのは、一万二千円発生しているという心理的負担の軽減と、直接の肉体関係のない性感マッサージしかないのだろうか。

考えすぎる男、片桐和也にとってLINEというツールは地獄である。片桐和也はLINEが苦手だ。こんなウンコみたいな文章は長々書けるのにLINEに短文を打ち込むことにかんしては四苦八苦する。しかし今はLINEの時代である。新しい職場に入れば、その職場のLINEグループに入ることを余儀なくされる。そのくらいLINEはメールに変わるツールとして現代日本の社会に浸透している。このLINEというのが曲者で、チャット形式で過去の文も読めるのがよくない。あれは非常に便利な半面、片桐和也にとっては自己嫌悪のきっかけなのだ。
メールの時代からそうだったが、片桐和也は自分の送信ボックスが気持ち悪くて見れなかった。自分が相手に送っている文というのが最高に気持ち悪いのだ。しかもLINEは受信ボックスと送信ボックスが一緒くたになっている。わざわざ開かなければよかった送信ボックスを強制的に見るしかないのだ。
ここでも女が出てくるが、女とのLINEが一番最悪だ。あれほど見たくないものはない。基本的に片桐和也は、会う約束などの必要な連絡以外はしない。加えて絵文字、顔文字、スタンプを使わない。あんなもん女とのLINEの時だけ使っていたら片桐和也は自己嫌悪で死んでしまう。しかしさすがに超短文の事務的連絡のみを無機質に送っていたら感情が伝わらない。そこで妥協して、(笑)や感嘆符を多用するのだ。この文章を書いていても嫌になるほど、この中途半端な妥協が嫌だ。でもやめられないのだ。そして文章だけを送りたい気持ちと、照れずに顔文字とかを使えるようになりたいという気持ちのせめぎ合いにより俺の精神は分裂する。その結果完全に振り切ってしまい「○○ちゃん、そろそろ会いたいなぁ〜(*^^*)おじさんは○○ちゃん成分不足中で夏バテぎみだにゃ〜^^;」などという援交おじさんの人格を覚醒させる。こうなるともう止まらない。なぜなら俺は援交おじさんだからだ。援交おじさんなら、気持ち悪い文体も顔文字もバンバン使える。あとでそれを見ても恥ずかしくもなんともない。なぜなら俺はその時、援交おじさんだからだ。しかし援交おじさんの人格を覚醒させるにはそれなりの信頼関係が必要であり、一、二回デートした相手ぐらいじゃドン引きが関の山だ。何よりそういう冗談が通じる女でなくてはならない。
話を戻そう。本当にLINEの何が嫌かっていうと文字で証拠が残ってしまうことだ。会話なら録音されてることなんてまずないだろう。会話で「永久の愛を誓おう」と言ったところで言葉は形に残らない。一度口から出た言葉をもう一度口に戻すことはできないが、記録するものは記憶だけなのだ。記憶というのは他者との共有によって確かなものとなる。なので「あのとき片桐さん、永久の愛を誓おう!とか言ってたよね」なんて言われたところで「…ん?…いや、え…?…んんん?んんんんん〜?」の一点張りで記憶の共有を拒否することができるのだ。だがそれがLINEの場合はどうだろう。紡いだ言葉はデータとなり共有されている。トーク画面やスクショを見せられたら終わりだ。その瞬間俺の敗北は確定し、俺は気色悪いポエム野郎になるのだ。だが、まあ、今のは極端な例だ。一応俺の名誉のために言っておくと、俺の人生において「永久の愛を誓おう」なんて歯の浮くようなセリフを吐いたことは一度もない。しかし、いつもの取り留めのない会話さえそうだ。予定の確認なんかでトークを遡ることはよくある。その時に自分の送ったLINEを見たくない。「ああ、俺、嫌われないために必死だな」とか「ここで一線をちょっと越えようと試みてるじゃねえか」とか「ここいらで少しジャブ程度にウケを狙ってるな」とか、そんな形跡がLINEには明確に残っている。それがたまらなく嫌で嫌で、そして陥るのだ、自己嫌悪に。俺とのトーク画面が女子会のネタになっている妄想をすると、練炭を買いに行きそうになる。
やっぱり片桐和也は実際会うか、そうでなければ電話が好きだ。もういっそ固定電話の時代か携帯電話黎明期に戻りたいくらいだ。女の家に電話をかけたら親父が出て気まずくなるあの感じだって甘んじて受け入れよう。自分の家族に女との会話をきかれたくないから、電話線ひっぱってなるべく遠くまで行ってしゃべるあの感じも甘んじて受け入れよう。ただここで甘んじて受け入れまくってても現実は変わらないのである。片桐和也はLINE時代を生きていくしかない。
お前女のこと信じられなすぎだろ、過去にトラブルでもあって女性不信みたいになってんじゃねえの?という声もきこえてきそうだが、そんなことはない。マジでなにもない。何なら深くかかわった女はみんな優しかった。これはもはや俺の性質なのだ。そもそも他人を信じられないのだ。それが女相手になってくると自分を基準とした読みが通じないこともあるので、ことさらこじらせるのだ。心のコンプレックスみたいなもんで、どうしようもない。心のコンプレックスというのは大金握りしめて韓国に飛ぼうが整形は無理なのだ。ただただ、自己嫌悪に耐えるしかない。

ここまで片桐和也自身の自己嫌悪について、砕けた言い方をすれば自分の嫌いなところについて書いた。ここいらでタイトルを思い出そう。自己嫌悪であり自己陶酔だ。まだ片桐和也は自己嫌悪についてしか書いていない。これからタイトルを回収していこうと思う。自己嫌悪と自己陶酔、この二つは対義語である。つまりタイトルとしては短所であり長所みたいなものだ。ただ、たとえ短所であっても視点を変えれば長所なのよ、みたいな素晴らしい話ではない。もっとしょうもない、どうしようもない話だ。
片桐和也は考えすぎる。考えすぎるゆえにいらぬ心労を自分に与えている。自分が思っているより他人は自分に関心がないと誰かが言っていた。その通りだと思う。その通りなのはわかっているのに、こればっかりはどうしようもないのだ。これは片桐和也が片桐和也である以上どうしようもないのだ。それは片桐和也に言わせれば、自分が思っているより他人は自分に関心がないけど自分が思っているより他人は自分に関心があるからだ。そしてなにより他人の関心とかじゃなしに、俺自身が俺の全てを見ている。他人というか、俺が俺を見てる限り俺の自己嫌悪は止まらないのだ。だって俺は自分自身にめちゃくちゃ関心あるから。それこそ自己嫌悪であり自己陶酔なのだ。俺は自分のこの考えすぎる性格が大嫌いであり大好きなのだ。川本真琴風に言うとDNA(だいっキライなのに愛してる)なのだ。だから直らないし、直そうともしない。俺の考えすぎる性格は俺を苦しめるけれど、それがなけりゃこんなクソみたいな文章をこのテーマで長々書くことはできない。話題にしても、一の材料をもらえれば想像で肉付けして十までいかなくとも八くらいは語ることだってできる。なんだかんだここまで考える俺が俺は好きだ。

これは俺の特殊な例かもしれないが、もしかしたらひどい自己嫌悪ってのは自己陶酔と表裏一体かもしれない。なんかもうこれたいしたオチもないし予想通りの着地というか、タイトルからしてこうなるってバレバレではあるが、とりあえずそういうことなのだ。

※この記事は片桐和也の独断と偏見です。

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