アッシェル・ホーンの冒険・第一話【人の心の闇に勝る、『魔王』は存在しない】
他の短編小説と共に、マガジンにまとめてあります。
アッシェル・ホーンは一人のネフィアル神官であった。
彼はアルトゥールという名で知られるネフィアル神官がいる内陸諸国の中の一国、ジェナーシア共和国からは遠く離れた国にいる。
西岸諸国の一国、マリスデン王国である。王国とは名ばかりのこの国は、各地の領地を支配する諸侯が互いに牽制し合う中、時には小競り合い程度の戦もあった。
その有様は、あたかも古王国時代を思わせる。
新諸国の時代になってからの、それぞれの国内は比較的平和であり、諸侯・貴族たちが相争うことは滅多にない。王ではなく、貴族の合議による共和国も誕生した。
だがマリスデン王国では、古王国の名残りが、今も残っている。
アッシェル・ホーンは、この国を憂いてはいたが、自分にできることは限られているとも知っていた。
それでも、やれる限りのことはやるのだ。
ある時、アッシェルは黒いローブを身にまとい、背中には革の背負い袋を背負って、中に一式の旅道具を入れて、狭く小さな自宅から出た。
自宅は小高い丘の上にある。丸太で造られた小さな小屋だ。中には暖炉と円卓に四脚の椅子がある。平屋建てで、住まいの隅の窓際に寝台があった。
家も家具も、明るい色の木目のきれいな木材でできていた。彼は愛するその住まいを出て、長い旅に出ようとしていた。
アッシェルは隣家、と言ってもアッシェル自身の高い背丈を縦に十ばかりは伸ばしたくらいには離れているが、お隣のエメリに当分は家を留守にすると伝えた。
「昔の仲間から手紙が届けられました。よく訓練された伝書鳩が届けてくれたのです。私は旅に出なければなりません。どうか、私が留守の間、私の住まいをよろしく」
「分かりました、いってらっしゃい。どうかご無事で」
若草色の瞳の可愛い娘であるエメリは、ジュリアン信徒である。本来ならば裁きの女神たるネフィアルの神官を、あまり快くは思わぬはずであった。
しかし、アッシェルの穏やかな気質を知っているので、彼には心を許しているのだ。
アッシェルは旅立った。一度だけ振り返ってエメリに手を振ると、それからは後ろを見ずに歩き出した。やや早足で、真っ直ぐに歩く。
歩くうちに〈輝きの森〉なる場所に出た。この世界にはあまり高い山や山脈はなく、国境を隔てるのは、森や大河や湖であることが多い。また、低い丘陵地帯であっても、丘に謎の脅威が残るのでは、人の行き来は容易ではなかった。
さて、森はマリスデン王国の国内にあるが、領地と領地を隔てていた。この森を抜ければ、目指す、仲間のいる村に出る。
アッシェルはためらいなく〈輝きの森〉に入った。木の葉はみな光り、きらきらと光を降り注いでいる。その光は赤、青、金色、銀色と様々だ。
村につくと、仲間が出迎えてくれた。名をヒルマンといい、もう壮年の男である。アッシェルの父親より、わずかに若いくらいだ。
「よく来てくれたな。さっそく頼みがある」
「はい、この村を襲う計画を立てている丘巨人を、こちらから先んじて殲滅するのでしたね」
「そうだ。我々二人だけでやる。他に丘巨人と戦える強い者はおらんのだ。この村にも、ジュリアン神官はいるが、みな情けない奴らばかりだ。お前が頼りなのだ、分かってくれ」
「はい、手紙にもそうありました」
「では、まずは俺の家で食事をしてくれ。腹ごしらえが済んだら丘へ向かうぞ」
アッシェルはヒルマンの家に入っていった。ヒルマンの妻がいて、簡素な木製の食卓に、狩られた水鳥の丸焼きを用意してくれていた。妻自身が自分で狩ったのだという。
水鳥の丸焼きの他には、庭で育てた葉物の野菜蒸しが、別の皿に山盛りになっていた。野菜は摘んても摘んても、後から生えてくる。
鳥や獣も豊富で狩るのは容易い。この世界では、自然の豊かな地にいれば、食に困ることはない。
「これで魔物どもの脅威がなく、都市の中の猥雑さによる、貧困者や悪事を為す者がどうにかなれば、この世界は実に暮らしやすい地になるよ。そう思うだろう、アッシェル?」
「ええ、〈法の国〉の時代はそのような貧困も、魔物の脅威も、悪事を為す者もなかったと聞きます」
「私はその時代に戻ってほしいのだ。ジュリアン神官などは頼りにならん。聖女と呼ばれるジュリアン神官の女などただの偽善者だ。俺はお前に期待している。〈法の国〉を復活させるのに、手を貸してくれるとな」
「我々だけでは無理ですよ」
それはやんわりとした断りと制止の言葉だった。だがヒルマンには、分からない。
「もちろん、仲間を増やしていくさ。魔物退治で名を挙げて、従ってくれる人々を増やしていくさ」
「そう上手くいくでしょうか」
「必ず上手くいく。お前がいてくれるならな。信仰の自由や人々の自由などいらん。〈法の国〉の時代のようになれば、混乱の時代は終わり、また法と秩序の時代が訪れるのだ」
ヒルマンは上機嫌だった。アッシェルは、そこにはっきりとした危うさを感じ取っていた。
続く