【厳然たる事実に立ち向かえ】ウィルトンズサーガ2作目『深夜の慟哭』第10話
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エレクトナは遠慮なく足早に、広間に入ってきた。眼差しはウィルトンに向けたまま、自分で椅子を引いて座った。誰の許可も得ずに。貴族の令嬢としては、かなり放埒なふるまいだと言えるだろう。それくらいは、ウィルトンも知っていた。
令嬢はウィルトンの隣から、一つだけ間を空けた椅子に掛けている。ウィルトンの右側だ。アントニーは左のすぐそばにいる。
エレクトナに、再び祖母からの叱責が飛ぶ。両親は何も言わないのだなとウィルトンは思う。この場を支配するのは領主だけであって、息子夫妻は黙っているだけだ。とは言え、たしなめるような顔つきを娘に向けるくらいはしていた。口に出しては何も言わない。エレクトナもまだ何も言わない。この場は静かだ。
「こんばんは。はじめまして、ですわね?」
ここで、エレクトナはにっこりと微笑みかけた。
「はい、お会いするのは初めてですね。だと、思います」
田舎の村、庶民の出身の男はそう答えた。もう貴族的な気取った言い回しは使わない。それでも礼を失しないようには努めた。
「ここ以外でお会いしたことは無いはずですわ」
エレクトナは彼女のためにあらためて運ばれてきた前菜に目を留めた。淡い灰色の上下に、白い前掛けを身に着けたメイドが、銀の盆に乗せて運んできたのだ。銀の盆には細い線で、繊細な模様が彫り込まれている。
「ありがとう」
美貌の令嬢は、メイドに礼を言った。メイドはうやうやしく頭を下げる。貴族社会において礼儀は重要だ。謙遜も礼を言うのも。それがお互いに通じぬとあれば、態度を変えてそれなりの扱いに変じるのもまた、貴族的な作法の内なのだ。古王国時代のように、見下しによる寛容が行われた時代では、今はない。
エレクトナは、長く緩やかに波打つ髪を、結い上げもせずに背中へと垂らしていた。結い上げるか、刺繍を施した美しいリボンで束ねる。それが貴族の女が人前に出るときの作法であるはずだった。
「……だよな?」
ウィルトンはアントニーに、そっと問い掛けた。あまり密談をしているように見られてはまずいだろうが仕方がない。
「ええ。エレクトナ嬢は、庶民的な出で立ちがお好みなのかも知れませんね」
庶民的な? それもまた違うようにウィルトンには思えた。彼女の全身からは香り立つように貴族的な品格と気品が漂う。とても平民に混じってその振る舞いを真似ようという女には見えなかった。ある種の近寄りがたささえ感じさせる、硬質な美貌と芯の強さ。エレクトナの立ち振る舞いと眼差しにはそれが感じられた。
「貴族社会で持て余されているのを俺に押し付けようって腹なんだろうか?」
ウィルトンは口には出さずに考えた。俺は庶民だがそれなりの学はある。今や英雄として仰ぎ見られる立場なのだ。貴族のはみ出し者を嫁がせるには適しているのかも知れない。あくまでも貴族たちからすれば、だが。
「貴方はこの料理を召し上がったことはありますの?」
エレクトナはウィルトンに尋ねた。ウィルトンは女領主をちらりと見る。女領主はやれやれといった風に肩をすくめた。
「ウィルトン殿、孫が無作法で申し訳ない。許してやってくれ」
「いえ、そのような。あー、俺は、いや私は気になりません」
実際、気になるわけではなかった。庶民の女の基準なら、充分に礼儀正しい。礼儀正し過ぎて、気取って見えるくらいに。
エレクトナには、放埒さと貴族の娘らしい品のある立ち振る舞いの双方が備わっている。
ウィルトンはエレクトナの問いに答えた。彼女の方を向いて。
「初めて食べますよ。美味しいですね」
「そう? 私は好きではないの」
ウィルトンはあっけに取られた。どう返事をしたものだろうか。
「やめなさい、エレクトナ。お客人がお困りだ」
再び女領主センドの声が響く。朗々として、歳を感じさせない健やかさと威厳。エレクトラは、肩をすくめた。それきり何も言わず、黙って食事を始める。
先ほどから黙っていたアントニーが口を開いた。
「令嬢の衣装には、古王国の貴族のしきたりに従って、黒地に黒の糸で刺繍が施されていますね。まるで端整な浮き彫りのように。実に見事な品です」
「まあ」
エレクトナは驚いたようだった。ウィルトンを驚かせてばかりだった貴族の娘が、驚かされる側になったのだ。
「黒絹の衣装に、黒い絹の刺繍糸。令嬢自らの手になる物でしょうか」
アントニーはさらに続けて言った。
ウィルトンには分からず、また分かるはずもないが、この時アントニーは、密やかな喜びを感じていた。これは自分のためのもてなしではあるまい。おそらくは、純粋に令嬢の好みなのだろうと、彼はそう思っていたのだ。
エレクトナの驚きがますます大きくなる。
「凄いわ、よくお分かりね」
「その刺繍の意匠は、古王国と呼ばれたかつての王国の中でも、比較的小国でここからは離れた南方にあるドミネーニアの王族に伝わっていた物でした。教養のある方でなければご存知ではないでしょう。刺すには時間も掛かります。貴族の貴婦人の嗜みとして、ご自分の手で刺された物と推察いたしました」
「お見事。その通りよ」
エレクトナは黒い大きな目をさらに大きく見開き、柳眉を大きく上に動かした。感嘆と、心底からの感心がありありと表れている。
「そうなのか?! 全然分からなかったぞ!」
ウィルトンは思わず大声を出した。
「あ、いや失礼。エレクトナ殿、どうか気がつかなかった私をお許しください」
「普通は気がつきませんわ」
お気になさらないで。そんな含みがその言葉にはある。ウィルトンはほっとする。
「アントニー殿の見る目は本当に鋭いのだな。ヴァンパイアの目は、人間の三倍は遠くを見られるという。それは確かであったようだ」
センドは微笑んだ。どこか言外の意図を感じさせる声と表情だった。
続く