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復讐の女神ネフィアル 第1作目《ネフィアルの微笑》 第4話
門番をしている壮年の女ははっとしたように目を見開き、すっと背筋を伸ばして彼に言った。
「それは何という素晴らしいお心がけでしょうか! ジュリアン神もさぞお喜びになるでしょう。もちろんジュリア様も」
彼女は微笑んだ。その笑みには邪心がない。
彼女のような者を何人もアルトゥールは知っていた。
このような笑みを守るために、今のジュリアン信仰がある、と言って差し支えなかった。それに公然と異を唱えるのは、たぶん、神官としての力ある者では、ジュリアと僕くらいしかしないだろう、と若きネフィアル神官は考えた。
アルトゥールとロージェは中に通された。ちょうど今ジュリアが、アルトゥールの標的である男を訪れているとも知ることが出来た。
まさに好機である。
二人は門をくぐって中に入る。廊下を進む。左右に鉄製の扉がずっと並んでいた。
扉の上部には鉄格子があり、そこから室内の様子が分かる。部屋の中はどれも生成りの色の壁と天井、隔離された罪人の姿。飼いならされた子羊のような様子。おとなしくさせられ精気を抜かれ、考える力を失っている。
アルトゥールは、生きながら人間が葬られた、巨大な棺桶のようだと感じる。
あるいは納骨堂のような静けさ。ある意味では、冒しがたい神聖さもある、と言えた。
アルトゥールはロージェを従えて三階へ上がる。そこが最上階である。目的の部屋は階段から離れた奥にあった。アルトゥールたちがそこへたどり着いた時、鉄の扉はわずかに開いていた。そこからジュリアの声が聞こえた。優しく穏やかな声。
「やはり来たのですね」
ジュリアは少しも驚く様子は見せなかった。すべてを予想していたかのようにそっと椅子から立ち上がり、両手を広げて歓迎してみせた。
アルトゥールの紫水晶の瞳と、ジュリアの青葉の緑の瞳が見つめ合う。
「僕がすることを邪魔しないでほしい。そう言っても聞き入れはしないだろうな」
ジュリアはそれには答えない。自分の向かいに小さなテーブルをはさんで椅子に腰かけている、まだ少年のような罪人を手で示した。
「ご覧なさい。あなたの考えている『救いがたい極悪人』の姿を」
「あ、ジュリアさん、あっしは……」
ロージェは幾分気まずそうな様子を見せていた。
「構わないわ。今ではあなた方自身が思うよりも、アルトゥールの女神と私の神とのあいだで迷う人は多いの」
「そうだな。だけど大抵は僕と違って自ら行動は出来ない」
「あなたの女神を私の神に取って代わらせたいですか?」
アルトゥールは改めてジュリアの澄んだ目を見つめた。
「いいや」
女神のしもべは黙って部屋の奥に進む。裁きの相手のそばに。まるで大人しい子羊のようだとアルトゥールは思った。ジュリアの神技だけによるものではなく、恐らくはこの男の本性に近いのだろうと見てとった。
罪人はまだ少年と言ってもよい歳であった。大人になりかけの歳にしては身体は小さかった。特に鍛えているわけでもなく、細身でもある。顔立ちも別に醜くはない。色欲の強さや凶暴さが滲(にじ)み出ているわけでもなく、ごく普通の気弱そうな少年に見えた。
罪人は、アルトゥールを見ると怯えて肩をすくめた。少年は、白っぽい灰色の上着を着て、黒っぽい下履(したば)きを足に履(は)いていた。その質素な服装は、よりいっそう彼を弱々しくおとなしく見せている。
「なるほど、だから自分よりずっと弱い小柄な少女を狙ったのか」
アルトゥールは誰にともなく言った。感情を交えずにただ事実だけを言っている冷静さ。
「あなたにはそんな風にしか思えないのですね」
ジュリアはそっとため息を付く。
「この子は幼い頃から親の愛を全く知らず、親戚の家庭をあちらこちらへと移し回されて育ちました。それだけではありません。時には食べるものも着るものもろくに与えられず、些細(ささい)なことで殴る蹴ると、虐待されて育ったのです」
アルトゥールは黙って聞いていた。これは一見、ただのお情けを乞う話に思える。だがジュリアが言わんとしているのはそうではない。それは簡単に理解出来た。
過去に存在した正義と公正の女神ネフィアルの帝国《法の国》。末期には、ほぼ世界の全てを手中にしていた国。その広大な世界には、崇拝される神格はネフィアル女神が一柱だけ。
女神は、公明正大で正しく生きる者を祝福する。
帝国には、それが出来ない者もいる。
それが出来ない者は。
ジュリアンの聖女と呼ばれる若いジュリアン神官は、心の底から、といった感じでため息をついた。
「アルトゥール、この子に償いをする機会を与えて下さい。復讐ではなく当然の裁きであると、そうあなたは言うけれど、『同害報復』などして何になるのですか?」
アルトゥールはそれに対して、直接の返答はしなかった。
「《法の国》末期の情勢がどうだったかなんて誰でも知っていることだ。それでもあえて公正なる法と裁きの女神の教えを、今この時代に復活させたい理由が分かるだろうか」
ジュリアは黙り込んでしまった。その美貌には、心の痛みがそのまま表れている。アルトゥールは、それをあえて無視した。
「ネフィアル女神の報復をその身に受けよ」
アルトゥールが静かに少年に告げると、ジュリアは叫んだ。
「お止めなさい!」
アルトゥールは自分を通して流れる女神の力が阻まれるのを感じた。これが慈愛の力か。だがこれが慈愛だと言うのなら。
「へえ、やるじゃないか」
口に出したのはそれだけだ。アルトゥールは、意外に善戦する好敵手を見るようにジュリアを見た。余裕ありげな笑みだとジュリアの目には見えただろう。
「駄目です! あなたの思い通りにはさせません」
「あなた『達』の、だよ。聖女様。苦労して育てた一人娘を無惨に殺された女の恨みだ」
「だって、この子に復讐しても娘さんは生き返らないし、娘さんは復讐をしてもらって喜ぶような方なのですか」
ジュリアの乳白色の顔に冷や汗が浮かんで流れ落ちる。これを防ぐのは苦しいだろう、ジュリア。アルトゥールはゆっくりと一歩歩み寄った。
「分かっていないな。そうした個人的な思いの話しではないんだよ。それとも分からないふりをしているのか」
「これだけは予見しておきます。アルトゥール。あなたの行く道は、決して決して平穏なものにはならないわ」
ジュリアは、それでも怯(ひる)まずに毅然(きぜん)としていた。
「そんなことが君に分かるのか、聖女様」
「分かるわ。あなたは時に迷い、時に後悔し、時に苦渋の決断をするでしょう。それでも良い結果が出るとも限らないし、人々から感謝されるとも限らない。それでもあなたはその道を行くのですか。私たちの懇願(こんがん)を無視してても」
ジュリアの言う『私たち』が何を意味するか、アルトゥールには理解出来ていた。聖女ジュリアと、その賛同者たちだ。今の腐敗したジュリアン神殿の中で、高潔ともまともとも言える者たち。
「行くよ。行かざるを得ない。たとえこの先に、どんな結末が待ち構えていようとも。それからもう一つ」
アルトゥールは、そこで紫水晶の色の瞳を軽く細めてみせた。
「それに、犯人を赦してもやはり少女は生き返りはしないよ。もちろん分かっているだろうが」
そうしてまた一歩、ジュリアと少年に近くなる。
「そして、死んだ少女自身が復讐を望んでいるかどうか。君は本当にそれを知りたいのか、ジュリア」
ジュリアの深緑の澄んだ瞳が大きく見開かれた。
「少女が復讐を望んでいるとしたら君はどうする? どう思う? 」
アルトゥールは立ち止まったままゆっくりと問い掛けた。彼の濃い紫の瞳が、じっとジュリアを見つめる。
「君『も』この少年のことは赦せても、少女が復讐を望むのは赦せないのか?」
ジュリアは微かに身を震わせた。そっと自分の胸に、ジュリアン神のシンボルである白い小鳩のペンダントに手を伸ばす。
アルトゥールにとっても、決して油断は出来ない状況だった。
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