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ポルノ的な文脈の物語

 先に言っておくと、私はエンタメ作品と芸術的な作品の明確な区別が未だによくは分かっていない。それを前提として、このブログ記事をお読みいただきたいと思う。

 以下に、200年ほど前に書かれた幻想文学について、私が書いたブログ記事をご紹介する。

 おそらくはホフマンの小説は芸術的な作品、つまり純文学的なものとして扱われるほうが多いと思う。

 にも関わらず、幻想的な要素を娯楽的に享受する読者にも受け入れられてきたと考えている。つまり、芸術性と娯楽性を兼ね備えた物語だと言える。

 この物語は呪いや黒魔術的とも言える要素を描きつつ、人間心理の破滅志向について書いていると思う。

 それでなぜ主人公が破滅しなくてはならなかったかというと、自分自身の心の迷いに囚われ、そこから解き放ってくれるはずの、聡明で魅力的な恋人の愛も裏切ったからである。

 こんな風に言い切ると身も蓋もない気もするが、大まかに言えばこうである。

 とは言え、現実はフィクションと異なり嫌な事実も多いわけで、まあはっきり言って、忠告してくれる人物が、そんな魅力的な女性ではないこともあると思う。

 『砂男』の場合は、「こんな素敵な女性を捨てて、馬鹿だな」と大抵の読者が思うように描かれている。

 しかし、現実に心変わりをする場合はどうか? 心変わりするほうも悪いが、されるほうもされるだけの理由はあるなと。そんな感じの出来事も多いのではなかろうか?

 だからそこはドイツ・ロマン派のロマン的な部分なのであり、あまりにも現実的な嫌な面はさすがに出さないのである。

 このあたりのロマンチックな作風が、今日(こんにち)ある面では娯楽性もある小説として受け入れられてきた理由だろう。幻想的な要素と並んで、これも重要なポイントだと思う。

 そしてもちろん、このような手法は、よりエンターテイメント性の高い作品にも使えるし、実際に使われていると思う。

 ここで一つ、さらに娯楽性(エンターテイメント性)に突き抜けるやり方もあるようだ。

 『砂男』に出てきた自動人形のオリンピアは、ある意味では、賢明な忠告を与えるクララよりも、男性が求める理想の女性像とも言えるかも知れない。

 それを作者が風刺して、あのように、主人公以外の目からは滑稽に見えるように書いたのではないか。

 オリンピアの不自然さに全く気が付かず、心の中で理想化して熱を上げる主人公ナターナエルの姿もなかなかに滑稽である。

 しかしそこを「エンターテイメントフィクションなのだから、現実的な知恵や教訓的な要素は一切排除して、従順で美しい理想の作り物の女と結ばれてハッピーエンドになって、何が悪いのか」と、そんな考え方、価値観、あるいは需要もあるらしい。

 おそらくはウェブ小説の主流は、そのような文脈で書かれている。

 通常の娯楽作品よりも、さらに現実的な善し悪しや倫理観から解き放たれた世界。それはたとえR18ではなくとも、ポルノ的な文脈で書かれている物語だと言えるのではないか?

 で、私はそんなポルノ的なエンターテイメントが駄目だとは言わない。ただ、売れていようが読まれていようが、自分で書く気にはなれないだけである。

 ポルノ的なエンターテイメントには悪影響があるとする考え方もある。

 確かに一定の方向性のフィクションだけを摂取していると、長い間には偏りが生じてくる可能性はあると思う。

 このフィクションが特に駄目と言うより、何であれ、一つの傾向性にだけ、極端に偏るのが良くないのではないか?

 それは個別のフィクションがどうこうよりも、受け手側の主体的な行動や選択の問題だと思う。

 つまり受け手側の問題が何とかならない限り、フィクションだけを責めても本質的な解決にはならないと思われる。

 私の個人的な考えは以上である。皆さんはいかがお考えになるだろうか?

 ここまで読んでくださってありがとうございました。また次回の記事もよろしくお願いします。

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片桐 秋
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