復讐の女神ネフィアル 第2作目 『子爵令嬢の図書館』 第5話
ここは薄暗い地下牢の中である。ここに捕らえられているのは、一人の黒い影であった。それはある人々の怨念である、怨念(おんねん)が固まって、生き物となったのである。知能はあるが低く、一定の凝(こ)り固まった思考しか出来なかった。
彼らはそろってずっとずっと、同じことだけを繰り返し語り続けてきた。ひたすらに同じことだけを。決して彼らの言葉に耳を傾けぬ人々に向かって。
彼らはかつては人間であった。今は数多(あまた)の怨念のかたまりとなって生きていた。
魔族のための書を憎み、恨んでいた。魔族の書は彼らに理解出来ぬからであった。
魔族の書の数は減りつつあった。それでもまだなくなってはいなかった。彼らはどうしても、魔族のための書が存在する理由が分からず、まして人間にも読まれる理由が分からなかった。否、分かろうとしなかった。より正確に言えば、分かりたくなかったのである。決して。決して。決して。
ふーふー。ふーふー。
重い息の音が怨霊(おんりょう)たちから漏(も)れた。
自分が好まず分からぬ物でも、他の者には好まれ理解もされる。この至極(しごく)当然のことが、どうしても彼らには分からぬのであった。すべての書物が自分たちに分かるように、好まれるように書かれるべきであり、そうでないものは。
そうでないものは彼らにとっては、他者に読まれるために書かれた物ではなかった。なぜならこの怨念たちにとって、自分たち以外の者は存在しないも同然だからである。
自分たちより難解な本を読める人々や魔族を妬(ねた)んでいるわけではなかった。彼らにとっては存在しないも同然の他者を、どうして妬めようか。
彼らはただ、理解出来ず、理解しなかったのである。
彼らは見捨てられた地下牢にいた。《法の国》の時代の、これも遺産である。だが華やかで優れた文化や文明を感じさせはしない。
ここはただひたすらに薄暗く、陰鬱(いんうつ)な雰囲気が漂(ただよ)う世界だ。陽(ひ)は当たらず、火もなく、寒く、じめじめとしている。
《法の国》末期の建造物である。半壊した中に、怨霊は暮らしていた。影の中に。影のように。
牢屋の壁と鉄格子は壊れていた。それでも彼らは外に出られなかった。自らの思いが作り出した牢獄の幻影に囚われていたからである。
ただ思念をここから飛ばし《図書館》に侵入した。そこにはたくさんの、たくさんの本があった。彼らに理解出来ない本が。
彼らは悪気もなく、ただ自然に、これらは必要ないものだと考えた。彼らはただそう考えたのだ。それが彼らにとって一番当然の、至極(しごく)当たり前の考えであった。
彼らはまったく悪気も害意もなく、破壊衝動も、文化や知への嫉妬もなく、反対に蔑(さげす)みすらもなかった。(自分に理解出来ない物を、役立たずの学問・芸術とみなす人も多いものだ)
彼らはそこにあった本を破壊し、役立たずの本の修復に明け暮れている娘を、ただひたすらに哀れに思って、その生から解放した。つまり娘は殺された。娘の名はアイラーナといった。
今、怨霊はクレア子爵令嬢のもとに向かいつつあった。
クレア嬢は一人で自室にいた。自室は広く、一角には白い大理石の浴槽もある。クレア嬢は、召使いが沸かして運んできた湯を満たした浴槽に浸かっていた。ゆったりと優雅に目を閉じて。透明な湯には、赤に白みを混ぜたような淡い紅色の薔薇の花びらが浮かべられている。一輪分。
部屋には蜜蝋(みつろう)のろうそくの、わずかな灯(あか)りが揺れている。建物の三階にある部屋の窓の一つだけは開いている。レース編みの布が幾重(いくえ)にも掛けられており、仮にこの高さに上れたとしても、外から覗(のぞ)き見るのは不可能である。
そこに忍び入るモノがいた。
《法の国》遺産にいる怨霊から飛ばされた思念である。
思念は怨霊自身と同じく、黒い煙のようである。だが消えもせず、儚(はかな)くもない。
「……! 誰か!」
クレア子爵令嬢は、侵入した何ものかに気が付いた。クレア嬢にはそれが何であるかは分からなかった。それでも恐ろしさや危機はひしひしと感じる。ほとんど本能的な反応と対処。
クレア嬢は助けを呼びつつ湯から上がり、素早く白絹のローブを身に着けた。裾(すそ)はひらりとしていて動きやすくはないが仕方がなかった。着替える暇(ひま)はありそうにはない。
蜜蝋のろうそくを刺した燭台のうち、一本を手にする。剣を持つようにかまえた。女ながらにいささかは心得がある。
怨霊の思念には赤い目があった。今それが現れた。クレア嬢は思い切ってそこにろうそくとその下の尖りを突き出す。
風が起こり火は消えた。怨霊は怯(ひる)んだ。
「助けて、女神の神官様!」
クレア嬢はそう叫びながら、アルトゥールから受け取っていた護符を、怨霊に向かって投げつけた。
裏通りの店で会ってから三日後、アルトゥールはシンシアと共に貴族の屋敷が並ぶ通りを歩いていた。あれから、テルミナールとは、彼が自宅に戻ったきり会ってはいない。
「婚約者のいる貴族令嬢に面会してもらうなんて、ずいぶん思い切ったことをしたのね」
クレア子爵令嬢への援助に関して言っているのだと、アルトゥールにはすぐに分かった。
「そうだな、でも正解だった。最初に当たりを付けておいた通りだった。クレア嬢は身を守れたんだ」
「あれが来るって、確証はあったの?」
「あったよ。でなければクレア子爵令嬢も、僕と面会してくれはしなかった」
それを聞いてシンシアも得心がいったようだ。
「確かにそうね」
と返してきた。
「あえて他に言うなら、僕はあの《クレア令嬢の図書館》の常連だ」
「それは素敵ね」
シンシアはうらやましそうだった。
「君だって行けるだろう?」
「もちろんよ。よほど不潔でだらしない格好でなければ、庶民でも入れてもらえる。そういうことじゃない。私は本が読めないの」
「まさか。ロージェともメモや手紙でやり取りしていると奴から聞いた」
「しているわよ、それが何? 本を読むにはそれだけじゃ足りない」
「ごく簡単な本だってある」
「分からない? あの雰囲気自体が苦手なの」
「雰囲気?」
「そう、雰囲気。本を読むのが好きでなければならないと、そう訴えかけてきている」
「それが不快なのか」
「居心地が悪いのよ」
平民も図書館を使えるが、本を外には持ち出せない決まりであった。煉瓦(レンガ)造りの《クレア令嬢の図書館》の、それが決まりである。読むには館内でなければならない。簡単な本であっても。
「なるほど。そう感じる者もいるんだな」
「なんだかんだで、あなたもそれなりには、育ちがいいのね」
「そうだろうか?」
「落ち着いて難しい本でも読める人間にしてもらえたんでしょう?」
アタシと違って。シンシアの言外の含みには当然気が付いた。アルトゥールはあえて異を唱えはしない。
「ああそうだな。確かに『その点では』恵まれていたよ」
シンシアの方は、アルトゥールの言外の含みには気が付かないようであった。
「どうやって確証を得たの? テルミナールの妹が闇モグラに運ばせた血判状は本物なのでしょう?」
「もちろん。さすがに実の兄の目をごまかすのは無理だろうな」
「バルミドのサイン入りの指示書は?」
「そこだよ。そんな物がなぜテルミナールの手に渡(わた)ったのだろうか? そんな物は、パルミドとその部下が絶対に他の者の手に渡らないようにするはずだ」
「……そうね。確かにそうだわ」
なぜ自分がそれに気が付かなかったのか。シンシアはそう感じているように見えた。すぐに気を取り直して、真っ直ぐにアルトゥールを見つめる。
「テルミナールは嘘を付いているの?」
「それは違う」
「分かったわ。誰かに偽物のサインで騙(だま)されたのね」
「おそらくは、そうだろう。君はバルミドのサインを見たことがあるか? 僕はない。本物を見ても分からないだろう」
シンシアは急に立ち止まってアルトゥールを見つめる。二人して歩いていたが、彼女が歩みを止めると、アルトゥールも並んで足を止めた。
「テルミナールも分からないはずよね」
「そうだ。だがうっかりと信じてしまった。誰でも犯しかねない過(あやま)ちだ」
「分かるわ。私だってそう。もしも心から信頼している人にそう言われたら」
トパーズ色の目は、活き活きと輝く。
「そこだよ」
アメジストの瞳で見返して、口元にはやや皮肉げな笑みを浮かべた。
「テルミナールが、誰をそれほどまでに信じているのかをこれから調べよう」
再び彼ら三人は裏通りの例の店にいた。ここは看板も出さず、したがって決められた名も知られてはいないが、ロージェはいつも『例の店』とだけ呼んでいた。アルトゥールは『裏通りの店』と呼ぶ方を好んだ。『裏通り』には、様々な意味が込められている。
また『裏通りの店』の密談部屋を使った。今度は同じ面子(メンツ)で二度目になるため、使用料を払う。テルミナールが自ら払った。上等なワイン三杯分の代金となる。銀貨三枚だ。
「あなたが最も信頼しているのは、あなたの妹アイラーナをおいて他にはいない。そうよね?」
シンシアのトパーズ色の両眼がテルミナールを見据(みす)える。
「そのアイラーナが一番信頼しているのは、クレア子爵令嬢。そうね?」
「……そうだ。でもなぜクレア子爵令嬢が吾を騙(だま)したと?」
「最初から説明しよう。真相はこうだ」
アルトゥールが横から口を出した。シンシアは、説明を任せる気になっているようだ。何も言わなかった。
「クレア子爵令嬢は、民衆の中にいる、図書館への理解の無い者に悩まされていた。それで策を考えた。暗殺者ギルドに図書館の誰かが狙(ねら)われたのなら、ギルドを忌(い)み嫌う者たちが味方になると考えた。図書館や所蔵された本への思いとは別にね。敵の敵は味方。そうなるように仕向けようとした」
テルミナールは首を横に振った。信じられないと言うように。
「しかし、吾の妹アイラーナの血判状は?」
「あれも嘘ではないだろうが、もう一度文面を思い出してくれ」
アイラーナが闇モグラに託した遺言である血判状の文面はこうであった。シンシアも覚えていた。
「兄さん、私はもう終わりです。私がいなくなっても悲しまないで。バルミドの手下が私を殺した。今、墓場の下からこれを書いているわ。闇モグラにこれを届けさせる。私の仇を討って。
兄さんの愛する妹アイラーナ」
それを思い出して、シンシアは言った。
「そうね、バルミドの手下だと断言できる理由があるとは思えない。暗殺者ギルドの者が、あえて名乗るわけはないから。何かよほど特別の理由がない限りは。それに」
褐色の髪を軽くかき上げながら、テルミナールに対してゆっくりと続ける。
「クレア子爵令嬢は、あなたの妹アイラーナに目を掛けていた。二人は親しかった。身分も種族も越えて」
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