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復讐の女神ネフィアル 第1作目《ネフィアルの微笑》 第3話

 ロージェは黙って何も言わなかった。
 そこに一人男が入ってきた。彼は上階の泊部屋から降りてきたようだった。彼はアルトゥールたちを見るとにこやかに挨拶をしつつ近づいてきて、ザカリアスという名の旅の商人だと名乗った。
「ご一緒してもよろしいですかな?」

 アルトゥールはどうぞ、と答えた。ローブのフードを下ろしているので、彼の闇のように黒い髪と鮮やかな紫水晶のような瞳が露わになっている。その二つの色彩を際立たせるように肌の色は白く、ほとんど血色を感じさせないほどであったが病的な感じは全くしない。

 ザカリアスは丸テーブルの三脚の椅子のうちの残った一脚に腰かけ、メイドを呼んだ。そして薬草茶にブランデーを少し垂らしたものを頼んだ。
「これは体が温まりましてね。ここの宿に来るといつもこれを頼みます」
「いいですね。今日は初夏も近いというのに曇り空で少し肌寒いですから」

 アルトゥールは柔らかな口調でそう答える。彼もそんな口ぶりが出来るときがあるのだった。
「ああ、ところであなたはどちらからいらっしゃったのですか? 遠い国から来た方ですかな」
「違いますよ。僕は元からこの国の人間です」
「そうですか……」

 ザカリアスはおそらくアルトゥールの見慣れない風貌に異国的な風情を感じたのであろうが、その異国的風情が、まさかネフィアル信仰の時代からきているとまでは思い至らなかったのだろう。もう三百年も前、かつて正義と公正な裁きの女神と呼ばれ、今は貶められて復讐の女神と言われる、アルトゥールの女神ネフィアルへの信仰が盛んであった時代から。──何故なら、内面は多かれ少なかれ、外側にも表れるものだからだ。

 まるで普通の人間に成りすましているロージェのことは訝しむ様子もなく、自分たちと同じジュリアン信徒であろうと思い込んでいるのであろう。それもあながち間違いでもないが。
「ひどい事件がありましたね」
 ザカリアスは声を潜めて痛まし気な様子で言った。アルトゥールは頷く。

「あんな事件はね、めったにある事じゃない」
 初老の旅の商人は白と褐色の入り混じった頭を振った。

「犯人は大した処罰も受けず、隔離施設に収容されて終わりになるのですね」

 ロージェはついうっかりとそのようなことを口にした。途端に、これまでは温厚だったザカリアスの顔つきが変わる。

「犯人に重罰を与えて裁こうなどと考えてはなりませんぞ! ジュリアン神が我らをお赦しになったのだから、我らも罪びとを赦さねばなりません! 第一、人を憎み、裁き、罰したところで、被害を受けた者も我々も、決して救われはしないし、幸せな気持ちにもなれんのですからな。赦すのは我々自身のため、そして娘ごを亡くされた母君自身のためでもあるんです」

 アルトゥールは黙って何も答えなかった。その紫水晶の瞳には冷ややかで鋭い光が宿っていたがそれはザカリアスに向けられたものではなかった。
「いや、あの……」
 ロージェはなんとか場を収めようとしたが、彼の『旦那』の方が先に口を開いた。
「僕はジュリアンの赦しを受け入れない。僕は自分が犯した罪で僕の信じる女神から裁かれ、人々からは憎まれてもかまわない。それが僕の交換条件だ」

 それを聞いてザカリアスは、過剰と言えるほどの拒絶反応を起こした。身をネフィアル信仰の青年から引き離すように反らせ、ほとんど椅子から立ちあがらんばかりだった。

「なんということだ! お前は、人というものはこうでなければならないとか、屁理屈で頭がいっぱいでジュリアン神の偉大な愛が分かっていません! あなたはそこをジュリアン神の信仰によって直されねばならない! 」

 アルトゥールはゆっくりと卓上から目線を上げて、ザカリアスの視線を受け止めた。

 ああ、だから僕は、必ず失われた《法の国》の法を復活させると決めたんだ。ただし、それには時間が掛かる。うかつにやれば、《法の国》の過ちだけが繰り返される。
 末期には、過酷な法の処罰により、民心を失って滅びた、かつてのネフィアル女神の大帝国の法を、あえて復活させるのならば。

 アルトゥールは、ザカリアスに向き直った。

「この国にどれほどジュリアンの愛が本当に分かっている人間がいるのか? ジュリアくらいだろう。別に僕はこの腐敗した世界を正すのが、僕一人たけの仕事だとは言っていない」

 ザカリアスが、改革派のジュリアをどの程度評価しているのかは分からなかったがそう言った。

「それにしても、あなたはそんなに自分の罪を裁かれるのが、赦されないのが怖いのか」
 アルトゥールは静かに言った。ザカリアスはぎくりとしたように身体をこわばらせる。

「おやおや、どうやらそちらが本音だったようだな。ならば、自分が害を被った側になれば、決して赦す気にはなれないだろう。まさにその点が問題なのだ」

「まあまあ、旦那」

 ロージェはアルトゥールをなだめるように両手を差し出して、押さえて、というような仕草をした。だが『旦那』はかまわず続けた。

「ザカリアスさん、そんなことを言う神が本当の慈愛と赦しの神であるものか。それなのに、そういうことを言わないジュリアン神官はジュリアくらいだ。そして人々はジュリアこそが真のジュリアンの愛を知り、語れる者だと言っている。僕もそう思う。だが僕はもうジュリアン信仰に戻ろうとは思わない」

「確かにジュリア様はとても寛大でお優しくていらっしゃる。お前のような考えでも頭から否定はなさらないだろう。だが人はいつかは、愛と赦しの世界に生きることを選ばねばならない」 

「なるほどね。それがあなたの『聖女』に対する評価なのですか」

 アルトゥールは薄く笑みを浮かべた。それは嘲笑ではないが、明らかにザカリアスの言葉を重くは受け止めていない様子だった。ザカリアスはそれを見て取るといたたまれないように立ち上がり、そっとその場を離れていった。卓上に彼の残したまだ温かい薬草茶だけが残った。
「馬鹿な神官たちの馬鹿な教え方であの男のような者が大量に発生してしまった」
 アルトゥールはそう呟いた。

 いや、違うな。例え神官たちのすべてがジュリアのようであろうとも、それでもジュリアンの教えを正しく理解しない人間は出てきてしまうだろう。それも少なからず。そしてそれはおそらく、僕の女神の信仰が、再びジュリアン信仰に取って代わっても同じことだ。理解しない者はどうやっても理解しない。

 その夜は宿に泊まり、あくる朝早くにアルトゥールとロージェは隔離施設へと向かった。
そこは一応街の外壁に囲まれた中にあったが、追いやられるように茫々と草木の茂った空き地の片隅にあり、どんよりとした曇り空のような灰色の石造りの四階建ての建物は、まるで巨大な墓場のように見えた。生きている者のための住処とは思えない何かがある。静かで閉ざされていて、ひたすらに沈黙と内省を強いられる場所。そこが<赦しを願う人の家>と呼ばれる場所なのであった。

 二人はゆっくりとそこへ近づいて行った、鉄製の頑丈そうな門のところに一人だけ門番が立っていた。その女はマリエラと同じくらいの歳に見えた。灰色のお仕着せを着て、武器となる樫の木の棍棒を腰に下げ、退屈そうにたたずんでいる。アルトゥールたちが近づいてゆくと、彼女は不審そうに二人を見た。こんな早朝からこんな所に来る者は、確かに不審がられても仕方ないだろうとアルトゥールも思う。

 女の後ろには大きな鐘があった。それを鳴らせば応援が内部から駆けつけてくる。この国の女は強い者は本当に強い。男並みに戦える者などいくらでもいるが、それでも万が一ということもあるのだ。

 アルトゥールは女から少し離れたところで立ち止まり、静かに声を掛けた。その時相手の目をじっと、穏やかに見つめる。
「ここへ慰問に来ておられる聖女ジュリア様にお会いしたくて参りました。彼女の愛と奉仕の精神を学びたいと思い、無理を言って神殿の方からここへ来る許しをいただきたいのです」
 我ながら怖気の来るような言葉だなとアルトゥールは思ったがもちろん相手に分かるはずはない。

 アルトゥールは女の顔を見た。見て、返事を待った。

◎◎◎◎◎

続きはマガジンにてまとめてどうぞ。


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