復讐の女神ネフィアル 第1作目『ネフィアルの微笑』 第1話
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暗い灰色ばかりが視界に入る街がある。ジェナーシア共和国の中部に位置する、大きな河川沿いの街だ。
河川には様々な舟が行き交い、人々や物を流れに乗せて運ぶ。大抵は商用だが、単なる楽しみのために旅する者も少ないが全くいないわけではない。
街の名は《暗灰色の町ベイルン》。見た目そのままだ。街の建造物や河に掛かる橋、道の全ての石畳も、暗い灰色だけの街であった。
アルトゥールは、理由(わけ)あって今では《復讐の女神》と呼ばれている、ネフィアルに仕える青年神官である。
ネフィアル女神に祈りを捧げ、依頼してきた者に会いにこの街に来た。依頼人は貧しく、つつましく暮らしているようであった。誰の助けもなく、誰からも忘れられた存在である。
表通りから裏通りへと入り、さらに脇道へと踏み入る。
とても小さく、今にも崩れそうなほどに古びた家があった。アルトゥールは知っていた。すべて女神から知らされていたからだ。
ベイルンでは灰色の石造りの家が大半を占める。だがアルトゥールがたどり着いた家は木造で、半ば朽ちかけていた。
近くの道端で子どものための人形劇が行われている。
街から街へ、村から村へと巡回して回る人形遣いの夫婦らしき二人組がいた。
古(いにしえ)には、アルトゥールが仕える公正の女神ネフィアルの加護を受けた聖なる騎士が、諸国をめぐって悪を討つといういうお話が人気であった。
今はそんな物語が上演されることはない。
力による報復を賞揚するような話は、愛と赦しのみで満たされるべきこの世界に、まったくふさわしくないからという理由で、ジュリアン神殿から禁止されていた。
アルトゥールの目の前で行われている人形芝居は愛の物語であった。貧しい娘とジュリアン神に仕える騎士の、純粋な愛の物語。
それがいけないなどと言うつもりはない。
では、何がいけないのか?
アルトゥールは、人形劇とその周りに集まる親子を、長く気に留めてはいなかった。他にやらねばならないことがある。
見つけ出した依頼人の住まいの前に立ち、声を上げた。
「僕はアルトゥールだ。ネフィアル女神の命によりここまで来た」
どうぞお入りください、と声が聞こえた。か細く力のない声だった。
ネフィアル女神の神官は、そっと扉を開けて入っていった。鍵は掛かっていない。
紫水晶の色の瞳で室内を見渡す。
中はどんよりと濁った空気で満たされていた。もう何日も換気すらしていないのだろう。床には埃(ほこり)が積もり、アルトゥールの歩みに合わせて舞い上がった。
青年は着ていたローブに付いているフードを後ろに跳ねのけて、黒い髪をあらわにした。髪は背中の真ん中まで、真っ直ぐに伸びていた。
狭い部屋の奥に、古ぼけて脚の長さが違う椅子二脚と卓がある。女は一方の椅子に腰かけていた。アルトゥールが近づいてゆくと立ち上がり、よく来てくださいましたと言った。
女の名はマリエラ。ネフィアルの神官は知っていた。マリエラの方もネフィアル神官の名を知っていた。マリエラが願いをささげたネフィアル女神が、彼ら二人にそう告げたからである。
「娘のことを、あなたはご存知ですね?」
マリエラは震える声を絞り出した。
「女神から告げられました」
マリエラはよろめきながら、アルトゥールのために椅子を引いた。彼は勧められるままに腰を下ろす。依頼人の顔を見つめた。
マリエラは、長いスカートと長袖の上着姿だった。どちらもくたびれて、ところどころに接ぎが当てられている。
染めも脱色もない生成りの羊毛から作られた布の服。飾り気はなく、質素というよりはみすぼらしい。接ぎを当てた布を縫った糸も、ほつれて端(はし)が抜け出ていた。
「何かお飲みになりますか」
マリエラの言葉にアルトゥールは軽くうなずき、井戸水を受け取る。
彼女のような貧民が、自前の井戸を庭先に所有しているはずはない。遠く離れた共用の井戸で苦労して汲(く)んできたのだろう。すでに数日は経っているらしく、鮮度はなく、埃(ほこり)の味と匂いがした。
アルトゥールは、女神から彼に授けられた《神技》を使う。
木製の古びた椀(わん)に入った水が透明な赤に染まっていった。アルトゥールは黙ってそれを差し出した。貧しい女は目を見開いてそれを受け取る。その手は震(ふる)えていた。
「これはワインではありませんか!」
「このジェナーシア共和国の議会に参加する資格のある貴族であっても、容易には手に入れられない上等なワインだ」
マリエラはただ呆然としている。
そんな依頼人に、柔らかい白パンと、魚の焼いた切り身を差し出した。マリエラは口もきけないほどに驚いている。
「なんという素晴らしい奇跡。かつてジュリアン神がこの世界に人の姿を取って降誕された折に、御自ら起こされた様々な奇跡です。こんなことは、ジュリアン様に仕える神官たちの中でも、特に際立って高位の者にしか出来はしません」
そして今は、そんな高位の神官はほとんどいない。わかくしてその力を持つのは、かの聖女ジュリアのみである。
「『むしろ冷たいか熱いかであってほしい』と。これは強い信念のなせる業だ」
マリエラが、ネフィアル神官の言葉のどれほどを理解出来たか。彼女はただ手をふるわせて、彼を仰(あお)ぎ見た。
パンは白く柔らかそうだった。庶民や貧しい者はライ麦の黒く固いパンを食べる。白く柔らかいパンはめったに口に入らない。魚はマリエラが見たことのない物だった。
「それは鱈(たら)といって、海の魚だ」
ジェナーシア共和国は海から遠い内陸の国である。近くを流れる大河の魚以外をマリエラは食したことがない。アルトゥールはそれも知っていた。
「ありがとうございます。私は本物の慈悲を知りました」
女の目に光るものが見えた。女はそれを前掛けで拭(ぬぐ)う。マリエラは語り始めた。
「私のたった一人の愛娘は、見知らぬ男に襲われました。持ち物を奪われるだけならよくあること。でもそれだけでは済みませんでした。強姦され、殺されたのです」
マリエラはここで言葉を止めた。しばらく黙ってから、また語り出す。
「娘はまだ子どもです。ほんの子どもなのです。ジュリアン神官たちは私に犯人を赦(ゆる)さなければならないと言いました。ジュリアン神は罪深い我らを全員お赦しになったのだから、我々も他の者を赦さねばならないと」
私も娘も、確かに罪深い人間ではありますが、と老女は付け加える。
「ジュリアン神の果てしない慈愛と慈悲はその罪深い犯人をも赦し給うのだからと」
中年の女はため息をついた。深く、言い知れぬ強い思いが込められたため息を。
「あなたと娘がが赦されるために、犯人を赦さなくてはならないと言われたのだろう?」
「はい。私はジュリアン神への信仰を捨てました。あなたの女神に助けを乞(こ)うたのです」
アルトゥールは答えて言った。
「僕はあなたの依頼を受けて、今ではジュリアン神官が『復讐』と呼んでいる行為を代行する。そのために必要な代償はただ一つだ」
「はい。存じております」
「あらためて言おう。ジュリアン神の救いと赦しを拒み、あなたもまた女神の裁きを受けると誓うことだ」
紫水晶の色の瞳で、同情も見下しもなく貧しい老女を見下ろす。
「そうすれば遠い昔にジュリアン信徒によってその信仰を禁じられた我が女神ネフィアルの、同害報復の力が僕を通して神技として働く」
「誓います! 娘のためなら私が裁きを受けることなどなんでもありません」
「分かりました」
アルトゥールは静かに答える。
「ありがとうございます……! 」
アルトゥールはマリエラの家を辞(じ)した。犯人はすでに街の警備隊に捕らえられ、<赦しを願う人の家>と呼ばれる隔離施設にいる。
もう彼は人に危害を加えることは出来ない。
それでも女神の裁きを与える。
アルトゥールは冷徹なる決意を胸に、すでに夕暮れ時の濃い黄金の陽光が街を満たし始めた中を歩いて行った。
表通りに出ると、仕事が終わってジュリアン神殿に立ち寄る人々の群れに遭遇する。
口々にジュリアと呼ばれる若い女性神官のことを話している。アルトゥールも知っている名である。
『ジュリア』という名は、彼女が孤児院に引き取られた時に、ジュリアン神の名の女性名を名付けられたものだ。
その名の通り、彼女は特別な女性に育った。と、裁きの女神と呼ばれるネフィアル女神の神官は思う。
「今回は、ジュリア様が壇上でお話をなさるかしら」
そばかすを頬に浮かべた娘が、期待に満ちた様子で自分の周りにいる同じくらいの年頃の三人の若い男女に話しかけた。
「無理でしょう。壇上で説教が出来るのは神官長とそのお気に入りの神官だけよ」
「ジュリア様がこの街の神殿の神官長になってくださったらなあ。どんなにか素晴らしいだろうに」
「今の神官長とその取り巻きの面々の話なんか、まともに聞けたものじゃないよな」
アルトゥールは黙って彼らの会話を聞いていた。
彼らは口々にジュリアン神官への不満をあらわにする。ジュリアン神殿の夕刻参拝をして、聖女ジュリアを心から慕う者たちだ。
ゆえに、決してジュリアン神殿への忠誠心がないわけではないのだが。
いや違う、忠誠心あるからこそ、裏切られ続ける痛みは、なお強くなるのだ。アルトゥールには、それが分かっている。
今はぜひジュリアに会って、自分の目的を知らせなければならない。ネフィアル神官の青年はそう思った。
続く
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