興味の持てない名曲『矢切の渡し』
細川たかし『矢切の渡し』
作詞は石本美由起、作曲は船村徹。
元々は、ちあきなおみの歌として一九七六年に発表されたが、B面ということもあってか余り陽の目を見なかった。後に梅沢富美男が女形で舞って注目され、各社競作という形でヒットした。なかでも細川たかしの歌唱したバージョンが最も売れ、一九八三年の日本レコード大賞に選ばれる。細川は前年に『北酒場』で同賞を受けており、初の二連覇となった。この時期の細川は脂が乗りきっていた証でもあろう。
矢切の渡しとは、東京と千葉の間を流れる江戸川の此岸・葛飾区柴又と彼岸・松戸を結ぶ渡し舟のことである。親に結婚を反対されている男女が駆け落ちする道行き、柴又を去り川に隔てられた未来へ手を携え進む、という内容である。
さて、私はこの『矢切の渡し』に今ひとつ興味が持てないでいる。歌詞に共感できる訳はないし、聴けば明日への希望を掴める訳でもなし、巷で常に流れていて皆が歌っている訳でもない。私には関係ない。
この曲は「演歌」というジャンルが曲がり角を曲がったことの象徴のような──つまりは重要な曲であると理解できるのだけれど、好きになれない。別に嫌いでもない。
はっきり言って、この曲は技術を聴く曲である。冒頭の二連──「つれて逃げてよ……」「ついておいでよ……」という二人の科白に込められている感情を如何に表現するか、続く風景を如何に立ち上げるか。その技量を聴くのである。少なくとも、ちあきなおみ版の『矢切の渡し』は、そうだった。
「夕ぐれの雨が降る」という風景をちあきが歌う時、川面には水煙が立ち、湿りが仄かに二人の身体を温めることを思せるのである。
では、細川の歌はどうか。「つれて逃げてよ……」「ついておいでよ……」という科白は見事に歌い分けられている。しかし「夕ぐれの雨が降る」は、ちあき程の奥行を持った歌唱になっていない。これは二人の歌手の技量の問題であるというよりも、二人の歌手の資質の問題ではないか。
阿久悠は、『矢切の渡し』をこのように評する。
《メルヘンとしての演歌》は、八十年代以降よく見られるものではないかと思う。細川が前年に発表した『北酒場』もある種のメルヘンであろうし、梅沢富美男の『夢芝居』は正しくメルヘンではないか。
ここで注意しなければならないのは、演歌がメルヘンを歌うようになったのではない、ということである。演歌は以前と同じ作品世界を歌っていたのだが、その世界が現実から乖離して、メルヘンに成ってしまったのである。これは演歌が様式化した関係、様式化したモチーフ、様式化した感情を歌うジャンルである、と人々に思われていたからだろう。
例えば、八代亜紀の『もう一度逢いたい』は、去って行った男を忘れられない未練を、港町の女と船乗り(マドロス)の物語として歌にしたものである。こうした仕立てのマドロス歌謡が流行ったのは昭和三十年代のことで、以降技術革新によって船舶による輸送に要する人手は少なくなって、マドロスという存在そのものが激減した。この舞台や道具立ては、もちろん港町でなくても良い。しかし演歌だからこうなる。
話を『矢切の渡し』に戻そう。細川とちあきの歌唱では、共に「親のこころにそむいてまでも、恋に生きたい二人です」をビブラートを効かせて高らかに歌っており、聴かせ所という印象が強いのだが、ちあきなおみの表現の真価は、どうしても「夕ぐれの雨が降る」の部分において発揮されているように思えてならない。
ちあきなおみの歌唱は前半がドラマ的だと思う。「つれて逃げてよ……」「ついておいでよ……」は正しく二人の人物の会話であり、「夕ぐれの雨が降る」は風景の説明である。説明に質感を与えて描写とするのが、ちあきの技だ。「矢切の渡し」というタイトルを歌い上げた後に続く「親のこころにそむいてまでも、恋に生きたい」は心情の吐露のようであるが、「二人です」と結ぶことによって、第三者視点からの説明であることが分かる。歌詞をブロックに分けてみよう。
ちあきなおみは、①②をリアルに歌う。リアリズム的に歌へ迫ることで、歌世界に奥行が生まれる。しかしリアルな道行きの世界には、二人が親のこころにそむいて駆け落ちしていることを説明する存在はいない。したがって「矢切の渡し」と歌った後はロマンチックに歌はざるを得ない。今一度ちあきの歌を聴くと④は、どこか芝居がかっているように聴こえる。
一方の細川たかしの歌は、どうか。①の歌い分けが明確になされていることは、先にも述べたけれど、ちあきなおみと比較すると演出が軽い。以降の歌い方も③で盛り上がりはするが、案外に平坦である。いや、平坦と言うより全体に軽いと表現したい。
細川は後に発表する『浪花節だよ人生は』など声を張った歌唱が魅力の歌手である。その細川たかしが、なぜ軽く歌うのか。
私には、ちあきなおみがドラマとして『矢切の渡し』を歌っているのに対して、細川たかしはメルヘンとして『矢切の渡し』を歌っているように思えてならない。
感情を込めて歌うことによって、重みが増すと歌は現実に近づいて、ベタベタの詰まらない芝居になる。軽く歌って平板なイメージを提示することで、奥行はないけれど親しみやすく寄り添いやすい歌になったのが、細川たかしの歌唱ではなかったか。
これは演歌が様式化していることとも繋がっているように思える。多様な人間模様を提示するのではなく、ある型通りの風景、もの、人間を見せることで人々は安心して歌に寄り添える。
ドラマ的なちあきなおみ、メルヘン的な細川たかし、という二つの──もしくはもっと複数の──『矢切の渡し』が一九八三年の日本には流れていたのである。
長々と分析(?)してみたが、こんなもの、だから何だ、という話以上のものではない。私には関係ない。
しかし、この曲が名曲なのは、私にも分かる。こういう関係ないけど良いものが、人々の耳に入り込むこともなく、ただ存在しているだけで触れられないというのは、なんだか勿体ないとも思うけれど。
本当に検討するべきなのは、なぜちあきなおみが演歌(=ドラマ)を歌わなければならなかったのか、ということかも知れないけれど、それはまた。
最後に制作者の話もしておこう。作詞の石本美由起は、小畑実『長崎のザボン売り』岡晴夫『憧れのハワイ航路』などで登場した戦後歌謡界を牽引する存在である。
その仕事のなかでも特に目を引くのが、美空ひばりに提供したマドロスものの作品群である。『憧れのハワイ航路』以来、海や船乗りの歌を得意とした作家という印象が強い。
しかし一九七六年に至って、『矢切の渡し』を作るのである。ディスカヴァー・ジャパンの機運は六十年代から維持され、七八年には山口百恵の『いい日旅立ち』をキャンペーンソングにして国鉄が「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンの第二弾を打ち上げるのが、時代の空気である。
海の作家だった石本美由起は、川の作家になった。共に海を歌い続けた美空ひばりも最晩年には川を歌い、死後は川の歌手になった。
海から川へと遡り、その先に何かあったのかしら。