理解できないこと。それこそが美しい。
変わった人が、好きだ。
僕はそういう人間である。
なんか笑えちゃう個性があるな。なんでそんなことにそんな興味あるんだろう??どうしてそうするの??僕にはわからない。
そういう出逢いに巡り会えた時、いつも僕は愉快で幸せな気持ちになる。
予測できる漫画やドラマの結末なんて、面白く無いのと同じで、自分の理解の範疇にある物事に触れたとしても、僕の心は踊らない。
意味がわからないから、面白い。
よくわかんないけど、なんかいい。
そんな感覚が、自分の深い部分にあるんだろうなと思う。
ヘラルボニーさんの動画を見て、感銘を受けた。
知的障害を持つ方々は、できない部分にばかり目を向けられて、これまで肩身の狭く、苦しい思いをして来たことも多かったと思う。
けれども、彼らは何かを大きく失った変わりに、大きな何かを手にしている。それに社会や世の中が気づけず、才能が埋もれていただけだったのだと思う。
その意味で、ヘラルボニーというアート作品や、ムーブメントが注目されていることの社会的意義は計り知れない。
そして僕は、何の関係もないのに、勝手に嬉しくなってしまう。
アートはそもそも理解するものではなく、感じるものであり、受け取るもの。
僕はアートにすごく興味があるわけではないけど、漫画作品に人一倍興味があるので、なんとなくわかる。作品に込められたストーリーや、作家さんの息遣いや思想が感じられる時に、とても嬉しい気持ちになる。
多彩で多様で、だからこそ素敵だなと感じ、美しさすら感じる。人間という姿形は同じであっても、中身で感じて考えていることや表現したいことは、まるで違うんだなあと知れた時に、楽しくなってしまう。
仕事の中で、嬉しくなったり感動する瞬間は、その子の個性が輝きを放ち、その表現が誰かの心を照らしたり、誰かのキッカケを産むような感動や刺激を届ける瞬間。
まさに、「異彩を放ち」、その人の中から繰り出されるアウトプットが人に何かを届ける瞬間に立ち会えることは、格別の幸せである。
世の中はまだ気づいていない、輝くダイヤの原石や、評価されてない価値に出逢い、それを広げたり知ってもらう活動をしていくことが、僕のwillなのかもしれないと、改めて感じた日だった。
久しぶりに、自分の内面と深く対話をしている感覚がして嬉しい。
何かグッと来る瞬間や転機が、もう少しで訪れそうな予感もしていて、これからの未来に胸が高鳴っている。