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引越し前夜と僕の抱えていく鬱について

明日(日付変わったので今日)、引っ越します。
何もかも中途半端なまま過ごしてきた5年間でした。
そして何度も死のうと思ったまま何故か生きてきた5年間でした。


築50年近くなるボロボロの平屋に住んで5年。全く友だちもいない土地に急に暮らすことになった2017年7月から今日までの日々。
埼玉の北浦和という土地に愛着も湧き、地元の美味しい定食屋さんだとか、何気なく見かける保育園児たちの大群、閑静な住宅街、近くにある普通の銭湯。
正直、どれをとっても僕の愛する街そのものになっていました。このままずっと住み続けたいな〜〜いや〜〜お家最高〜と思っていました。

パーキングの隣にポツンと建つボロい家



そう思っていた矢先、僕の目の前に現れたのは罠(トラップ)カード!!「立ち退きの打診」!!!でございました。

打診と書きましたがこれはほぼ命令に近く、内容としては、
「引越し費用は最低限出すので、即刻立ち退いてほしい。それが無理なら裁判」
という内容で、相手は大家さん兼、高名なお医者さん、お金もあるし裁判と言うのなら本当に裁判する方、らしい。
実はこの方、正確には大家さんの息子さんで、本当の大家さんはこの方の母親。母が施設に入ったタイミングでオラァ!この土地はマンションにするから出ていけ!!と言い始めたと言うわけです。

そんな大きな社会的パンチ、金持ちのお金パンチに抗えるはずもない社会的弱者の僕はへいこら従うことしか出来ず、退去の道を選んだ訳でございます。

元々は縁があって住み始めた街で、今では何の縁もゆかりもない街になりました。居座り続ける理由もない。

と言うのも、またこれが色々あった訳でございまして、夜中なので、すいません僕のただの雑記用のブログなので、少々昔話を書かせてください。



元々は6年前、東京、世田谷区に住んでいた時の頃、

当時の僕はバンドで死ぬ、と思うほどに毎日音楽活動に必死で、CD全国発売!タワレコでインストアライブ!全国ツアー!テレビ出演!なんて華々しいことで鼻高々、天狗になっていたと思います。
そう、高くなった鼻のモロさにも気づかずに、薄っぺらいプライドや小汚い媚びへつらいなどが上手になっていた日々。
それが早々に終わるとも知らずに、調子をぶっこいていたわけです。

そのアルバム関係云々が落ち着いてきた頃、
燃え尽き症候群みたいな状態になっていたと思います。

曲が作れない、次の新譜が出せない、何故だろう。
ライブも頑張る!というよりこなす、という日々になっていた気がします。
ただ曲を出そう!レコーディング!と言い書いた曲を持っていく日々。
書けない曲を無理やり書くものだから、出来が悪いと一蹴され、メンバーが1人、2人と抜けていき、バンドが立ち行かなくなってきた時、ちょうどその時だったように思います。

朝起きたら体が動かない。信じられないほどに体が重い。悲しくもないのに涙が出る、動悸が止まらなくなる。眠りが浅い。挙げ句の果てには眠れない。

この時点でおやおや〜?おっかしいな〜?と思い心療内科に行きました。

「うつ状態」であると言われました。うつ状態?なんやそれ。
うつ状態とは、簡単に言うとうつ病に近いとされながらその状態になってからまだ日が浅いことを言います。うつ病の一歩手前ってことですね。
ここから僕の人生の生きづらさ、希死念慮との長い付き合いが始まります。(正確には現状僕はうつ病と診断されている訳ではございません)

それからと言うもの、毎日ツラいんや、死にたいんやと言う僕に付き合わされる彼女には「重いから無理」と言われフラれ(当たり前やで)
家から出られなくなる日々が3ヶ月ほど続きました。

働きもせず、眠れない為3日間ほど連続で徹夜をし、気絶したように3時間眠り、また3日間徹夜、何も食べずに水だけ飲んでたまに思い出したようにパンを1つかじり、お金もない為家賃も滞納。
なんというか、廃人になっていたと思います。
家の保証人であった両親に連絡が行き、父親が家に駆けつけてくれました。

僕はあろうことか父に「死にたい、殺してくれ、もう無理だ、殺してくれ」と泣きながら困窮しました。
当然家は引き払い、実家に戻り療養することに。

それからは毎日、生きづらいと思いながら過ごす日々でした。
僕にとってはそれが当たり前で、それが僕の普通になりました。
死にたい、生きづらいと思うのも僕の中では、当たり前になりました。

それでも何とかバンドを続けていたのは意地でしょうか。
多分「俺には音楽しかない」と酔っていたんだと思います。

そんな日々に慣れた頃、あるひとつのインターネッツ情報を鵜呑みにした僕が埼玉に移住することを決めました。
そのインターネッツ情報とは「うつは誰かに叩き直してもらって治せ」みたいな文言だったように思います。
アホか。荒療治。こんなん鵜呑みにしないでくださいね。

そしてそれを鵜呑みにしたアホボケカス僕は、早速当時のマネージャー様に「友人と一緒に住める家を紹介して」と無茶振りをし、
「レーベルが倉庫として使ってる古い一軒家がある」と答えてくれた優秀すぎるマネージャー様。

それが現在の北浦和にあるボロい一軒家です。
今は無き北浦和KYARAというライブハウスがありました。不動産業も営んでおりまして、
埼玉の一部の音楽シーンを担っていたと言っても過言ではない素敵なライブハウスでした。
いわゆるコネで、この家を借りさせていただきました。
男3人で住み始めました。

新しい生活、心の安定?を得たかと思ったのも束の間、また挫折を味わう出来事がございました。


アルバムを出そう!と言うマネージャー様の鶴の一声によってひいこらひいこら言いながらまた曲を作る日々に追いかけまわされることになり、12曲、なんとか完成させてレコーディングに臨んだわけですが、
レコーディングが全て終わったあと、マネージャー様から出た言葉は「うーん、全曲録り直しで。曲も変えよう」という内容でした。

自分でも分かっていました。ひいこら言いながら書いた曲や、練習不足が明らかなまま臨んだレコーディング、いい作品が出来るわけがありません。

僕はこの時、ボキッと心の中で何かが折れる音をはっきりと聞きました。

それを機に僕は一切のバンド活動を辞め、音楽関係の方々との連絡を断ち、
次いで一緒に住んでいたルームメイト達は引っ越して行きました。
これも何と言うか、色々複雑なんですが、まあ本当に色んな方々に迷惑をかけた、ということだけが事実です。申し訳ない限りでございます。

そしてそれからもうすぐ4年経つのかな、
去年僕は死のうと心に決めて、このnoteを始めたわけでございます。
その件でも沢山の人に迷惑をかけましたし、本当に本当に申し訳ない限りです。
いい思い出、として笑い話にしていい話ではございませんが、結局、現在も生き残っています。

バンドを辞め、空白の3年間を過ごし、バンドをまた始めたと思ったら死ぬだの何だの言いながら結局生き残り、
交通事故に遭い肋骨が肺に刺さって死にかけても尚生き残り、
サラリーマンになったと思ったらADHD丸出し、医師に診断を受け、クソ病んでわずか半年で休職、
クソ病んでいる中、立ち退き命令で慌てて引越し、
職なし、金なし、甲斐性なし。
という現状です。

長々と昔話にお付き合いいただきましたが、結局5年間、この家に住み続けました。
中途半端な人間のまま、この家を旅立ちます。

正直に言うと今もいつでも死ねる、と思っております。
逆に言うといつでも死ねるからこそなんでもチャレンジ出来るぞ!とも思っています。

まだまだ道半ば、これから何でもできるぞ!
と思う反面、
この長い旅路はいつまで続くのだろうと、疲れてきている自分もいます。

人生を全うしている、というよりも僕が人生に振り回されている感覚がずっとまとわりついて離れません。

何度死のうと思ったのでしょうか、
死のうと思ったのに何故死なないのでしょうか、
翻弄される毎日に辟易しているのに何故今日も生きることを選び続けるのでしょうか。

僕はこのふんわりとした鬱とこれからも付き合っていくんだと思います。
真綿で首を絞められるように苦しみながら生き続けていくんだと思います。

それでも生きています。人生という激流に翻弄されいっそ死にたいと思いながら尚、生きています。

自分に何が出来るのか、自分は誰のためになれるのか、自分の人生の役割はなんなのか、
優しくなりたいと願い続け、いつ優しくなれるのか、
大事な人のことを守れるのか、色んな人に迷惑をかけ、それをどう償っていくのか

人生の命題です。

もうすぐ夜が明けて、また人生に翻弄されながらなんとか生き延びていくのでしょう。
その中で、生きづらい中で、苦しみながら生き続ける中で、
生きているならば、この命の炎をなんとかして燃やしてやろうと、燃やし尽くしてせめて灰になった時に死んでやろうと、そう思います。

その灰になった僕を誰かがいつかほんの少しだけ思い出してくれたら幸いです。

人生は冒険や!!!!!!!!!
つーか、これからっしょ!!!!!!!!

地獄のネットミームで締めくくって寝ます。

おやすみなさい。

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