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日記

2020年4月、東大寺の森本公穣さんが「新型コロナウイルス感染症の早期終息と、罹患された方々の回復、亡くなった方々の追福菩提のため、宗教・宗派を超えて共に祈ります」とツイートしているのを見て、2022年に亡くなった祖母の葬儀を思い出した。当時、まだ結婚前だったが、今の夫が祖母の葬儀に来てくれたことが心に深く残っている。

祖母は生涯を通じて、家族や親族のために祈り、利他の精神を大切にしていた。その影響で、私も家族や親類のために祈るようになった。葬儀の際には、祖母がいなくなる悲しさを感じながらも、彼女が残してくれた思い出を心に刻んだ。また、夫の優しさに感謝する日々が続いている。

父方の祖母も同様に、私や親族のために祈りを捧げてくれていた。私の主観では、祈りとは「頑張っている人をそっと励まし、優しさを促す」行為であると感じている。

両家の祖父母が私の病気や家族の受験など「大切な時」に対して多くのお布施をし、祈ってくれたことは、彼らの利他の精神を示すものであったと理解している。しかし、私は「祈りでは精神的な病は治らない」と実感しており、「お布施に無駄なお金を使わないでほしい」と感じることもあった。それでも、祖母たちが祈ることで心が安らぐのであれば、私はそれを否定しない。価値観を理解し受け入れるには時間がかかったが、今では尊重している。宗教者の祈りについては、その利他の精神には感銘を受ける。

新型コロナウイルスのパンデミックがひどかった時期には、多くの人間の苦しみや闇を目の当たりにした。だからこそ、祈るという行為が優しく、素晴らしいものだと感じる一方で、どこか無力さも感じてしまう。それは、「精神的な病」は宗教だけではなく、精神保健福祉を学んだ医師や薬、そして周囲の人のサポートによって改善されたからだ。祈りと医療とのバランスを取ることは難しいが、自然や人間の営みに対する何かしらの力を感じている。亡くなった時に、宗教の指導者が祖母二人の葬儀に来てくれたことも忘れられない。

父方の祖母は多くの人と生前に関わっていたが、葬儀の際には新聞に掲載しなかったこともあり、知人がほとんど来ず、寂しい葬儀だった。彼女は生涯を家族のため、家のため、そして、社会で出会った人々に尽くすことや、無償の愛情を注いでいた。見返りを求めることはなかったが、その優しさが葬儀で報われないことに無情を感じた。最期には、精神的な病に苦しむ娘(私のおば)を残していくことを心配していたが、その愛情は感じられなかった。

夫が私の母方祖母の葬儀に来てくれた時、私が亡くなった人を思い、涙を流す姿に驚いていた。

私は彼の前ではいつもワガママだったため、誰かを大切に思う姿を彼に見せたことがなかった。祖母たちから多くの愛情を受け、よくしてもらったにもかかわらず、私はその感謝の気持ちを十分に返せなかったと感じ、今でも後悔している。祖母の「老い」や「認知症」を受け入れられず、弱くなっていく姿を目の当たりにするのが辛かった。

私は自分の幸せばかりを優先し、祖母が毎日見舞いに来て欲しいと頼んだにもかかわらず、それに応えることができなかった。その結果、私は自分を裏切り者だと感じ、行動が母や姉よりも冷たいと感じた。

結婚式を祖母に見せることもできず、彼女がずっと望んでいたことを果たせなかったことも後悔している。祖母たちの愛情と教えに感謝しながらも、私はその思いを十分に返すことができなかった。


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