本に救われている。

今は夏休みである。大学に入ってからの夏休みは4回目で、なのにわたしはあともう2回夏休みを迎えないといけない。気にしてももうどうしようもない事実が頭に纏わりついて、慌てて首を振る。いつか蝉の鳴く声を聞く度に、この焦燥感や憂鬱さを思い出すのだろうか。

夏休みは引きこもると決めて、バイト以外はほとんど家で本を読み過ごしている。読みたかったけど日々の忙しさに追われ読めなかった本を読めて、充実感。小説を読んでいるときは心の中がスッとする。わたしが言葉にできない感情の形がどんどん身体に流れ込んできて、ひとりではないと気付かされる。作家さんは本当にすごい。

これは今読んでいる凪良さんの小説に書かれてある一文で、印象に残った文だ。
「他の連中が知らないことを、俺は知っているのだと。それが宝石だろうが汚物だろうが、ものを書く上では同じ宝の山となることを。」

わたしはこの文をこの先何度も読み返すだろう。

まさに枯渇した愛を埋めるために必死だったこれまでの人生は決して綺麗なものではなく、人には言えないどろどろしたまさに汚物のようなものばかりだった。トイレで食べるお弁当、行ってきますと家を出て駅で脱いだ制服、辛くて切った腕から流れる血の匂い、飛び降りれない恐怖、食べ物を大量に食べて吐くときの無の感情。

これらは捨てたいのに捨てられないゴミ。だけど、このゴミにも宝石と同じ価値がある、ということなのだ。「それが宝石だろうが汚物だろうが」という言葉は「汚れていてもいいよ」より温かくて受け入れやすい。

「雨に打たれる気持ちを知っていれば、雨に打たれる人の気持ちも分かる。」
別のある本に書かれている好きな言葉だ。知りたくなかった経験も、知ってしまったことで同じ経験をしている人の気持ちが痛いほど分かる。「ものを書く上では同じ宝の山となる」というのはまさにこれなのだろう。

あー。やっぱり本にはどうしようもなく救われてしまうな。作者のメッセージに心がすーっとして、内に溜めていた大きくなりつつある暗いもやもやが鎮静されていく。

将来蝉の鳴き声を聞いたとき、本に読みふけっていた夏を1番に思い出すくらいたくさん文字に触れようと思います。

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