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ゆとり教育→可能教育

教育という問題がある。

 欧米では食卓に乗せる話題として嫌われるものは政治らしいが、日本では教育かも知れない。飯がまずくなる話題だ。誰もが劣等感と喪失感を抱えて思い出したくない敗北の記憶が思い起こされるからだ。大人になってからの人生は子どもの頃の代償行為のためにあるといってもいいほど子供時代はむやみに傷つけられることが多く、また傷つきやすく、さらに傷は忘れない。

 今になってよい教育というものは、出来るだけ楽しいものだっと思うことが多い。教える側も教わる側も楽しいものから学び勇気づけられることは多い。
 そう勇気づけ、これを学校で味わったことがない。仲間を勇気づけたことはあっても自分の心を勇気づけていただいたことはない。もちろん教師にも。

ゆとり教育が導入されたことで、現場は慌てた。世間は政策に非難を浴びせ今では詰め込み教育が復活した。それ以前の詰込みは異常で、私の中学の夏休みの宿題は、一日では家に持って帰れないほどの分量が出た。当然やってこない生徒が多くでる。詰め込み教育のおかしかったのは、その時まじめにやった人物を除け者にするようなところがあったからだろう。きちんとやってくる生徒がほとんどいないのだから仕方がない。それ以前の子どもが恐れる呼ばれ方は「舐めてる」だったが、「まじめ」が取って代わることになる。人は何らかのレッテルによりスケープゴートの憂き目にさらされることがある。恐ろしいことだ。

 今より子供が多く、そして教師が若かった。今の私よりずっと若かった。だから仕方ないと考えている。もちろん、私であっても・・・という考え方ではない。

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 私は、少しでも勇気づけられることがあれば、もっと大人を信頼し、人を落ち着いてみることができたのではないかと今では思っている。だからもっと、と思うのだが。子どもの受難は終わっていない。

 子どもは減っているのにおかしな先生は増えている。いや見つかっているだけましなのか。

 教員の懲罰に関するデータを見てみる。

懲戒処分等の状況一覧  PDF
懲戒860人 訓告3,458人 
交通事故にかかわる
懲戒326人 訓告2,280人
わいせつにかかわる
懲戒151人 訓告18人 
体罰にかかわる
懲役278人 訓告404人

 世間的に話題になりやすいわいせつと体罰をずっと抑えて、交通事故が多い。学校の先生なので救命行為に関する義務を厳しく取られるということと、警察が直で来るということがある。
 わいせつ等はなかなか警察までは持っていかない。

 相変わらず「先生が好きになった」というトボケをかます生徒がいるのが信じられない。もう何も見てないな、自分だけは見ような。まあ、他人事なのか。自由恋愛だろうか。

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 なぜ急にこんな話題に飛んだのかというと。

 教師が勇気づける→励ます→かわいい子のお腹をさする
のパターンが頭に浮かんだからだ。油断も隙もねえ。

 そもそもできないことや向いてないことを人に求めちゃいけないんだっけな。だから学校には何を求めよう。教科書を読む、ノートをつけさせる、さっさと帰らせる、その他にあるんだろうか。できることだけやってください可能教育、なんかそれもバカにしているように聞こえなくないか。でもできないこと要求してぶっ壊れたわけで、これどうするの。

 学校の先生という、人を見ていない人ほどなりたがる仕事。あの仕事にどうしてなろうとするのか。どう見ても大変だろう。自分では解決できない問題ばかり、見てみぬふりでかわし倒す仕事、に見える。
 いや自分の親よりましということなのか、それもそれで恐ろしい。子どもの闇を見つめると、他人の不幸の深淵が見えてしまいそうで心が穏やかでいられなくなる。


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