少女とクマとの哲学的対話「『嫌われる勇気』に関する考察7」

〈登場人物〉
アイチ……高校2年生の女の子。
クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。
アドレリアン……アドラー心理学を学ぶ人。

課題の分離の困難

アドレリアン「たとえば、なかなか勉強しない子がいるとしますね。学校で先生の授業も聞かないし、宿題もやらない、塾に通わせようとしても嫌がるような子です。あなたが親ならこういう子に対してどうしますか?」
クマ「そうだねえ、その子がどうして勉強しないのかによるところもあるけど、まあ、何とか方法を考えて多少はやらせるだろうね」
アドレリアン「ここで、『課題の分離』という考え方をご説明したいんです。アドラー心理学の基本的なスタンスとして、目の前にある課題があったとき、これは誰の課題なのか、と考えます。子どもが勉強するかどうか、というのは、子どもの課題であって、親の課題ではありません」
クマ「なるほど、分離してどうするんだい?」
アドレリアン「他者の課題には踏み込まないようにするのです。対人関係のトラブルというのは、自分の課題と他者の課題を取り違えることから起こるのです」
クマ「そうすると、子どもが勉強しなくても親は放っておくべきだってことかい?」
アドレリアン「そうです。あらかじめ言っておきますが、もちろん、まったく見て見ぬ振りするということではありませんよ。子どもが助けてほしければ、すぐにそうする用意があることは、子どもに伝えておきます」
クマ「なるほどね、これは、なかなか清潔な考え方だね。ボクは、清潔な考え方も大好きなんだ」
アドレリアン「分かってくれますか」
クマ「うん、でも、ちょっと疑問があるんだけど」
アドレリアン「何でもおっしゃってください」
クマ「まずね、キミは今、子どもが勉強するかどうかは、子どもの課題だと言い切ったけれども、そもそも誰の課題かというのは、どうやって決めるのかな?」
アドレリアン「それは簡単です。その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か、を考えることによってです。子どもが勉強しないことで、授業についていけなくなったり、それによって志望校に入れなくなったりする結末を最終的に引き受けるのは子どもなのです。親ではありません。ゆえに、子どもが勉強するかどうかは子どもの課題となります」
クマ「なるほどね。まあ、そういう言い方をすると、確かにそうなるだろうけど、でも、たとえば、その子が志望校に入れずに、将来に絶望して、引きこもりになった場合なんて、どうなるんだろうか。引きこもったという結末を最終的に引き受けるのは子どもだって言ったって、面倒を見るのは親じゃないか。ボクが親だったら、そういう結末は避けたいけどね」
アドレリアン「しかし、そういう結末を避けようとして、つまり、子どもの課題を自分の課題だと思って、子どもに介入することで、親子間のトラブルが発生するのですよ」
クマ「確かにそうかもしれない。しかし、それは過度の介入じゃないかな。ある程度の介入は、その子にとってもいいことだと思うけどね。それを、昔から『しつけ』と言うんじゃないだろうか」
アドレリアン「もちろん、できる限りの援助はします。さっきも言いましたが、子どもの課題なんだと切り捨てて、あとはほったらかしという風にはしません。子どもが勉強したいときや、引きこもりから抜け出たいときは、可能な限りのアドバイスや手助けは惜しみません。しかし、最終的には、子ども自身がその結末を引き受けることとしてとらえるのです」
クマ「これはなかなか難しいことだね」
アドレリアン「そうなのです。ですが、そうしなければ、親子関係の不幸なトラブルは避けられないのですよ」
クマ「ところで、キミは、どうして、親は自分の子に介入してしまうんだと思う?」
アドレリアン「まあ、やはり、可愛いからでしょうね。その可愛さがあまって、過度に介入してしまうんでしょう」
クマ「それは、子どもという存在が可愛いのだろうか。それとも、自分の子どもだから可愛いのだろうか」
アドレリアン「それは厳密には分けられないとは思いますね。小さく幼いものは、それだけで可愛いものですから」
クマ「キミは、自分の子どもと他人の子どもを比べた場合、どっちが可愛いと思うかな?」
アドレリアン「それは、まあ、自分の子どもですよ」
クマ「じゃあ、やっぱり、自分の子どもだから可愛いということじゃないの?」
アドレリアン「まあ、そう言ってもいいでしょう」
クマ「自分の子どもだから好きであって、子どもだから好きなわけではない。『自分の子ども』から『子ども』を引くと何が残る?」
アドレリアン「自分、ですか?」
クマ「そうだよ。だからね、親が子に寄せる愛情というのは、自己愛なんだ。親が子どもが可愛いというのは、自分が可愛いということをあらわしているわけだよ。自己愛ゆえに、親は子に介入してしまう。親からすると、子に介入するというのは、自分のことを為しているのと等しいわけだ」
アドレリアン「随分と嫌な言い方をしますね。まあ、しかし、確かにそうかもしれません」
クマ「とすると、親子関係において、課題を分離するということは、自己愛を捨てるということになる」
アドレリアン「そうですね」
クマ「でもそうすると、ちょっとおかしなことにならないかな?」
アドレリアン「何がですか?」
クマ「キミがさっき言っていた承認欲求を捨てるということだけれど、これは、自己愛を持つことだって言い換えてもいいよね? 他人の期待通り人生を生きずに、自分の思ったとおりに人生を生きるということは、自己愛をしっかりと持つということだって」
アドレリアン「まあ、そう言ってもいいでしょうね」
クマ「一方で、課題を分離するということは、自己愛を捨てるということだということでボクらは同意した。とするとだよ、承認欲求を捨てて、かつ課題を分離するということは、自己愛を持って、かつ自己愛を捨てる、ということになるけど、それでいいかな?」
アドレリアン「……ちょっと待ってください。何か話がおかしくありませんか?」
クマ「うん、だから、そのおかしな話をしたキミに尋ねているんだけど」
アドレリアン「………そんな話になるはずがないんだ。何を間違えたんだ?」
アイチ「承認欲求を捨てて自分の思い通りに生きることを徹底すると、親が自分の子どもに介入することも肯定できることになっちゃうからじゃない? 子どもがいくら嫌がっても、親はその子に承認されることを期待しないで、自分の好きなように子どもに介入していいっていう話になっちゃうから」
アドレリアン「ああ、そうか……いや、それはダメです。いくら承認欲求を捨てるべきだとは言っても、それは他人と自分の課題を分けて、自分の課題に取り組むべきであるということを言いたいわけですから」
クマ「でも、親が子に寄せる愛が自己愛だとすると、子の課題はどうしても、親の課題ということになってしまうね」
アドレリアン「とすると……じゃあ、どうすればいいんですか?」
クマ「親の子に寄せる自己愛をなくして、親の課題と子の課題を切り離すためには、子どもがその親のものではなく、公共のものだという意識を持つことだろうね。もちろん、そういう意識を育てるためのシステムも必要だ」
アドレリアン「具体的にはどうするんです?」
クマ「生まれた子どもをできるだけ早く親から引き離して、公共的な機関が子どもを養育するようにすればいいんじゃないかな? 古代ギリシャのスパルタという都市国家では、親は子どもを自由に養育する権利はなかったんだ。7歳になると、国家の手に引き取られて、集団生活をさせられるようになったみたいだよ」
アドレリアン「古代ならともかくとして、現代では、そんな非人間的なことは許されませんよ!」
クマ「親と子の課題を分離するっていうことを考えると、そういう筋にしかならないとボクは思うけどね。そもそも、子どものことを、『自分の』子どもという意識を持つことから、間違いが始まるわけだからね。子どもを『自分の』子どもと思いつつ、しかも、子どもの課題と自分の課題を分けるなんていうのは、これは至難のわざだよ。それと、この課題の分離に関しては、もう一つ疑問があるんだけど。こっちはもっと根本的な話だね」
アドレリアン「何ですか?」
クマ「ある課題が誰のものかを判断するためには、そもそもあることが課題であると認識されていなければいけないわけだけど、それはどのように為されるのかということに関してだね」
アドレリアン「すみません、具体的におっしゃっていただけませんか?」
クマ「うん。たとえば、子どもの勉強という課題について言えばね、子どもが全く勉強しないということに関して、子ども自体は全く問題だと考えていない場合もあるよね? 全然勉強していなくても、子ども自身は全くそれについて気にしていなくて、毎日楽しく暮らしている」
アドレリアン「そういう子もいますよね。というか、まあ、わたしも子どもの頃は、勉強なんて特に気にもしませんでしたね」
クマ「勉強しないことによって、それによって、授業が分からなくても、志望校に入れなくても、その子は全然気にしない。その子どもはそもそもそれを課題として認識していないわけだ」
アドレリアン「ええ」
クマ「そうすると、この子にとって、勉強しないことは何の課題にもなっていないわけだから、課題の分離という考え方はそもそも適用する余地は無いということになるんだろうか?」
アドレリアン「いえ、それは違いますよ。たとえ、その子にとっては、現在、何の課題になっていなかっとしても、将来課題になる可能性があるじゃないですか」
クマ「それを認識するのは誰だい?」
アドレリアン「それは親ですよ」
クマ「親は子どもが認識していない課題も課題として取り上げて、その上で、課題の分離という考え方を適用するってことかい?」
アドレリアン「まあ、そうですね」
クマ「そうして、自分の課題ではないと切り離した上で、できる限りの援助をすることを伝える」
アドレリアン「そうです」
クマ「それでも、子どもが、勉強しないことを課題として認識しない場合はどうするんだい?」
アドレリアン「どうするって……まあ、根気よく説くしかないでしょうね」
クマ「それでも子どもが認識しない場合はどうするんだろうか。学校の授業についていけなくなっても、志望校に入れなくても、その結果、引きこもるようになっても、子どもは、それを特に課題としては認識しない。親であるキミだけが課題として認識している。そういう場合には、課題の分離というやり方で対応ができるんだろうか。それでも、あくまで自主性を尊重するのかい?」
アドレリアン「そうなりますね」
クマ「なるほど。やっぱりそれは、なかなか難しいことなんじゃないかな、とボクは思うね。まあ、難しいからこそ取り組むべきなんだと言えば言えるかもしれないけどね」

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