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人間失格な1日は午前9時36分からはじまる
恥の多い人生を書き連ねたのでいつにも増して大作である。
コンテンツで溢れる現代社会で、こんなに長いの誰が読むと一蹴されるかもしれないが、それならそれでいい。
「ぼくの挑戦でいい、ぼくがやりたいからで理由は十分」と腹を括りながらも、それでもきっと誰かは共感してくれるかもしれないという矛盾した気持ちを抱えながら。
「死ぬ気で恋愛してみないか?」とは、ぼくは言わない。
あんな不安定なものは生涯一人でいい。(少なくともいまのところはそう思っている)
その代わりに「死にたくないので必死でサッカーを頑張る」と宣言しておこう。
ぼくは今日32歳になるのだけど、仮に生涯のマックスを80としたとき、いまはまだ午前9時36分らしい。
世の中的には随分とのんびりかもしれないが、もっと堕落してきた自負はあったので、意外な事実に驚きつつ、なんならもう少しくらいのんびりしてもいいんじゃないかという気すら起きてくる。(詰むからマジでやめろ)
しかし、人間としての生涯と比べ、選手としての消費期限は短い。
やれやれと重い腰をあげ、筆をとることにした。
人生のやり直しと学び直し
「女子サッカーを文化に」と、自己成長における原点
ぼくの人生は不思議な偶然の重なりで溢れている。
1993年、Jリーグの誕生とともにこの世に生を受け、2011年になでしこJAPANが世界一となり、女子サッカー界の歴史をそれ以前とそれ以降に分断した年、ぼくは人生のやり直しを始めた。
そう考えると「女子サッカーを文化に」という思想を抱き、活動しはじめたことは必然だったのかもしれない。
世代別日本代表キャプテン、センターバック。
そもそもの生き方、選手としてのブランディングを間違えたので、国内に残るわけにはいかず、先々を考え、英語を学べるアメリカへの留学を決めた。
大学ではリベラルアーツと出会い、文化としてのスポーツは様々な視点から解剖できることを学んだ。
学生でありながらもNCAA D1アスリートとして、またチーム唯一の外国人選手としての誇りと責任を持ち、文武両道に励んだ日々。
それだけやって、いや、いま考えると完全にやりすぎだったが、当時はその自覚もなく、肝心なところで怪我をして大学最後のピッチには立てず、そのままプロ入りも逃した。
アメリカでの生活が、一度失った自信をまた新たな形で積み上げていてくれただけに、このときのショックは思った以上に大きかったのかもしれない。
ぼくはここから、表面上はサッカーをしながら、無意識下では「人としてのあり方」を問いはじめた。
日本に帰国してからは、同じ言葉を話す集団の中に存在しながら、なぜかその輪に入りきれない違和感に苛まれ、「ぼくは一体誰なんだ?」とこわくなった。
人との出会いに全ベットして出会った、ぼくの師匠たち
ぼくは人生の運すべてを「人との出会い」に振り切っているようで、それぞれでの学びは、いつもギリギリのところでスパイクを脱ぐのを止めてくれた。
重要な学びをくれた人、ぼくの人生に影響を残してくれた人はたくさんいるが、いまのテーマに絞ってあげると、まずはSunnyさん。
「リスクを冒さぬ退屈な日本サッカーを圧倒的な思考で変革する」というスローガンを掲げ、当時ではまだ目新しかった「認知力」と「言語化」をテーマとしていた。
帰国したばかりのSunnyさんの投稿をSNSで見つけ、DMしたことが出会いのきっかけ。(またはSunnyさんの不運のはじまり)
ぼくの嗅覚のよさはサッカーにすべてを費やしてきたからこそではあるけど、それは同時に偏りでもある。
サッカーに関するものは偏った形で理解していると思うので、これからピッチの上での試行錯誤を経ながら学び直していく予定。
ぼくがアイデンティティの再発見をするきっかけの一つとなる、「主観と客観の切り分け」については、特にしつこく指摘し続けてくれたおかげで芽吹いたものがある。
そのほかに関しては「自分で見つけなければ意味がない」と言わんばかりのスタイルだったが、それはもがきながら腹の奥底まで落とし込む必要性を理解していたからなのかもしれない。
しかし、ぼくの人生はイージーモードでもあるので、優しく付き合ってくれるみゆきさんとたけくんの存在にも救われた。
たけくんはキック専門コーチとして、いまは海外進出に向けて着々とキャリアを築いているバリバリの若手実業家。
東大生の名に恥じぬ卓越した頭脳で、キックに限らず、ぼくのやりたいことから逆算し、一緒に実験してくれた。
選手自身が本質と向き合えるよう促していくSunnyさんと、選手のやりたいというモチベーションに寄り添いながら、適切にサポートしてくれるたけくん。
いま振り返ってもいいコンビだったと思う。(ぼくにとって難解なSunny語を訳してくれるスーパー通訳でもあったのはここだけの話)
そして、帰国してからの物語で一番欠かせないのがみゆきさんの存在。
「堂々とするのだ。サッカーしている時は堂々としているのに、あなたって子は…」
この言葉がみゆきさんとの関係すべてを表していて、ぼくが抱える無数の身体の問題とともに、人間としてのポンコツぶりをみせてきた。
あまりにやりたい放題やりすぎたので、いまは千尋の谷に落とされているのだけど、その後約一年かけてようやく動き出した。
思えば、ぼくの周りの女性たちは強くて逞しい人たちばかりだ。
Women's Empowerment などを謳う組織が存在するらしいがとんでもない。
たしかに共感コミュニケーションなど、難解な部分もあるが、悩みながらも思い切ったときの度胸はピカイチなど、その対比が人間としての美しさを際立たせるものがある。
社会のシステムや、時代の流れに応じた補完的な施策によって、両者間の論争がよくわからない方向にすら向きつつあるのも悩みどころ。
男か女か、その違いに優劣などなく、それは立場の違いであり、もっと言うと人それぞれの個性の一つでしかない。
学びを深めていく上で、ジェンダートピックにはあまりピンとこずにいたのは、そういった価値観からかもしれない。
話が逸れたが、もう一人。
最後の重要人物がびえさん。
ぼくは昨年、敬愛するしいたけ先生に運命からギフトを授かるというお告げを受けたのだが、彼との出会いとそのタイミングこそがまさにであった。
Sunnyさんが主観と客観を切り分けて外からみる自分、つまり、社会の中に存在する自分として見る目をくれ、みゆきさんが世界と自分を感知する身体と頭を癒し、たけくんがエネルギッシュにぼくの火種を感化し続けた。
これらがあったうえで、個として突き抜けるための"認知力"とはまた異なる、「人と人を繋ぎ、そしてそれが社会へと繋がる」ことを前提としたびえさんの"認知力"が化学反応を起こしたのだ。
ぼくはこの2人の世界観の狭間で、人間の思い込みのよくも悪くもを、実際に自ら経験しながら、その学びを深めていった。
主観としての思い込みと依り代
思い込み、主観、バイアス。
呼び方は様々だが、ピッチ上でのそれは、結果さえ出し続ければある種で信念のようにもなるが、そうでなければただの”独りよがり”でしかない。
Sunnyさんによる、しつこいくらいの問いは、この事実に導くためだったのだろう。
自身のアイデンティティに疑問を抱きはじめた頃、「みんなのことが好きなのにチームを壊してる」と嘆いていた。
その後、「そもそも自分勝手でわがままこそ自分の本質」と笑いながら開き直り、「そもそもみんなのことを見ずに生きてきたのは自分」と、お得意の自己完結ストーリー。
長い年月をかけて、自分の姿を掴めずに苦しんできたので、これだけでもかなり心が軽くなった。
「ネガティブなことばかりではなく依り代でもある」と、教えてくれたのがびえさん。
課題型思考なため、全体的にネガティブに捉えがちではあるものの、時としては短所となり得ることが、長所としてひっくり返ることだってある。
周りを呆れさせる楽天家ぶりは、社会を知らぬゆえの思い込みだが、それがとにかくまず行動してみる大胆さにも繋がっている。
ぼくにとっての依り代とは、自分こそが思い込みの強い人間であるという自覚と自己成長への飢えによって、それが人や社会との繋がりを永続的に保ってくれることだろう。
一人篭って考えるのが至福の時間ながら、「自分が一番見えない存在であること」を学んだ以上は、新しい世界を知ることや、他者からのフィードバックを得ながら、自分の姿を捉えていくしかない。
ぼくはわからないことに惹かれ、気になって仕方がなくなる気質。
特にそれが自分に関することであれば尚更だ。
人と繋がり、他者を理解しようとする、その過程から自己理解を深めるのがぼくの物語のシナリオであり、それが社会との接点となる。
ぼくはここにこそ、いままで探し求めてきた真理(仮)を感じている。
社会を彷徨い歩いて探す、サッカーとアスリートの可能性
人間失格の本領発揮
さて、随分と長い前置きとなったが、ここからが本題。
遥か昔の記憶となっているだろうが、この話はぼくが「女子サッカーを文化に」というテーマを追いかけはじめたところがスタートだった。
「自己理解と成長」「サッカーパフォーマンス」を探究しながらも、「サッカーとアスリートの社会的価値」その答えを社会の中で探し続けた。
特に後者に関しては、並々ならぬエネルギーを費やしてきた。
アスリートとしての価値を証明できなければ食いっぱぐれるからも、「商品」としても「作品」としても、ピッチの外で強気で押し通せるでもなく、人様の助けの中でなんとか生きてきた。
1ヶ月ほぼ毎晩、飲み歩きながら名刺を集め、朝方帰宅し、昼過ぎまで寝てまた出かけることを繰り返したこともあった。
またある時は終電を逃しながら粘ったスポンサーのお願いも実らず、泥酔して眠り込む人や、楽しそうに騒ぎ立てる人たちに紛れて、始発の電車を待ち続けたこともある。
このときはシンプルに「甘い」という一言で断られたけど、実際そうだと思う。
ちょうどいろいろと追い詰められていた時期でもあって、いかにもつらい雰囲気を出しながら言葉を選んでいたと思うが、そもそも自分で望んでの生活だったはず。
一昨年、前十字靭帯断裂の知らせを受けた母が、「一度なにも気にせずにやっていいよ」と言ってくれて、そこからは存分に環境のアドバンテージを取りまくった。
誇れる人生ではないし、プライドもなにもないようなことをたくさんやってきたけど、その中で出会う人の温かさや、言葉を通して、世の中の流れや求められている人についてを思考し続けた。
そんなことを続けたある日、本物だと感じる人たちの根元を一貫するかのように鎮座する、世の中の真理のような存在に気づく。
そしてそれは、その後に掴んでいく、サッカーと社会の共通点と、ぼくが無意識で追い続けてきたものと重なり合うのだった。
サッカーと社会に共通する人間の普遍的な研究
まずがぼくが思う本物、プロフェッショナルについて。
現段階での定義としては「視線の先に常に人の存在があるか」である。
ぼくは以前、保険の営業という言葉に対してあまり良いイメージを持っていなかった。
親しくしていた人が心を痛めてしまったからでもあるが、そのイメージを軽く払拭してくれた友人がいる。
営業マンというのは、その物やサービスを手にした人が、今より豊かになるために存在する人のこと。
彼も同じ、保険屋の営業として働いていたが、常に相手の心境を想像しながら言葉が表現されていることがよく伝わり、なにより楽しそうな姿がいつも印象的だった。
「自分のため」と「他者のため」の矢印が揃うからこそ、互いに取って豊かな変化を継続的に生み出す循環が自然と生みだされる。
人間は感情や感覚を持たないロボットとは違う。
自尊心と他尊心の共存は、部分ではすでに到来しつつあるであろう、人を中心に捉える時代のスタンダードになっていくべきだ。
そして、サッカーと社会の共通点も人の存在である。
「ピッチは社会の縮図」ぼくが感覚的に捉えてきたものにビシッとハマる言葉がある。
「サッカーは最も人間的なゲームだと考えるが、その理由は、私たちが生きる社会においても団体闘争のゲームと同様に、人々は同時空間の中を生き、他者と干渉しあっているからである。人は一人では生きていないし、同じ目的のために時に仲間と他者を妨害する。そして日本から出て、他国の人々と触れ合えば、同じ人間でありながらいかに異なる思考や行動、言動を取るものなのかを一目で理解できるだろう。」
特に強調したいのが、最後の一文。
ぼくの自己成長における学び、そしてその社会との接点をここに見出した。
つまりはサッカーも社会も、人なくしては存在し得ない、または存在意義が成り立たないため、それぞれにおける施策が相互に影響を与えることは必然的であると考える。
例えば、仏教でいう心の中の阿頼耶識(書庫のようなもの)に蓄積される業(人生で行ってきた良いこと、悪いことすべて)によって、人は同じ世界に生きながら見える世界は異なると言われている。
これは現代科学でいう人間の認知そのものを表していて、ただし、これは過去の経験への意味づけという、それぞれの個性を生み出す過程にフォーカスしている。
一方で、近代科学が自分や世界を捉えるシステムを明らかとしている。
自分の身体の状態のフィードバックとしての「ボトムアップ信号」と、それを受けて脳が外の世界を推論する「トップダウン信号」が存在する。
そのどちらでもノイズがないことが良いとされており、人間の認知機能にとっては、さまざまなものを感じ取ったり、それを基に推論を行うデバイスのメンテナンスが大事なのではないだろうか。(a scope ~リベラルアーツで世界を観る目が変わる)
それらを行うデバイスとは、身体と脳だ。
つまり、身体と脳が正常に働く状態を保ちつつ、外の世界を観察しながら、自分の内側の常識を問い続ける姿勢がとても大事であり、この必要性は社会もサッカーも関係ない。
目まぐるしく変化し続けるこの現代社会を生き抜くには必要なスキルだ。
サッカーに限らず、アスリートにとって、身体と脳のメンテナンスは言わずもがなパフォーマンスに直結し、社会の中でもより説得力を持つ存在であるため、よいロールモデルとなれる可能性を秘めている。
興行的な理由により、身体を酷使する他ないトッププレイヤーたちはその逆を行っていることを考えると、アスリートこそ「人間らしさ」についてを問いただすべき時代なのかもしれない。
これだけ科学が発展した現代社会においても、人体の不思議はまだまだ謎多い。
上手くすれば、スポーツやアスリートの取り組みがそのまま社会を生きる人たちの学びとなり、それによって社会の優秀な人たちがサッカー界に流れ込み、その結果としてサッカーが文化として形成されていくのではないか。
欧州ではすでにそのような流れが確立されているらしく、サッカー自体には興味はないが良質なデータが取れるからということで、優秀な人たちが集まってきているらしい。
創造する未来と実験研究
今年の実験テーマ
けんすうさんの「物語思考」に感化されながら、「くっつくことはまずない」と言われながら、それでも完全に切れた靭帯を復活させる物語の主人公として路線変更した昨シーズン。
完全な状態ではないらしいが、MRIでは連続性が認められるとのことで、医師からの診断書を得て、競技にも復帰した。
この瞬間、ぼくの世界では「Impossible is Nothing / 不可能なんてあり得ない」と、その色の濃さが増した。
それを受けての今年の研究/実験テーマは「WEリーグA契約に相当する年間460万円の収入を得ながらサッカーに没頭する物語の主人公のキャラになる」と決めた。
事業センスが皆無であることは自覚しながらも、やらねば詰むキャリアであり、良い塩梅で「現実を見ろ」と突っ込まれるラインかと思う。
靭帯錬成するのと、460万稼ぐのと、どっちの方が非現実的なのだろう。
そもそもA契約の460万ってどうやって算出されたのだろうとは、下書きをみせたびえさんから生まれた疑問。
おもしろそうだから、スペースで話そうね。
ぼくはいつもこんな具合で、やることは増えても、いつもお金にはならない。
お金にはなってはいないが、「死んでも働きたくないでござる」精神で生み出した時間の結晶が、この論文(仮)である。
(仮)とは、個人としての症例報告や、仮説の域をでないものばかりだから。
わりと頑張って書いたものの、ぶっちゃけぼくの理論が間違っていたとしても構わない。
ロジックが通っていないところがあったとして、それはぼくになかった視点を得られる機会であり、むしろそうやってアップデートしていくことに意味がある。
だから、いままで一人(?)で行ってきた研究・実験により多くの人を巻き込み、そこまでいけば、その過程でキャッシュポイントも生まれるだろうという魂胆でもある。
アスリートとしての自身を「商品」や「作品」として形容してきたが、知らない間に良質なモルモットに錬成していたようなので、自身を使った盛大な実験研究だ。
揺るがない自信
ぼくの強みは:
・人離れした(社会人失格とも言う)当たって砕けたらしょうがないよねチャレンジ精神
・見えないものを感じ取り、言語化する力(主に身体的、感情的変化など)
・人が気に留めないようなものに目を向け、「なぜ」を問い続ける力
つまり、それぞれが心と身体と頭を表しており、ぼくのテーマである、「それぞれの統合による最適化、常に進化し続ける自分」となる。
心、身体、頭という、このメタファーは日本人としての感覚なのかもしれない。
日本語は身体にまつわる慣用句が多く、健康ブームに乗って日本食は一気に世界へ広がり、水資源が豊富ゆえに日常的に入浴する文化など。
身体を感じ、労わる文化が遺伝子となって代々引き継がれているのが日本人。
身体を武器、または自身の物語を語る媒体とするアスリートにとってはすごい強みというか、ギフトであるとすら感じる。
ぼくはこれまでの経験で培ってきたものが、心と身体と頭そのものであると感じており、実際にその感覚を統合することで靭帯錬成にも成功していた。
「絶対に自分が納得する形でピッチに戻る」と決意し、とにかく情報を集めて成功への道をリアルにし、身体のフィードバックをもとにデータや客観視で調整しながら進めた毎日。
30を超えたいまになって、人体の不思議と直面し、これまでの人生で感じたことのない可能性を感じているが、これはぼくの日本人としての遺伝子が関係しているのだろう。
そして、もう一つ、ぼくがハイブリットであるずるい存在な理由。
日本人らしさに加えて、日本語と英語での脳の使い分けの感覚がある。
コントロールしきれていない間は、この二つの感覚の間での揺らぎが「自身が信じる自分像」と「他者からみた自分」のイメージに剥離を起こし、自分がわからない恐怖感の一因となった。
しかし、自己理解が深まり始めたこの数年では、その視点の違いを活かし、経験を多角的に捉えることができるようになった。
大学の頃から描き始めたブログの影響で培った哲学的な思考も相まって、ぼくの中にはまるで3つの人格が存在するかのようで、それぞれが対話をしながら物事を腹の底で消化するようになっている。
このメタファーはつまり、ぼくにとっての意味づけでもあり、根も葉もない言葉にすると妄想であり、主観である。
しかし、見たいものだけを見る人間にとっては主観こそが世界の真実であり、それは良くも悪くもではあるが、外の世界を冷静に見ながら、それでも自分の世界感で振り切る必要を感じ、その覚悟を決めたときは、とんでもない輝きを放つ可能性を秘める。
その経験を、ぼくはもう実際にしている。
つまり、心と身体と頭の探究は、身体の文脈を重要視してきた日本人が世界で圧倒できる流れとなる可能性を秘め、自分を捨て、見失いながらも進み続けてきた経験はぼくの武器。
「揺るがない歴史=揺るがない自信とは。私たち日本サッカーは、サッカーと向き合う際に「積み上げてきた歴史」に自信を持つことが重要なのかもしれません。神と同様に「歴史」は揺るがないものになります。」
これまでのすべてが寄り添ってくれてるから、全身で「いまこの瞬間」を感じながら、失敗も成功もたくさんして、いろんな学習や学び直しをしていけばいい。
ぼくが考える女子サッカーの金ピカ
自由となった女子サッカー選手は大胆
人との繋がりを意識する上で重要な役割を果たすのが感情。
心が揺れることがきっかけで起こる思考はまた特別なものであり、ぼくにとっては圧倒的に欠けているもの。
それを語るには外せない存在が、ずっと片想いを続けている相手だ。
彼女のおもしろいところは、ぼくなんかよりずっと周りを見ながら役割に徹するわりに、時として、ぼくも驚かされるような大胆さを発揮し、その狭間をジェットコースターのように揺れ動いている。
そんな彼女をみながら、つい想像してしまう。
他者の人生をコントロールすることはできないのだけど、「もっと自由に生きていいよ」と背中を押せないかと。
過干渉は自分の欲を満たすための偽善でしかないと学んだので、自分の人生をまっとうすることに決めているが、彼女の存在は社会との接点を考える要因でもある。
「自由にやっていいよっていうと、こちらが驚くほど伸び伸びとプレーし始める」
女子サッカーに携わる経験を持つ知人の言葉。
その言葉に共感しながら、ここにも女子サッカーが持つ可能性を感じている。
自分とど直球に向き合うことはしんどい作業だが、向き合い続けてきた先で見えてきた世界の楽しさはなんとか伝えたい。
ぼくの世界はぼくだけのもので、そのままを見せることは難しいが、みんながそれぞれの「夢中」を見つけるために、伝え続けていくことはできる。
これは一人では無理だけど、しんどい内省の過程をもっと楽しく、日本得意のエンタメ的にできるようなシステムをつくり、それをベースに、みんながそれぞれで思い描く物語を生きることができるようにならないだろうか。
現代フットボールから考える、女子サッカーのポテンシャル
スポーツサイエンスの発展により、スピード化し始めた男子サッカー界では、創造性や、いわゆるファンタジスタタイプの減少を嘆く声が上がっている。
ピッチでのタイトさから「ミスをしない精密さ」が求められており、SNSで流れてきた、チェルシーのパーマー選手のプレーハイライト集はあまりに正解すぎる選択ばかりで逆に引いたくらい。
ぼくはここにも、女子サッカーがつけ入るというか、競技面での「区別」をつける可能性を見出している。(今後がどうなっていくかは知らんが)
男女平等を訴え、跳ね返されるロジックは競技性にある。
フィジカルではどうしても劣る女子サッカー選手が、男子サッカー選手と同じサイズのピッチ上で、同じルールでプレーするのだから無理もない。
だったら、その「違い」を活かして、女子サッカーは選手個人の表現に振っちゃうのも一つではあると思う。
ただし、これはチームとしてや、試合の流れを無視して、それぞれの表現に走っていいということではない。
なにを基準として、どこからが自由とするかのような裁量はチームによるが、そういった情報をきちんと理解しておくことが外の世界を見ること。
これらを把握しながら、いまとなっては絶滅危惧種となった「ファンタジスタ」を、それも現代科学によってアップデートした形で構築できるのではないかとは、ぼくの密かなワクワク。
人間としての感覚と、現代科学でのデータ。
それらを駆使しながら、これまでの経験を、思い込みによって本質とは似て異なるものとなってきたものの学び直し。
特にリハビリで大きく変化した身体の感覚と、ピッチ上で無意識に受ける感情とのすり合わせには、大変ながらも、大きな飛躍の可能性を感じている。
個人戦術とチーム戦術の切り替えは、時間がないピッチ上ではなかなか難しいが、ソロでも成立するゴール前にこそ、さまざまなヒントが眠っていると思う。
これはあくまでぼくのシナリオだが、みんながそれぞれで自分のキャラを極め続けたら、アドレナリン爆ばく状態になるだろう。
最近になってようやく、人との繋がりのようなオキシトシン的幸福感をサッカーでも理解できるようになってきたが、ぼくの本質はおもしろい相手とは全力で戦いたい、アドレナリン中毒の戦闘民タイプ。
だからこそ、ぼく自身も常に全力で、チャンスの最前列に居続けるようにしなければならないし、社会との接点を意識することは、ぼく自身がもっとワクワクするための仕組みでもある。
自分の行動が誰かに影響を与えていることを常に意識し、その責任と喜びを感じること。
つまり、「視線の先には常に人の存在がある」状態である。
表現としての可能性
そしてもう一つ、雰囲気やオーラのような「言葉にはならないけどなんとなくわかる/感じる」といった文脈での表現がある。
サッカー選手でいた頃と比べ、この5年間はサッカーをほったらかしで自分探しに没頭してきたため、ぼくはこちらの色の方が濃いと感じている。
得意なプレーは?と聞かれても答えに詰まり、コーチには地面に頭を突き刺しながら決めるゴールと言われる始末。
でも実際問題として、ここがぼくの強みだ。
なにがなんでも勝つ、自分が決める。
その想いが強くなればなるほど盲目になることもあったが、その想いを形にできた時はスタジアムの空気を一気に飲みこんだ。
不器用すぎて地面に突き刺さっちゃうのは、これからの伸び代であり、選手寿命を考えると優先度高めに着手していきたいところ。
なぜぼくは表現ができるのかというと、それはやっぱりピッチの外での活動が大きな要因だろう。
びえさんはぼくのことをアーティストだという。
なぜそういう印象となるのか、初めの頃は不思議だったのだけど、いまなら少しだけわかる。
人間失格の自覚にもあるように、ぼくは周りの人たちが当たり前にできることをやれない。
生きていくためにはお金がいる、お金を稼ぐためには働く必要がある。
だけど、どうしてもやりたいこともある。
だったら、ぼく自身の存在がなにかの役に立つというロジックを立てて、それを証明すればいいと考えた。
この過程は、アーティストがよく悩むという、本質的なものをつくることと、普遍性をどう保つのかということの両立の問題にも似ている。
つまりはぼく自身こそが作品であり、どうすれば作品が一番輝くのかを常に思考し続ける人生だった。
ピッチの上では堂々といられることでの表現と、ピッチの外では臆病となる脆さからくる危なっかしさ。
ピッチでの表現と、外での生き方は、おもしろいほどそのままリンクしている。
だから、A契約選手として思い込んでみる実験は案外、悪いアイディアではないのかもしれない。
思い込むためには、イメージを可能な限り具体的にしていくための試行錯誤が必要で、それだけ具体化していくと目標達成しやすくなるということが脳科学でわかっている。
つまり、思い込みでピッチパフォーマンスを変化させようという取り組みと、そのための過程で暮らしの方も最適化させる取り組みの相互作用の循環が、理論上は可能となる。
なにをやるかの具体的なことはまだこれから決めるが、午前9時36分にはちょうど間に合った。
おわりに
ここにきて、ようやくプロローグの伏線回収。
ぼくはいつかピッチの外まで活動を広げることで、世の中の人が自分の物語を夢中になって描くようになり、その結果として、世界で起きている悲しい連鎖を止めたい。
「死にたくない」は、広島出身で幼いころから戦争に怯えてきたぼくの素直な気持ち。
だけど、政治に関してはうっかり口に出してしまうとなかなか難しいところがあるし、下手するとそっちで命が危険になるので、しれっとしていたい。
ぼくは日本人としての誇りを持ち、日本の持つ力を信じている。(世界から舐められつつある状況をSNSで見かけるたびに腹が立ってくる)
日本のサブカルは世界中にファンをつくり、原語で理解したいと、日本語をマスターする人が多く存在する。
初めてアメリカへ渡ったとき、金髪碧眼の男の子に恐る恐る挨拶をしたところ、「うっす、よろしくっす」と、流暢すぎる日本語で返された衝撃は忘れない。(彼もまた、漫画アニメ好きで勉強したとのこと)
この記事内の随所でも、漫画やアニメの引用を使っているが、キリスト教の聖書さながら、ぼくにとってのバイブルである。
これほどの学びを、多種多様なあり方に寄り添いながら、途切れることなく物語を紡ぎ続ける日本人は天才以外の何者でもなく、ぼくの中にもその遺伝子は存在している。
ぼくの理論はまだあくまで仮説でしかなく、未来は誰にも予測はできやしないが、人生最後の一ページで「おもろい物語やった」と笑っていけるよう、ぼくはこの物語を描き続ける。
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