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サッカーとぼくと、時々、チーム

「どれだけ優秀な人にサポートをしてもらっても、彼ら/彼女たちの言葉をどう学習し、実践していくかという過程は自身の頭を通して行われるため、結局自分の成長がなければ本当の意味でパフォーマンスは変わっていかない」

瞬間的に決断をしていかなければならないサッカーでは特に当てはまることであり、ぼくは自分が納得する人生を送るためにも重要なことだと思う。

いくら自分のことを理解してくれている相手であっても、本当にありたい姿を常に自分の中で描きながら、最終的には自分の頭で考えて行動しなければならないと思うし、それが自分の人生を生きるということの一つなのだと。

例えば、ぼくは前十字靭帯という膝の靭帯を断裂し、普通であれば手術をしなければいまの競技レベルでの復帰は無理だと診断されながら、切れたままで復帰を目指す方法を選択した。

そして一度の失敗経験を経ながら、いままた挑戦しているのだが、それに対しては様々な声がある。

前例が少ないことに挑戦し、失敗したのに、なぜまた同じことに挑むのか。

答えは簡単、ぼくはまだ納得していないからである。

自分の考えを折って誰かの言葉に従う形で決断をしたとして、その先で思うような結末にたどり着けなかった場合、その誰かを責めてしまうと思う。

その人を責めたところで結果は変わらないが、やるせない気持ちをただただ周りにぶつけるしかできず、そこから状況を巻き返そうと意気込む気力までは起こせないだろう。

なんの得もない、ただただバッドエンドであり、ぼくが一番嫌いなことだ。

だから、手術しかないと言われた時も、本当にそれが唯一の道なのか試してみようと思ったし、再挑戦のときは前回時に引っかかっていたことを修正してみようと、ぼくはぼくにとっての当たり前をただやっている感覚だった。

ぼくにとっての当たり前とは言ったけど、もしこの事象が去年ではなく、もっと前に起きていたとしたら、なんの疑問も持つことなくオペの道を選んでいたとも思う。

それはぼく自身が他でもなく、前十字を切ったら手術をするというゴールドスタンダードを、まるでそれが唯一の絶対解であるかのように考えていたからである。

なぜこのように捉えてしまっていたかというと、そこには2点ほど考えられることがあって、一つは受傷までは自分ごとではなかったので、その方法に疑問を抱くまで考える機会がなかったこと。

そして、もう一つは、この方法を知っていれば必ず解決するという、まるで魔法のようなものが存在するかのように考えてしまっていたからだと思う。

例えば、これはぼくが組織づくりにハマり、いろいろと情報リサーチをしていた時の話。

シーズン(または複数年)を通したチームづくりというプロジェクトにおいて、チームに関わる人全員の価値観をぶつけ合って試行錯誤しながらも、必要時には軌道を修正し、確実に目標に向かっていく方法を探していた。

そんなある日、とあるプロジェクトで指揮をとっていたという知人のことを思い出し、改めて話を伺う機会を得た。

めんどくさいからプロジェクトの詳細は伏せるけど、さぞかしクリエイティブな方法で乗り越えたに違いないという期待感で臨んだ当日。

実際は振り分けたタスクをそれぞれのチームでこなし、その進捗報告を毎日吸い上げていたという、至極当たり前の話だった。

ここも少し掘り下げられるけど、一旦割愛するとして、この時のぼくは心のどこかで、この手順を知っていればクリエイティブなチームができるというような、いわゆるノウハウ的なものを知れるような期待をしていた。

前十字靭帯断裂から手術なしで復帰した症例報告で「一つのプログラムをすべての人に適用させるのではなく、状態をみながら柔軟に適応すること、そのためにチームが連動することの重要性が言われていたけど、これが世の中における真理なのだろう。

経験値から言えるより良いとされる方法は存在しても、言われた通りにすれば必ず結果が出るというような都合の良い魔法は存在しない。

だからこそ、チームが本当に望むことや、そのための道を見極め、みんなで一緒に目指すべきところへ向かっていくこと、そのために必要な土台を整えることがまず大切なのだと。

ぼくにとってのプロジェクトはぼくの人生そのものであり、自分の人生を生きるために自分軸を持つことをなによりも大事にしているという話に戻ってくる。

為末大さんの著書「熟達論」における人間の成熟段階の一つとして、「心」を中心をつかみ自在になることとして定義されている。

中心とは自分らしさでもあり、自分らしさとは瞬発的にパッと浮かんでくる欲求のようなものとは違う、自分の奥底で大事にしている価値観のような。

これを理解した上で、物事の選択ができれば、それだけでも人生の幸福度というか充実感はまた変わってくる。

これを自然にできていたのがアメリカでの頃だったのだろう。

そうして海外で培った価値観を臆することなく発揮できるのが強みである一方で、社会の中で異なる価値観を表現していれば摩擦が生じることがある。

ただ、少し前までのぼくは、自分が一体どういう人間で、周りがどういう法則のもとで動いているのか。

その関係性や、それぞれの構造そのものを理解できていなかった。

ぼくはぼくと膝に両手を置くチームの円陣から逸れて立つのがスタイルながら、自信を失って少しづつ頭が下がりそうになることに必死に抵抗し続けたこと。

最後は自然とみんなと同じ格好でキックオフを迎えられたこと。

ぼくにとってはかけがえのない経験であり、社会勉強だった。(その日、初めて膝に手をついた

チームメイトにもよく言われるが、ぼくのサッカーに対するこだわりは強い。

そしてそれはピッチに立つときのみに限らず、選手として誰かの目にとまる可能性がある場面での振る舞いすべてにこだわる。

そして最近では、ピッチを離れたときですら常に、サッカーに繋がっていくような思考回路にリプログラミングされてきた。

例えば、ディズニーシーに行った時の話。

全身で感じ取る多角的な刺激に驚きつつ、非日常的な刺激がどのようにサッカーのパフォーマンスに影響するのかということを考えていた。

特に印象に残ったのがピーターパン。

機械ではなく、人そのものが飛ぶ擬似体験に加え、子供の頃にみていたアニメの世界に飛び込み、二次元から三次元的に脳内のイメージが変換されていく。

夢の国での経験は贅沢な脳トレのようなもので、帰りの際、最寄りからのいつもの光景は普段よりずっと奥行きを感じる景色となっていた。

人間の想像性は新たな感覚を体験することでも拡張される。

これからはきっと、もっと豊かな人生を生きていいのだろうなと。

ぼくの感覚として、脳の可塑性とは脳の構造そのものが変化するというより、新たな刺激によって使い方のプログラミングが編成されるイメージ。

例えサッカーから離れた経験だとしても、美味しいものを食べたり、好きな人と過ごしたりのようなインプットも、きっとサッカーのアップデートとして脳が自動的に変換してくれる。

豊かな人生経験がよりクリエイティブなパフォーマンスに繋がる土台が整ってきたのだろう。

こういう話をすると、サッカーが好きなんだねとよく言われる。

しかし、ぼくはこれまで自分の記事にもしたように、自分がサッカーが好きなのかと問うと疑問しか残らない。

これも最近ようやく答えが出たのだけど、ぼくはサッカーが好きなんじゃなくて、サッカーを愛しているのだ。

ぼくにとって「好き」という言葉はとても表層的で、経験がまだ未熟ゆえに純粋に好きだと信じていられるような感覚。

対して、サッカーとぼくの関係性はもっと複雑で深いというか、もちろんスイートな瞬間もたくさんあったけど、顔が歪むほどにビターな時間も長い。

それでも、いまだにもっと上手くなりたいと追いかけ続けるのは、ぼくがサッカーを愛しているというなによりの証拠なのだと思う。

ぼくにとってサッカーボールは魔法の杖みたいなものだ。

ぼくは別に幸せになりたいと思って生きてきてないけど、ボールを追いかけ色とりどりな経験をする中で、多くの人が助けてくれ、気付けば幸せな、他力本願ながら本当に豊かな人生を生きさせてもらっている。

ぼくにとってはこの、ただポジティブなだけじゃなく、いろんな感情を抱きしめた上で感じる豊かさにこそ生きている実感を覚える。

だから、サッカーを探究する過程を通じて、人として継続的に成長できれば、例えどんな環境であっても幸せを感じるし、そういられるという自信を持てるようになった。

なんの保証もないけど、でもきっとぼくはもう大丈夫やから、引き続き自身の成長に矢印を向けつつも、お世話になってきた周りへの恩返しも考えていきたい。

本当にたくさんの方にお世話になってきたから、選手として自分ができる精一杯のパフォーマンスを、これ以上ない舞台上で表現すること。

ぼくのエピソードはサッカーを始めるきっかけになった父や祖母のものが多いけど、誰よりも自己犠牲心の強い母に自由な人生を生きさせてあげられるくらいには稼げるようになること。

そして最後の大きな目標はサッカーを通じて社会に貢献すること。

ぼくは広島で生まれ育ち、小さな頃から戦争や核に恐れながら生きていた。

単純にぼくが戦争に巻き込まれて死にたくないというのが非常に大きいのだけど、ぼくはもっと一人一人が自由に夢を描いて、自分の好きなことに情熱を燃やせる世界になってほしいと思う。

そのためにというか、そろそろ収入をつくらないとまずいというか、サッカーに専念しながらには都合がいいというか。

ぼくはこれまでのキャリアで培ってきたことの研究・実験を本格的に行う研究所をつくって、その内容を必要な人たちに届けるようなことをやっていきたいと考えている。

興味関心の幅が広いのだけど、基本的な土台となるのは「認知科学」だと思っていて、そこからの枝葉として「人と社会/個人とチーム」「理性と感情/理論と想像/意識と無意識」などの観点からパフォーマンスを研究したい。

本格化といっても、これまでやってきたこととなにが変わるのか。

なにを変えることで活動資金を得るシステムにするかのようなイメージはまだなにもない。

まあでも本気はきっと感染していくものだとは思うから、とりあえずやり続けようやし、サポートしてくれる人、企業さん、絶賛募集します。

いまはまだ支払える報酬はないけど、表に出しきれていない思考が大渋滞しているので、興味のある方はぜひ。

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