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SHIN SFIDA

昨年までの主力の半分以上が退団し、SHIN SFIDAとしてのスタートを切った今シーズン。

「スフィーダらしさってなに?」
「スフィーダとは何者?」

それを問う一年だと思っていた。

だが、皮肉にも離脱が長引いたことで、再び『自分』と向き合うことになった。

心と身体と頭

生き様があれば、その逆の死に様とはなんだろうか。

理想の終わりはきっと、自分の心を裏切らないように生き続けたその結果だから、まだわからない。

ただ、バッドエンドにしないための方法ーーそのヒントには少しづつたどり着いてきた気がしていて、その一つは単純にサボらないこと。

でも、これが案外難しい。

サボってしまうときは、大抵心のHPが削られているとき。

心を燃やすことでなんとかはできるけど、そういった燃え方は、いつか自分をも飲み込んで燃やし尽くしてしまう。

ぼくにとっての前十字靭帯断裂はまさにその典型だった。

無理が祟って悲鳴をあげていた身体に反し、頭が作り上げた理想とギャップの間で空回りし続ける心。

最初は些細な問題で解決していたものに徐々に蝕まれ、気づいた時には最悪な形として現実に現れた。

結局、「心・身体・頭」の三つは、絡み合いながら影響を与え合っている。

それぞれが別々の意見を言い合いながら、そのやりとりを観察しているのが「心」。

だけど、その心の状態を支配することができるのもまた身体と頭。

どれか一つに頼ると、バランスを崩して深みにハマる。

人間の業は、そんな複雑さに隠れている。

この構造を見つめ直してみると、「自分が何者か」という問いにも繋がる。

言葉にするとこんなにもシンプルで、自分のことでありながらも、その複雑さは一生を賭けても解き明かすことは難しい。

夢や目標を語る一方で、自分が何者であるかという根本を認識できないまま生きるのもまた、人生の一つの側面。

それはある意味で仕方のないことかもしれない。

しかし、だからといって自己探求の努力を怠るようでは、思い描いた現実を実現することは不可能に近い。

その事実に気づいてから思うことは、偏りは個性であり、個性なくして魅力的な物語を描くことはできないため、やっぱり偏りは必要。

でも、表現としての個性から、そのさらに奥にある核を形成するための思考においては、その偏りに苦しめられることがある。

いわゆる、思い込みやバイアスとして働く場合である。

何かに没頭すれば、未知の世界を知る喜びを得られる。

しかし、その過程で、世界は美しくも残酷な姿を現し、同時に視野を狭めてしまうこともある。

人間である以上、これは避けられないことだが、その深みに囚われすぎないためには、心・身体・頭のバランスを意識することが重要だと考えている。

自分の内側に目を向け、それぞれのあるがままを捉え、互いの関係性における因果性を考える。

言葉でいうのは容易いが、これこそ一生を費やしたところでたどり着けない宇宙の果てのようなものであり、それに気付いた瞬間にぼくの人生はまた色を取り戻した。

言語の壁を超えて

そうやって自分の内側を覗きながらも、外の世界を感じ取ることも必要。

ぼくたち人間は思った以上に、目にはみえないものの影響を受けながら生きている。

他人は自分を写し出す鏡とはよく言ったものだ。

無意識のうちに、自らが発信したものに影響を受けた相手を通して、自分自身を見ることは十分にありえる。

そして、ぼくは誰よりも言葉の可能性を信じている。

信じているからこそ、「言葉では伝わらないもの」、例えば、繊細な感情の機微や、音楽が伝えるような非言語的な情報、また「言葉だから伝わらないもの」、例えば、文化や経験の違いによって生じる誤解もあると考えている。

言葉に感じる厚みとは、一つとしては信頼のようなもので、それはどこかで見たり聞いたりした言葉をただ繰り返し使っているのではなく、その人の実体験からくるものなのだろう。

そういった言葉の厚みを感覚的に読み取っていることもあるし、さらに言えば、言葉での円滑なコミュニケーションには、互いの前提をすり合わせる土台づくりが必要で、それは一朝一夕で形成されるものではない。

言葉の具体性は人同士を繋がりとめることもあれば、それぞれで持つ具体性が相容れない大きな壁として互いの距離をつくる一因にもなる。

そういったすれ違いを避けるために磨くものが「共感性」や「抽象化能力」だと思う。

言葉は時に、表面的な合意を生み出す一方で、深いレベルでの理解を妨げることもある。

だからこそ、言葉だけでなく、言葉を超えた何か、例えば共通の経験や感情の共有が、真の繋がりを生み出す鍵となるのだろう。

「結果がすべてだ」というピッチ上はどこまでもアンフェアだが、結果がすべてなピッチ上はどこまでもフェアだ。

裸の感情を表現できる場として、文化や言語の違いを超えて、喜びや悲しみ、怒り、興奮といった普遍的な人間の感情を共有する場となり、人間の奥底に語りかけられる可能性を秘めていると信じている。

だいぶ遠回りをしながら、つまりなにを言いたいのかというと、周りに求めるのであればまずは自分を正すこと。

そしてその過程が「言葉だから伝わりきらない」なにかーー例えば責任や自信や誇りなどを「言葉では伝わらない」ルートを介して周りを感化する。

ぼくは言葉に偏りすぎてしまったからこそ、それ以外の世界にも目を向けていくことで、受けられる恩恵がこれから増えてくると思っている。

没頭から夢中へ。

夢中に飛び込むにはサボらないこと、つまり自分の中の基準をあげていくこと。

長い期間を経て久々に戻った中で、身体と頭が主導権をぶんどって「もっと高いところでやれよ」と。

自分でもはっとさせられるような、でも現実に戻されるのではなく、描き続けてきた理想を見せることで自分のケツを蹴り上げるかのような、そんな瞬間があった。

だからこそ、まずは海外で戦っていたころ、サッカーに没頭していた時の熱を思い出しながらも、心の奥底の火種の扱い方は学び直すこと。

そしてさらにそこから先は、想像と理論を兼ね備えた創造性が必要になってくる。

自分の内側を外の世界で表現する挑戦の続きでもあり、修正アップデートでもあり。

さあ、またここから始めよう。

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Serina Kashimoto
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