フットボーラーの思考
身体と思考(脳)、そして感情と理性の関係性
前十字のリハビリで、ある種の限界突破をしたのだろう。
相も変わらずもマイナーエラーに悩まされつつも、自分で対処できることが確実に増えた。
最近気付いた身体の歪み方の種類の一つとして「捩れ」がある。
イメージとしては各関節が柱時計のゼンマイというか。
それぞれが正常時よりも回りすぎていることで、その周辺の筋肉が引っ張られ位置が変わっていたり。
中には文字通りにくるっと捩れてしまっているような感覚を覚えるものもある。
ケアの方法自体はとてもシンプルで、正常時に戻るまで関節をゆっくりと回すだけでよい。(まわす方向やその程度、他関節との連動などが感覚頼りなのが難しいところ)
この作業がほんとうに時計の針を回しているかのようで、時を遡りながらリセットされていくような感覚がとてもおもしろい。
身体と向き合い、一つ、また一つと捩れが取れるたびに「身体ってほんとうはこんな形をしているのか」と驚かされる。
ぼくにとっての思考とは、この作業にとてもよく似ている。
あれをやりたい、こうなりたい。
でも、これをしなければならない、こうでなければならない。
自分の中に欲望は必ず存在するうえで、社会で生きるなかで様々なしがらみが増え、複雑に絡み合っていく。
一つ一つを丁寧に解き、そのすべてに問いを立てながら「自分」という存在を理解しようとするのがぼくの思考理論。
これもリハビリ期間中に気付いたことだが、どうも身体と脳(思考)というものは密接に繋がりがあるようだ。
身体の歪みが取れると思考がクリアになり、引っ掛かり続けてきたバイアスから急に抜け出すことがあれば、逆に思考によって新たな自分の一面を発見した後、筋肉が緩んで骨格から調整され、動作のコツを急に掴んだりする。
周りのリハビリ仲間がせっせとジムに通って筋トレなどのリハビリをこなすなか、ぼくはこのサイクルをひたすらにぐるぐるしていた。
幼い自分との付き合い方
そしてもう一つの大事な気づきが感情は身体そのものであり、そして思考/脳は理性そのものであるということ。
身体そのものは頑張りたくない生き物なようで、内から湧いてくる欲をよく聴いてあげることで身体の不調は改善されていく。
あれ食べたい、これ楽しそう、それはつまらなそうだからやりたくない。
その声はまるで自身の中に存在するくそガキ成分を一つにまとめたようなもので、幼いこどもと話をしているような気分になる。
駄々っ子に耳を傾けてみるものの、疑心暗鬼からか、身体が改善したり、または微妙な方に触れてしまったり。
最初はなかなか掴めずにいたが、根気よく続けることで信頼関係を結べ、身体も徐々に素直になっていった。
ある程度の担保が取れるようになってきたので、次に考は思考、つまり理性とのバランスを考えていく。
いくら身体にとっていいことであっても、欲望のままに社会を生きていくことはほぼ不可能。
かなり浮世離れた日々を送らせてもらえているぼくでも、社会的制約を感じることはあるし、この日々にも変化を求めている。
この幼い自分こそが自身の器そのままを表しているようで、だから、ひたすらに向き合いながら一緒に成長することが大切。
そのため、ただ言うことを聞くだけではなく、話を聞いた上で合理性をとれないものに関してはきちんと説得もしていかなければならない。
この場合における合理性とは、自分がほんとうに成し遂げたいこと、手に入れたいものから逆算された発言であるかということ。
人間誰しもがやりたくはないけど夢や目標のためにやらなければならないことや、そういう時間は存在するもの。
ぼくは選択すべてを精査した上で必要と判断すればなんでもやれるし、逆であればどうしてもやれない白黒はっきりタイプ。
そのため、この辺りの見極めや判断はそう難しいものではない。
厄介なのは負けず嫌いがよくない方に作動し、不必要に交戦体勢をとってしまっているとき。
この場合は感情的になっている自分から抜け出し、本当に避けられない戦いなのかを冷静に判断することが肝。
勝負や競走は多大な動力を与えてくれるものであっても、ただ感情に流され、戦うことが目的となってしまうことは賢明でない。
仁義なき戦いを好む血の濃さゆえか、不毛なものであることが多々あるため、この傾向に気付けたことで受ける恩恵はかなり大きいはず。
フットボーラーに問われるのは人間力
身体のケアで思考を整理し、思考を整理することで身体を治療する。
これがぼく流のセルフマネジメントであり、OSアップデート方法、つまり人としての器的成長のためのやり方である。
どれだけ優れた技術を持ったとしても、それを使う人間自身が追いついていなければ使うことはできない。
それに気付いたからこそ、まずは自分自身の再構築のための地ならしを行ってきた。
同郷の大先輩である、為末大さんの言葉をお借りするなら、孤独は人をオリジナルな存在にするという。
孤独を感じてきたわけでもないが、それでも自分ワールドに閉じこもって考える時間は比較的長いほうだとは思う。
これが誰かのためになるかと言われれば、すべて自分のためにやってきたことだから、その答えはぼくのなかにはない。
しかし、なにもない、なにも成し遂げることでできていないと焦り、走り続けてきたことで、ようやく少しの自信が芽生えてきた。
そして、このちっぽけな自信のおもしろさは、自身の弱さを受け入れ、ようやく人としてのスタートラインに立てたという自覚とともに芽生えたこと。
できないことは伸び代だと知りつつも、同時に、できない自分を受け入れることができずにいた。
恥ずかしながら、人としても、選手としても、まだまだ未完な存在であることをようやく認識できたことで、行き詰まりを感じていた景色に道が一気に拓けていくのを感じた。
新たに見えた道すがらになにをやっていくのかと言われれば、それはフットボールの探究であり、ぼくにとってのフットボールの探究とは人間らしい生を育むことである。
哲学的思考で自分という存在をより確かなものにしつつ、人が持つ可能性を研究し、そしてそれを一人のフットボーラとして、周りを巻き込みながら表現する。
そこまでを体現できたとき、一体どんな物語が生まれるのか。
ぼくは純粋にそれが知りたいし、見てみたい。
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