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咲き方を考える

「置かれた場所で咲きなさい」と言われて、「いえいえ、自分の咲き場所は自分で選びます」と答えるのが私。ここまでの歩みを振り返ってみても、それが私らしさだと信じてやってきた。その中で最近、疑問が生まれた。

遡ること、またまたアメリカ留学時代。プライベートのぶっ飛んだシーンで「ばかだなー」と笑わせてくれる反面、誰よりも自分の人生に責任を持って生きるチームメイトたちを、心から尊敬していた。

チームメイトたちとは様々な話をした。くだらない雑談から、時には政治や宗教のような踏み込んだ話も会話のネタとなる。聞けば、卒業後のイメージを抱きながら、勉強とサッカーを含んだ大学キャリアをプランしている人たちがほとんどだという。普段のおどけた顔とは異なる、真剣な表情は、嫉妬するほどにかっこよかった。

サッカーで上を目指すことだけを愚直に考え、アメリカの地までやってきた私にとって、サッカーだけでなく、自分の人生とも全力で向き合う彼女たちの姿はとても刺激的だった。「自分はこのままでいいのか」スポーツサイエンスから、リベラルアーツへの専攻の変更は、そういう焦りから生まれたアクションでもあった。

ただ、みんながみんな、そういった志を抱いていたのかと言われればそうではない。同じアメリカ人でも、元の私のように、とりあえず卒業できればという最低限をやり続ける人もいた。よくもわるくも、結局は環境ではなく、人なのだ。

置かれた場所で咲くか、咲き場所は自分で選ぶか。どっち?ではなく、どっちも必要なことで、大事なのは、今の自分に必要なことを選ぶこと。それがわかっていながら、「咲き場所を自分で選ぶ」ことに自分らしさを感じるのは、「置かれた場所で咲けない自分」を否定したいのかもしれない。

つい最近までは、自分のことは一番よくわかっているつもりだったし、だからこそ、いろいろなことを言い切ってきた。だけど、今は違う。今までは自信を持って言い切ったことでも、「ちょっと待てよ」と、自分の中で咀嚼し直してみたり。それによって、思ったより全然わかっていないと自覚するシーンが増えた。

そんな自分を、知れば知るほど、ダサいし、かっこ悪いなと感じる一方で、その一面もまた自分と受け入れられるようになった。少し前であれば、自分がそんな人間なはずがないと否定してきたような部分を、なぜか今は受け入れられる。(まだまだ全部全てというのは無理だが。笑)自分歴29年目にして、ようやくなにかが変わってきたようである。

海外に行ってから特に、「かっこいい人間にならないといけない」と、ひたすら思い続けてきたが、そもそも「かっこよさ」とはなんだろう。まだまだよくわからないが、一つはっきりしているのは、これからもっとたくさんのかっこ悪い自分と出会い続けていくこと。そんな自分を、時には、自分以外の誰かに突き付けられるかもしれない。

かっこ悪いながらも、精一杯かっこつけようともがく矛盾の中で、また新しい自分を見つけ、向き合うことが、今の私の咲き方なのだと思う。私の周りのかっこいい友人たちのように、今度は私が誰かにとってのかっこいいであれるよう。






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