言葉で伝えるときのこと|怪談未満|三好愛
小学校の四、五年生だったか「うざい」という言葉がはやったことがありました。主な用途としては、「先生うぜー」とか「中村くん、うざーい」とかそういうことだったわけなんですが、「うざい」を使えると、人間としての裁量をアップできるような雰囲気があり、私もいつ「うざい」を言うことができるか、様子をずっとうかがっていました。「うざい」には、それまで私たちが日常会話で使っていた言葉とはまた違う響きがあって、あからさまな嫌悪を示す言葉ではありましたが、言った対象に対して距離を鮮やかに縮めてしまうような、いざ使うには少しだけ勇気がいる刺激的な言葉でした。微妙にいい子っぽく生きていた私には、使える機会がなかなか訪れず、正直とても焦っていました。
その日、私たちの班は会議室の掃除当番を割り当てられていて、授業が終わったあと、一階へと向かいました。折り畳み式の長机をすみに寄せ、床をほうきで掃きはじめます。季節は冬だったでしょうか。陽はちょっと斜めになっていて、会議室には校庭に面した大きな窓があったけれど、建物の向きのせいか光はあまり差し込んできていませんでした。その時間帯の室内は薄暗く、かと言って電気をつけるほどではなく、なんとなくぼんやりとした自然光の中、私たちは掃除を続けました。
そして、私は確かにそのとき、これが「うざい」なのかも、と思ったのです。電気をつけるべきかつけなくてもいいのかはっきりしないくらいの明度の中、友達の顔はもちろん認識できる。でも、目の前には手で掴めそうな薄闇がかかっていて、振り払えばすっきりできるんだけど、それをわざわざするのもちょっと億劫な。
私は思い切って、暗くて、うざいね。と言ってみました。そしてそっと電気のスイッチを入れました。言えた。やっと言えた。これで私も人間としてレベルがあがった。しかし、誰からもまったく反応がありませんでした。数秒のち、すでに「うざい」の立派な使い手である平岡くんが不思議そうに言いました。「うざい」の使い方、なんか違うんじゃない。暗いだったら、見えにくい、とかでしょ。
だめだったかあ、と思いました。平岡くんの口調は否定ではなく、素直な疑問調で、平岡くんが使ってきた「うざい」に私が使ってみた「うざい」は当てはまらないようでした。平岡くんの素朴な問いかけで、「うざい」という言葉を使ってみたくて使った感が一気に出てしまい、私は途端に恥ずかしくなりました。なぜ私が「うざい」を使ったか、心情を事細かに説明するわけにもいきませんでした。けれどそのときのことを「うざい」と思った感覚はちゃんと残っていて、それを「うざい」という言葉で平岡くんと共有できなかったことは、うまく消化することができないまま、しこりと気づきのあいだくらいの重さで、私の中に残りました。
あれから何年もたった今でも、自分が感じる感覚とそれを言葉に起こして人に伝えることの関係は本当に難しいものだな、と思います。
たとえば朝起きたとき、なんとなく胃がもたれるなあ、と思ったとして、でも「胃がもたれるなあ」という言葉を、家族といえど、口に出すのはなんとなくはばかられる、というか、家族と私は違う胃を持つ別の個体であり、私が感じている「もたれ」が家族が食べすぎたときに感じる「もたれ」と合致してる自信がありません。私の「もたれるなあ」の詳細は、お腹の上のほうにもやもやっと前日食べたもののあとくされがあって、食欲がない、と感じる状態ですが、実際見たわけでもないので、お腹の上のほう、というのが胃である、という確信もいまいち持てないし、他の人の「もたれ」のほうが自分の「もたれ」よりもっとすごいものかもしれないし、などと思ってしまった結果、「いや~お腹がね……」などともごもごつぶやきながら、布団から這い出したりしています。
それとは逆に、どんなに複雑なことを思っても「かわいい」で伝わる状況ではそれだけを何度も言って済ませることだってあります。「親しみ深い」も「おもしろい」も「きれい」も、「かわいい」でからめとるのは、すごく楽です。楽だけど、罪悪感も少しあります。みんなが持っているおのおのの感覚をひとまとめにして人と簡単に共有できてしまう言葉は世の中に確実に増えており、そういうのを便利だなあ、と会話の端々で使っても、結果として得られるのは「わかる〜」という人の良い共感だけだったりして、その場ではそれなりに盛り上がるけれど、伝えたかった感覚を、体良く処理してしまっただけだよなあ、とのちのち孤独を感じます。みんないろんなことを受け止めながらそれぞれの生を生きていて、その受け止め方は、とてもたくさんあるはずで、だから、個体が別なのに言葉は共通なこと自体、なんだかもどかしくなります。人としゃべっていても、今この人はこの言葉を使ってあの感覚についてしゃべっているけれど、あの感覚は私のこの言葉のことだよなあ、と勝手に思い、すれ違ったりしてしまって、そんなときは、自分にも向こうにも、うんざりです。ああ、いっそもう、おたがいの頭の蓋をパカッとひらいて脳味噌をさわりあい、そのぬめぬめとした感触だけで会話ができたらなんと素敵であろうかと、あらぬコミュニケーション方法を夢想したりしている毎日です。