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見る人と見られる人|絵にモヤモヤする人のための描かない絵画教室|はらだ有彩

リンゴはリンゴである

 リンゴを描いてみた。
 あまりに普遍的なモチーフだが、意外にも直近20年くらいは「リンゴを描こう」と思って描いた記憶がない。最後に描いたのは、たしか芸大受験のためのアトリエでのデッサンだった気がする。あまりに普遍的なモチーフなので、デッサンを習おうと思ってアトリエに体験入学すると、高確率で腕試しにリンゴを描かされるのだ。あとはティッシュの箱とか、バゲットとか。

 アトリエの先生は、「モチーフをよく見ましょう」と言う。リンゴを描くとき、私たちはリンゴを見る。リンゴをまじまじと見る。思う存分見る。見ないと描けないからだ。場合によっては、テンプレート的情報をも参考にする。リンゴは一見まんまるだが、実は五角形のはずだ。なぜなら花弁が5枚だから……。場合によっては、絵的な仕掛けをも取り入れる。このリンゴ、いまいち熟しきっていないけど、一番手前の面だけでもちょっと色を強調しておくか。なぜならその方が立体感が出るから……。

 よく見ることと、テンプレート的情報と、絵的な仕掛けは、描く人に魅力的な線を引かせ、見る人にうまく特徴を伝える。だからデッサンに限らず、写実的な絵や、デフォルメされた絵を描くとき、私たちはモチーフをよく見る。実物を見たり、資料を見たりする。特徴を端的に捉えていないと、「そのもの」だと分かってもらえないからだ。
 輪郭はどんなカーブを描いているだろう? ツヤはどこから始まって、どこで終わっている? 影はどこまで落ちている? そんなことを一心不乱に考える。一心不乱なので、リンゴのこと以外は何も考えないくらいだ。リンゴ「らしい」輪郭とは、リンゴ「らしい」ツヤとは、リンゴ「らしい」影とは、どんなものだろう? どこを強調すればリンゴ(らしさ)を感じさせられる? 何がリンゴをリンゴたらしめているのか? そもそも私にとって、見る人にとって、世界にとって、リンゴとは何か? それにしても赤い! もうリンゴの赤さのことしか考えられない。なんて描き甲斐のあるモチーフなんだろう。もっと描きたい。そのためにもっとよく見なければ。
 そして、リンゴのことしか考えられないまさにそのとき、私たちが決して考えないことがある。

 ――リンゴは、私にこんな風に見られて、描かれて、嫌じゃないだろうか?

 いや、何言うてんねん、リンゴは嫌がらへんやろ、と思われたかもしれない。私も全くそう思う。確かにリンゴは嫌がらないだろう。リンゴは物だからだ。
 リンゴには痛覚もないし、感情もないし、歩んできた人生もない。自ら(または自らに近しい要素)が描かれた絵を自らの目で見ることもないし、誰かが作った創作物を吸収し成長し学習した他者の群れの中で生きることもない。群れの中で危険な目にあったり、軽んじられたりもしない。描かれた絵が、自分の人生の中で遭遇する(可能性が考えられる)危機や不快さと構造的に繋がっていることで不安に思うこともない。疲れたり、途方に暮れたりもしない。
 だから私にどれだけ見られて、どれだけ一方的に観察され、どれだけ自分自身に近しい要素を持った絵を描かれ、どれだけその絵と自分自身をうっすら混同されても、リンゴは気にしない。いついかなるときもそんな風に、見られて然るべき存在だと見做されても、リンゴは気にしない。私が、まさかリンゴが「お前の描いているものは私ではない」「私はお前にそうやって見られて、描かれるために存在しているのではない」と言い出すなんて1mmも想像していなくても、リンゴは気にしない。

 前回、第二話では「『現実の女性』の、現実世界での取り扱われ方について考えようと思う」と書いたのに、コイツはなぜ延々とリンゴの話をしとるんだ、と思われたかもしれない。しかしこの状況こそが、「現実の女性」がしばしば直面している状況なのである。

・見られて描かれることを当然と思われること
・見られて描かれる過程で、描き手にとって(表現上、または鑑賞上)都合の良い解釈と演出がなされること
・その見られて描かれた絵が、自分の人生の中で遭遇する(可能性が考えられる)危機や不快さと構造的に繋がっていること

 この三点において、私はときどき、「女性のイメージ」を描いた絵にモヤモヤするのである。

モチーフになるということ

 さて、

・見られて描かれることを当然と思われること
・見られて描かれる過程で、描き手にとって(表現上、または鑑賞上)都合の良い解釈と演出がなされること
・その見られて描かれた絵が、自分の人生の中で遭遇する(可能性が考えられる)危機や不快さと構造的に繋がっていること

などと書くとめちゃくちゃ文字数を使ってしまうが、これには普通に名前がついている。ローラ・マルヴィが1975年に発表した論文「視覚的快楽と物語映画(Visual Pleasure and Narrative Cinema)」に登場する、「メイル・ゲイズ(男性のまなざし)」だ。発表当時は特に映画分野において、現在では表現全般において、「女性の被写体に向けられる、男性の消費的目線」を指摘する言葉である。目線とは、物理的に「見る」ことと、概念的に「見做す(そう認識する)」ことの両方を指す。
 映画を観るための自由な金を持ち、自由に家の外に出かけ、芸術を理解し、芸術に限らずあらゆるものごとの決定権を持つ観客が主に男性であるという、不均衡と思い込みが混ざり合った社会的前提を想定して、女性は映画に配置される。女性は、観客の「見る快楽」のために、見られる役割に配置され描かれる。女性は、主人公に感情移入した観客が満足するために、主人公に従属したり、救われたり、罰されたり、崇拝されたりするキャラクターとして解釈される。女性は、観客の性愛的対象たりうることと、主人公の性愛的対象たりうることを両立し、かつ画面にオリジナリティを与えるためにクリエイティビティをもって演出される。そういった女性の記号化が、さらなる女性の記号化の呼び水となり、現実の人々の認識や生き方に影響を与える。
 こんな風に、伝統的な映画の形式がいかに父権社会の無意識に支えられてきたか、その構造をひとまず理解しよう、そして新しい選択肢を見つける手がかりにしよう、として書かれたのがローラ・マルヴィの「視覚的快楽と物語映画」である。

 これを鑑みて、普遍的なモチーフであるリンゴを、普遍的なモチーフだということになっている「女性」に置き換えてみよう。

 「女性のイメージ」を描くとき、私たちは「現実の女性」と描かれた「女性のイメージ」をよく見る。特徴を端的に捉えていないと、「そのもの」だと分かってもらえないからだ。輪郭はどんなカーブを描いているだろう? 影はどこまで落ちている? そんなことを一心不乱に考える。一心不乱なので、他に何も考えないくらいだ。女性「らしい」輪郭とはどんなものだろう? どこを強調すれば女性を感じさせられる? 何が女性を女性たらしめているのか? そもそも私にとって、見る人にとって、世界にとって、女性とは何か? なんて描き甲斐のあるモチーフなんだろう。もっと描きたい。そのためにもっとよく見なければ。でも――
 「現実の女性」は、私にこんな風に見られて、描かれて、嫌じゃないだろうか?

我々は歴史の上で絵を描いている

 いや、何言うてんねん、「現実の女性」全員が嫌がるわけじゃないやろ、と思われるかもしれない。
 あるいは、メイル・ゲイズ(男性のまなざし)が「見る」と「見做す」の両方を指すとはいえ、「見る」方は女性もできるじゃん、と思われるかもしれない。
 確かに、地球上の女性全員が口を揃えて全く同じ主張をするというのは、天文学的確率かもしれない。それに、例えば二人の人間が向かい合いお互いを見つめ合ったなら、お互いの視界にお互いが入るだろう。
 しかし「私は見られても嫌ではない」と言ってしまう前に、「見るという行為はお互い様だよね」と言ってしまう前に、歴史を振り返ってみようと思う。なぜなら、歴史は過去から現在まで脈々と続いていて、私たちは歴史の上で絵を描いているからだ。

 ローラ・マルヴィが論文を発表した10年後の1985年、ニューヨークでゲリラ・ガールズという覆面・匿名のアクティヴィスト集団が誕生した。そしてその4年後に、黄色いポスター作品を発表した。
 ドミニク・アングルの著名な油彩画〈グランド・オダリスク〉の裸婦に、ゲリラ・ガールズの目印であるゴリラの被り物を組み合わせたポスターには、こう書かれている。「メトロポリタン美術館に入りたかったら、女は裸にならなあかんのか?」
 (Do women have to be naked to get into the Met. Museum?)
 そしてこう続いている。「モダン・アート分野において、女性芸術家の比率は5%に満たないのに、ヌードの85%が女性やんけ」
 (Less than 5% of the artists in the Modern Art sections are women, but 85% of the nudes are female.)
 これらの数字は、1980年代のメトロポリタン美術館の常設展示作品の数を調査した結果である。

 85%と5%という数字を見た人はこう思うかもしれない。はて、なぜ、メトロポリタン美術館に収蔵される「女性」アーティストはこんなにも少ないのだろう? もしかして、女性は偉大なアーティストにはなれないのだろうか?
 これは答えのない問いかけに思えるが、実は普通に答えが出ている。
 ローラ・マルヴィが論文を発表する4年前の1971年、リンダ・ノックリンが「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか?(Why Have There Been No Great Women Artists?)」という論文を発表した。この論文は、女性が芸術分野で成功しない状況を作っている社会的・制度的な仕組みをひたすら詳細に言語化している。どのような仕組みによって男性芸術家の天才神話が紡がれるか、どのような仕組みによって女性が美術教育から閉め出されるか、モチーフを奪われるか、アマチュア職に追いやられるか、評価軸からうっすらと意図的に疎外されるか。
 つまり、歴史の中で、どのような仕組みによって女性が「見る」「見做す」「描く」立場から押し出され、「見られる」「見做される」「描かれる」立場に押し込められてきたか。

注=人間のヌードモデルを描くのは男性の画学生・アーティストであり、女性の画学生・アーティストはヌード モデルの使用を19世紀半ば以降まで禁じられ、時にはモデルとして牛を与えられた

 親切にも、リンダ・ノックリンはこの社会的・制度的な仕組みが個人の裁量ではないことを繰り返し書いてくれている。個人的に成功した女性アーティストがいても、個人的に「私は見られて見做されて描かれても嫌ではない」と感じる女性がいても、仕組みによって培われてきた不均衡は均されたことにならないのだと。

 歴史は過去から現在まで脈々と続いているので、似たようなことは現代でも起こる。
 2020年の夏に読売新聞の美術館女子という企画が物議を醸していたのを覚えているだろうか。「AKB48 チーム8のメンバーが各地の美術館を訪れ、写真を通じて、アートの力を発信していく」という企画である。しかし公開された特設サイトでは、「AKB48 チーム8のメンバーがアートの前でポーズを取り、映える写真を撮った」といストーリーがアウトプットされていた。
 女性が「見る」「見做す」「描く」立場から押し出され、「見られる」「見做される」「描かれる」立場に押し込められてきたとすれば、美術館は案外、貴重な場かもしれない。なぜなら美術館では珍しくも、女性が絵を「見る」立場にいられる――たとえ見る対象が描かれた「女性のイメージ」であっても――からだ。しかしながら「美術館女子」では、その稀有な「見る」場で、「見られる」演出がなされていたのであった。唯一見ることができる場所で、まだ見られるんかい! 公開から数日後、「美術館女子」は批判を受け、公開を取りやめた。

 私たちは「女性のイメージ」を描くとき、「現実の女性」と描かれた「女性のイメージ」をよく見る。よく見て、テンプレート的情報を参考にし、絵的な仕掛けを取り入れ、描く。
 「現実の女性」は、私にこんな風に見られて、描かれて、嫌じゃないだろうか? 部屋の中には、リンゴの香りが充満している。


【参考文献】
(1)ローラ・マルヴィの論文“Visual Pleasure and Narrative Cinema”(1975)の邦訳は、『「新」映画理論集成1――歴史/人種/ジェンダー』岩本憲児+武田潔+斉藤綾子編、フィルムアート社、1998年に収録されている。訳者は斉藤綾子氏。
(2)ゲリラ・ガールズの作品“Do Women Have To Be Naked To Get Into The Met. Museum?”(1989)は公式サイトより見ることができる。
(3)リンダ・ノックリンの論文“Why Have There Been No Great Women Artists?”(1971)の邦訳は、「なぜ女性の大芸術家は現われないのか?」というタイトルで『美術手帖』第407号、美術出版社、1976年に収録されている。訳者は松岡和子氏。

【備考】
参考文献(1)と(3)が書かれた当時、「男性」として想定されていたのは主に白人男性だったことを補足しておく。

著者:はらだ有彩(はらだ・ありさ)
テキスト、テキスタイル、イラストを作る“テキストレーター”として活動。著書『日本のヤバい女の子』『日本のヤバい女の子 静かな抵抗』『百女百様』『女ともだち』『ダメじゃないんじゃないんじゃない』はいずれもイラストも担当している。ILLUSTRATION2021掲載。

連載「絵にモヤモヤする人のための描かない絵画教室」について
私たちの身の回りには、さまざまな絵があふれています。仕事であれ趣味であれ、自ら描く人もいれば、純粋な楽しみとして描かれた絵を見る人もいるでしょう。しかし、そんなありふれたものだからこそ、絵にたいしてモヤモヤする瞬間も、たくさんあるのではないでしょうか。とりわけ、「女性のイメージ」を描いた絵にたいして……。本連載では、そんなモヤモヤにたいする解像度を高め、(良くも悪くも)絵がもっているパワーと厄介さを理解し、最終的にはそれでもやっぱり「絵が好きだ」と思えるようになるための「描かない絵画教室」です。