知の散逸を防げるか|西田亮介さんが選ぶ「絶版本」
研究者であり、また文筆業を生業とするという仕事柄、絶版、そして絶版本と向き合う機会は少なくない。これまで10冊ほどの単著と多くの共著や分担執筆等で書籍とかかわってきたが、絶版になっているものも多数ある。好きな読み物のなかでも、絶版になってしまったものはいろいろある。江藤淳、吉田健一、彼らの著作の多くは、もはや簡単に手に取ることはできなくなってしまっている。また、例えば彼らは多作だったから、短編が全集か、今は手に取ることが難しくなった著作のなかに含まれてしまっていることも珍しくない。江藤のSFC最終講義の名教育論「SFCと漱石と私」もそのひとつだ(2020年に別途、『日本の最終講義』に所収された)。こういう短編は、個別に電子化してくれれば、もっと広く手に取ることもできるのに、と思ってしまう。
絶版本には、少部数発行の学術書・専門書も多く含まれている。最近出版された書籍であっても、こうした書籍ほど電子化されていなかったりする。発行部数も減少していて、最近、そうした書籍は、事実上の図書館の数より発行部数が少ないという事例もさほど珍しくなくなっているので、国立国会図書館以外でアクセスするのがかなりの程度難しくなっている。絶版になった本は版を重ねるか、電子化されない限り、年を追う毎にその稀少性は増すばかりで、しかもそのような本はそもそも極めて珍しいものなのである。
事実上の絶版が生じるのは、版元が電子化を行わず、紙の新刊本をストックし流通させることに経済合理的理由を見出せなくなった結果、在庫切れ状態が放置されるからだ。物理的な紙の塊としての書籍は、倉庫等に在庫しておくだけでコストが発生することになるので、よほど売れる本以外は定期的に裁断・融解等々のかたちで処分されていくことになる。書籍は独占禁止法の例外扱いで、事実上、価格が固定されている。売れないからといって、価格を下げて売ることはできない(最近は一部例外もあって、書店店頭でアウトレットセール本が並べられていることがある)。
しかし、最初から電子書籍化されていれば、版元が潰れない限りは基本的に絶版は生じない。問題は、書籍の制作工程が相当程度デジタル化されているとはいっても、電子化に追加コストが生じることにある。そのコストを版元が負担できるかどうか、する意思があるかどうかが重要だ。既刊本はこれから大きく動く可能性も小さく、また古い本になればなるほど権利者と権利者の連絡先を探すことのコストは上昇するので、あとから電子化されるケースはほとんどないといってもよい。書籍も商品なので、結局は何から何まで需要と共有、機会とコストの論理で絶版の可否が決まってくる。
昔ながらの文系研究者的にいえば、かくして少なくない資料と先行研究がデジタル化されず、紙の書籍のまま絶版になることで、二次流通市場か図書館でしか見つけられない状況下で仕事をすることになる。ただこうした状況は、片方では研究や知識生産にとってのボトルネックではあるのだが、片方ではちょっとした歪んだ愉しみになっていることも間違いない。教科書やレビュー、別の先行研究からあたりをつけた絶版本を、コロナ以前には主として古書店や図書館で、コロナ以後には通販で入手して、目を通してみる。当たり外れはかなり激しく、そうであるからこそ当たりを引いたときの歓びはひとしおだ。それはちょっとした仕事に付随する醍醐味でもあった。こうした感覚は少なくない文系研究者と共有できるのではないか。それほどに我々の仕事において絶版本は当たり前のものになっている。でも考えてみれば、この歓びは歪んでいるし、仕事としての知識生産やアクセスを明確に阻害している。端的に改善されたほうがよい。
実際、絶版は市場の理由としては明確に理解できるが、教育目的での利用のハードルを引き上げることになる。というのも、絶版本のなかでもそれなりに定評があるものは、相応に価格高騰するからだ。こうなってくると、教科書や参考書として広く学生に読ませるのは、新刊本よりも難しくなってくる。研究費を獲得した職業研究者であれば、流通してさえいれば絶版本を購入することができなくはないが、教育利用においてはそうともいえない。最近では学生を巡る家計の事情が厳しくなっているといわれているだけに、なおさらだ。
筆者の場合、よく困るのは、社会学者アンソニー・ギデンズの邦訳の諸仕事の絶版だ。90年代のイギリスにおける福祉国家の機能不全と労働党再生はどのような理論的、社会的、政治的背景から構想され、どのように頓挫したのか。現在の技術水準であれば対処できる問題もあるのではないか。そんなことを思いながら、昔読んだギデンズの仕事を5年ほど前からときどき読み返している。それらを今、現代日本のもとで改めて紐解き、改めて思考を深めるために、学生たちとともに読みたいと思うこともよくあるのだが、最近の古書価格の状況を踏まえると教科書指定は二の足を踏まざるをえない。代表的な著作でありながら、平易な一冊でもある『第三の道――効率と公正の新たな同盟』などはその一冊だ。だが、そもそも現状では、履修者分の冊数を確保するのも難しいかもしれない。それほど重要な文献なら文庫化されるのでは、と思うかもしれないが、実際に文庫化される文献の数はとても少ない。恐らくは著作権処理の手間が増す邦訳文献であれば、なおさらだろう。
しかし、こうした文系研究者と絶版本を取り巻く事情はまとめて時代遅れになりつつある。既知のように、自然科学、いやそれだけではなく、経済学や心理学においてさえ、先行研究のほとんどがデジタル化された英語論文となりつつある。それらは、世界的に寡占された事業者が大学や研究機関と高額契約することが近年問題視されている論文データベースに収録されることになる。
こうしたアーカイブに収録されている先行研究は、検索ワードさえうまく見つけることができれば、著者が適切に表題やキーワードを設定してさえいれば、そして所属機関が価格高騰の進むデータベースと契約している場合には(価格が上昇しすぎて徐々に自明ではなくなりつつあるが)、適切な文献にたどり着くことはさほど難しいことではない。こうした世界観のもとで、知識のグローバル化は劇的に進んでいるし、知識生産の効率は格段に向上している。もはや図書館すら、研究と無縁のものになりつつあるのではないだろうか。
こうした世界観と比べれば、我々、日本語資料を先行研究とする文系研究者にとっては、先行研究の物理的な所収場所それ自体が必ずしも明確ではなく、それらを探すことから研究が始まるといった状況は、自分にとってさえ妙に趣味化してしまっているものの、やはり本質的には改善されるほうが好ましい。前述のように、多くの中小版元が権利者を探すコストすら負担する気がなく、著者もまた強く再刊を希望したり新しい版元を探したりしないまま、中途半端な市場の論理で死蔵されている現状において、版元と著者の利益を度外視するなら、デジタル化され、検索できるようになっているに越したことはない。
最近では一般書の初版発行部数もどんどん落ちているが、それらの多くは電子化されている。高額で初版発行部数の少ない専門書や学術書の電子化は、進まないままである。それどころか中小の出版社のなかには、積極的にAmazonでの流通すら行わないとこともある。過渡期においてはそうした選択肢もあり得たかもしれないが、勝敗決したあとの現在においては、もはや日本語の知識流通を明確に阻害していると言わざるをえない。電子化に抗うことも到底現実的ではないし、版元の美学以外に特段利点は見いだせない。
文系学界の関心や評価も、徐々にグローバルなものへと向かいつつある。若い人たちの関心は特にそうなっているように思える。そして何より絶版は、日本の事情に詳しくない、しかし日本に関心を持つ、今となっては奇特にもなりつつある海外の研究者たちの資料や文献へのアクセスのハードルを、異様に高いものにしてしまっている。これは市民や高度職業人にとってもそうであろうし、直近の問題に関する学術知へのアクセスも却って困難になるかもしれない。何より、日本語で蓄積されてきた知的資産が、絶版されている間に、徐々に誰にも顧みられないものになる恐れがある。過去の知的資産に息を吹き込み、これから作られる知を長く活かすためにも、国内出版物をほぼ網羅する国会図書館収蔵書籍の電子化を劇的に加速させるなど著作権を始めとする権利からのアプローチ、そして新規出版物の電子化を進めることが欠かせない。日本語の中小専門出版社がまだ存在しているうちに、それぞれの立場で早急に取り組んでほしい。それらがなくなってしまえば、権利者の確定や探索はますます複雑化し、日本語による多くの知的蓄積は、電子化の荒波の狭間で散逸してしまいかねないのだから。
(写真=筆者提供、今回の絶版本も研究室のどこかに所蔵されている)