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バンクーバー編⑫ 君は変革を望むと言ったね|虹はいまだ旅の途上——李琴峰のクィア的紀行
午後はSさんと一緒にキツラノの「バンクーバー博物館」を見学した。バンクーバーの歴史に関する展示である。もともと先住民の土地だったところにヨーロッパの植民者がやってきて、「開拓」の名のもとに土地を取り上げ、近代的な生活様式と商業主義を植えつけた。このようにしてバンクーバーは繁栄し、多くの移民を引き寄せ、今日の繫栄を築き上げたのだが、展示の中でとりわけ私の注意を引いたのは第二次世界大戦中と戦後の、日系人の歴史である。
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明治時代に入って鎖国が解かれると、多くの日本人は海外へ移民した。カナダはその移民先の一つで、彼らはこの地に根を下ろし、生活基盤を築き、家庭を作り、次世代を育てた。当然、彼らは人種差別に直面した。労働や賃金面での差別のみならず、たとえカナダで生まれ、カナダ国籍を持ったカナダ国民であっても、日本人を先祖に持っているだけで、選挙権は与えられなかった。反アジア人の暴動が起きると、日系人も被害に遭った。
人種差別は第2次世界大戦が始まるとさらに激しくなった。真珠湾攻撃を受けて日本と開戦したカナダ政府は、カナダ在住の日本人や日系カナダ人をひっくるめて「日本に人種的起源を持つ人物(persons of Japanese racial origin)」と呼び、「敵の同盟者」や「敵性外国人」として敵視した。さらには財産の没収や、強制収容所への移送、強制移住などの迫害も加えた。
後日訪れた、バーナビーという街にある「日系博物館」では、より詳細な歴史の紹介があった。展示によれば、西海岸から160キロメートル以内に住んでいた日系人は、カナダ国籍を持つ人も含め、強制的に内陸部に移住させられた。しかも移動や住居などの費用は自分で賄わなければならず、移住先でも自力で仕事を見つけなければならない。貯金がない人は低賃金で働かされた。強制移住を拒んだ場合は逮捕され、捕虜収容所に送られる。人によっては家族と引き離され、劣悪な環境の強制収容所に送られた。日系カナダ人の女性と子どもが、家畜の囲いに入れられていたという証言もあった。
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戦争が終わっても、差別は終わらなかった。強制移住させられた日系人を、カナダ政府は西海岸に戻そうとせず、彼らを日本へ「帰還」させようと試みた――彼らのほとんどは日本に住んだことがないにもかかわらずだ。なんとかカナダに残った人たちも、強制移住の前に住んでいた家を失った。カナダ政府は彼らの不動産を取り上げ、勝手に売り払ってしまったのだ。日系カナダ人が選挙権と移動の自由を手にするのは、1949年まで待たなければならなかった。
10年ほど前に、ロサンゼルスを訪れた時も「全米日系人博物館」で似たような歴史の展示を見た。恐ろしいほど似ている歴史だ。これらの歴史の展示を見る時、私はいつも考える。明らかに人種差別には普遍性があり、誰にとっても他人事ではない。もし、日本における人種差別が取り沙汰されるたびに「日本に差別なんかない」「差別ではなく区別だ」と反発するネトウヨの人たちが、日系人が北米で受けてきた差別と迫害の歴史について知ったら、少しは差別される人々への共感と想像力を培うことができるのだろうか。
いまだに関東大震災における朝鮮人虐殺すら認めようとしない日本政府とは違い、カナダ政府は1988年に、日系人に対する人権侵害を認め、公式に謝罪し、損害を受けた個人に対しては1人2万1000ドルの賠償金を支払った。これを「リドレス(Redress)」という。
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バンクーバー博物館の展示の最後のセクションは「You Say You Want a Revolution(君は変革を望むと言ったね)」というタイトルだった。ここでは60年代から70年代にかけて起こった様々な社会運動の紹介が展示されている。女性差別撤廃運動、人種差別撤廃運動、そしてもちろん、同性愛者の権利回復運動。それらの展示を見たSさんは何を思ってか、
「30年後に私たちもこんなふうに博物館の展示に入れられるのかな?」
と、神妙な顔で訊いてきた。「後世からは、性別が混乱したおかしい時代として理解されるのかな?」
私は答えなかった。答えようがないからだ。30年後の人々が私たちの時代をどう認識するかは、今後30年間の政治と社会の変容に大きくかかっている。かりに極右が台頭し、ナチスが再来し、世界がファシズムのディストピアと化してしまったら、確かに今の時代は「性別が混乱した自堕落な時代」として認識されるだろう。
そんな世界を、私は絶対に見たくない。
博物館の後はSさんの提案で室内射撃場へ行った。本物の銃が撃てる店であり、入店前はインターネットから「waiver(権利放棄条項)」を署名しなければならない。要するに店内で負傷や死亡をしても全部自己責任で、店側は責任を負わないという趣旨の内容だ。
受付のところで様々な銃と弾が選べ、私は自動式拳銃とリボルバーを選んだ。本物の銃を触るのは初めてなので、スタッフがしっかり教えてくれた。この店では二つの絶対的なルールがある。①たとえ弾が入っていなくても、銃口は常に的を向くようにし、絶対に人に向けてはならない。②発砲時以外に人差し指は決してトリガーにかけてはならず、常に銃身と並行するように前に伸ばさなければならない。この2点を復唱させられてから、ようやく射撃場に入れた。
射撃場の的は紙製で、射撃地点から離れた前方に吊るしてある。スタッフの指示通りに一発一発、丁寧に的を狙って弾を撃ち込む。といっても私は視力が悪いので、実際に狙えているかどうかよく分からない。発砲時の反動は強く、音も大きいので、慣れない私はどうしても視線を逸らすし瞬きもするから、今撃った弾が当たったかどうかも確認できない。弾の装填はスタッフがやってくれるから自分で入れなくてもいいが、一発一発かなり神経を使うので、自動式拳銃20発、リボルバー18発を撃った後、もうへとへとに疲れた。私の隣にいた、恐らく中国人の女性の二人組はよく来ているのか、ノリノリでごつい自動小銃を連射していた。
二人分の入場料と弾丸で、約2万円かかった。やはり射撃もお金持ちの趣味だ。紙の的はもらえたのでそこの穴を数えたら、きっかり38個空いていた。すべて命中したというわけだ。
「この的にサインして!」
とSさんは私にねだった。「芥川賞作家が撃った的! これはいい値段で売れそうだ!」
「こんなもんに値がつくのは私が死んでからだろうが」
そうぼやきながら、素直にサインをした私であった。
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(つづく)
連載概要
「クィアという言葉を引き受けることによって、私は様々な国のクィアたちに、さらには現在にとどまらず、過去や未来のクィアたちにも接続しようとしている」——世界規模の波となって襲いくるバックラッシュに抗うために、芥川賞作家・李琴峰が「文脈を繋ぎ直す」旅に出る。バンクーバー、ソウル、チューリッヒ、アムステルダム、各地をめぐった2024年の記録。
著者略歴
李琴峰(り・ことみ)
1989年、台湾生まれ。作家・日中翻訳者。2013年来日、17年『独り舞』で第60回群像新人文学賞優秀作を受賞し、デビュー。『五つ数えれば三日月が』で第161回芥川賞・第41回野間文芸新人賞候補、『ポラリスが降り注ぐ夜』で第71回芸術選奨新人賞受賞、『彼岸花が咲く島』で第34回三島由紀夫賞候補・第165回芥川賞受賞。他の著書に『星月夜』『生を祝う』『観音様の環』『肉を脱ぐ』『言霊の幸う国で』がある。