それでも手放さなかった一冊|辻田真佐憲さんが選ぶ「絶版本」
マルジナリア(余白の書き込み)は、しばしば悲喜交々のタイムカプセルである。
すっかり背表紙が色あせた、西部邁『知性の構造』の奥付をひさしぶりに開いて、思わず苦笑せざるをえなかった。「2662/12、天牛。平衡ノ重要性。多クノ図形ヲ以テ説明セントスル奇書也。全テ解ス能(あた)ハズト雖(いへども)其熱情ニ感嘆。要再読」。黒鉛筆でそう書き殴られていたからだ(漢字は旧字体だが、引用では新字体に直した)。
「2662」は皇紀、つまり神武天皇の即位を元年とする暦であり、西暦では2002年にあたる。当時高校3年だった筆者は、本を購入あるいは読了した年月を、わざわざ感想とともにメモしていたのだ。
なぜ皇紀なのか。しかも旧字旧仮名なのか。軍事マニアの戦前趣味? それもあろう。加えて、政治的な志向も指摘せざるをえない。
思えば筆者は2000年前後、新しい歴史教科書をつくる会の活動を熱心に追いかけていた。浩瀚な『国民の歴史』(西尾幹二)も『国民の道徳』(西部邁)も読んでいたし、『諸君!』や『正論』だって毎月隅々まで目を通していた。
翌年9月の米同時多発テロの評価をめぐって同会で内紛が起こり、その醜さにいささか失望したこともあって、その後、保守論壇誌とは縁遠くなっていたものの、それはかならずしも思想まで変わったことを意味しなかった。
つまるところ皇紀や旧字旧仮名の使用は、あのころの幼い政治意識――戦後民主主義とされるものにたいする違和感――と関係があったと想起せざるをえないのである。そんなことがまるで走馬灯のように脳裏によみがえった。
では、つぎの「天牛」とはなんなのか。天牛堺書店の河内長野店だとすぐにピンとくる。
筆者は1984年、大阪府の松原市に生まれ、羽曳野(はびきの)市の小学校を卒業し、河内長野市にある私立の中高一貫校に進んだ。ようするに、古墳こそあれ、文化面でかならずしも恵まれているとはいいがたい南河内が生活圏だったわけだが、そのなかで同店は、読書文化への貴重な足がかりだった。
「天牛」はじつにユニークだった。新刊のみならず古書も販売していたのだが、それが4日おきに総入れ替えになった。あるときは100円均一。またあるときは300円均一。1500円均一の日には大判の図録などが並び、こんな本もあるのかと驚かされた。
それだから、飽きがこない。それどころか、すぐ入れ替えられるので、欲しい本はすぐ買わないといけない。100円や300円なら、中学生でも手が出せる。こうして下校時に古書コーナーに立ち寄るのが中高時代の日課になった。長期休暇中に定期券でわざわざでかけたことも一度ならずあった。
仮想戦記に哲学書。古典文学に政治評論。積ん読を消化するため、読書の時間は通学電車のなかから、たちまち休み時間、やがて授業中(もちろん隠れながら)に広がった。雑多な知識の基礎はほとんどこのとき築かれた。正直、中高の授業より古書で学んだことのほうが多かったのではないか。いまの仕事に原点があるのだとすれば、間違いなく「天牛」がそのひとつである。
惜しくも天牛堺書店は2019年に倒産し、河内長野店も先立つ2016年に閉店してしまった。そのため、いまやあのユニークな店頭を訪ねることはできない。東京でも、どこかに似たような店ができないだろうか。
ところで肝心の『知性の構造』だ。手元にあるのはハルキ文庫版で、奥付には「2002年11月18日第一刷発行」とある(単行本は1996年7月発行)。どうやら珍しく――といっても高3にもなると古書だけで満足できなくなっていたのだが――新刊で買ったらしい。
福田和也と宮崎哲弥の対談本『愛と幻想の日本主義』(1999年12月)で言及されており、それが本書を求める理由になったとおぼろげながら記憶する。もちろん、つくる会理事のひとりとして西部の名前はよく知っていた。
『知性の構造』は、西部の数多い著作のなかでも異彩を放つ。中庸やバランス感覚の大切さは誰もが説くが、本書ほど、さまざまな図形まで駆使して、論理的に説得を試みているものもない。ぼんやりした政治評論が多いなかで、これには面食らった。だから当時、生意気にも「奇書」などと評したのだろう。
本文の余白には、西施のひそみにならって、自分で考えたらしい図形まで書き込まれている。若気の至りというほかない。
もうひとつ本書で印象に残っている箇所がある。それは、文庫版あとがき末尾の謝辞だ。
船橋市立図書館で起きた、保守論客の著作が意図的に大量廃棄された事件。それへの言及にはじまり、焚書坑儒の故事をたくみに絡めたうえで、関係者への謝辞にいたる。じつにみごとではないか。
定型文に陥りがちな謝辞で、ここまで印象に残るものを筆者はほかにしらない。我が身を振り返り、忸怩たる思いを禁じえない。
やがて筆者が大学に進むと、しかし、しばしばこのような一般書は「俗書」とけなされることを知った。露骨に見下す大学人もひとりやふたりではなかった。なるほど、精密な原典購読を体験すると、専門知が崇高にも感じられた。
また、当時はゼロ年代真っ盛りだったので、そもそも政治評論のたぐいはあまり人気がなかった。まして保守など、どこにも居場所がないかのようだった。
筆者もそれらに幻惑されて、下宿先が手狭なあまり、高校生までの蔵書を(焚書はせずとも)ずいぶんと中古市場に流してしまった。いまもどこかに、旧字旧仮名の感想が書き付けられた旧蔵書が出回っているかと思うと顔から汗が出る。
そのなかでも『知性の構造』は手元を離れなかった。なぜだろうか。細分化で身動きがとれなくなったアカデミズムにも、世論にこびて定見を失ったジャーナリズムにも矢を放ちながら、慨世しつつもなお、全体的で総合的な知を志向しようとする、西部の強い思いにやはり筆者がひどく魅せられていたからではなかっただろうか。
――初読から約20年。現にいま読み返すと、専門家崇拝や同調圧力の問題、そしてSNSの瞬発的な政治運動の問題点などがすべて先駆的に指摘されている。コロナ禍において、この手のものに踊らされずに済んだのは本書のおかげだったかもしれない。
最近もまた、一知半解の感想を余白に書き込んでみた。やはり旧字旧仮名で、しかし今度は万年筆で丁寧に。とはいえ、もう他人の目を気にして恥ずかしがることはあるまい。もうこの本を手放すことはないのだから。
(写真=筆者提供)