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バンクーバー編⑨ デイビー・ビレッジ|虹はいまだ旅の途上——李琴峰のクィア的紀行
欧米の大都市の多くにゲイタウンと呼ばれる街がある。サンフランシスコではそれはカストロ、ロサンゼルスではそれはウェスト・ハリウッド、シカゴではそれはノースアルステッド(Northalsted)、シドニーではそれはオックスフォード・ストリート。それぞれ違う歴史的経緯によって出来上がったのだろうが、これらの街にはかなり共通点がある。レインボーフラッグやレインボーの横断歩道、レインボーの小物を売る雑貨店、セックストイを売るアダルトショップ、そしてクィアのコミュニティセンターやゲイバー。このような街は普通のガイドブックに載りすらしないが、新しい都市を訪れる時、私は大抵真っ先にゲイタウンを探す。ゲイタウンに足を踏み入れると、いつも淡い懐かしさが湧く。ほかの街ではアウェーな観光客でも、ゲイタウンに行くと「ここにいていいんだ」と微かな安心感を覚える(本当に微かだけれど)。
バンクーバーのゲイタウンはデイビー・ビレッジという、端から端まで歩いて十数分程度の小さい街である。Little Sister′sと呼ばれる書店は街の北東側、レインボーの横断歩道の近くにある。
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Little Sister′sはバンクーバーの「クィア・ヘリテージ」に選定されている。説明板によれば、この書店は1983年に、あるゲイカップルによって創設された。最初は古い住宅の2階で密かにオープンしたが、90年代に現在の場所に移した。当局の検閲に抵抗したがために政府から度重なるハラスメントを受けたほか、3回にわたって反同性愛のテロリストから爆弾攻撃を仕掛けられたという。
今のLittle Sister′sの雰囲気からはそんな激動の歴史は感じられない。店外の廊下の壁には様々な色のプライド・フラッグが飾ってあり、床面積の広い店内もだいぶ明るい。ジェンダーやセクシュアリティ関連の文学書や専門書のほか、衣類やセックストイ、カード、そして缶バッジやストラップといったレインボーの小物もたくさん販売されている。というか、本棚のほうが少ない点を見ると、やはりセックストイや衣類、雑貨類の売り上げが主な収入源ではないかと思われる。どこに行っても本はあまりお金にならないという現実が少し悲しい。
カード売り場を見て回ると、日本ではなかなか見かけないような挑発的な文言が印刷されたカードがあちこちにあって、かなり面白い。例えば結婚祝いのカードにはこう書いてある。
〈おめでとうございます! あなたは婚姻の神聖さを破壊した!〉
同性婚を認めると婚姻の神聖さが破壊されるというキリスト教保守派の論理を逆手に取った皮肉である。ほかにも、
〈あらゆるクールな母親はレズビアンだ〉
というカードもある。恐らく子どもを授かったレズビアンカップルに贈る用のものだろう。
自分用にせよ、お土産用にせよ、見ているとあれもこれも欲しくなるが、何しろ本当にいい値段をしている。トランスカラーの扇子を買ったが、9.99ドル(約1100円)。カード1枚で、6~7ドル(660円~770円)。ネックレスに至っては、24.99ドル(2750円)だ。資本主義は恐ろしい。ピンクマネーは恐ろしい。
Little Sister′sに置いてあるクィア向けの無料情報誌を手に取ると、「Qmunity」の情報を見つけた。書店から歩いて数分のところにある、クィアのコミュニティセンターである。
「Qmunity」は目立たない建物の2階に密かに居を構えている。中に足を踏み入れると、スタッフが声をかけてきた。「May I help you?」
「バンクーバーには来たばかりなのでちょっと見学したいんですが、いいですか?」
そう伝えると、一人の男性スタッフが案内役を買って出てくれた。北米によくあるコミュニケーションスタイルだが、彼はまず自分の名前を名乗り、私の名前も訊いてくれた(たとえ名前など1時間後には忘れていることを分かっていても、相手の名前を訊くのが礼儀なのだろう)。当たり前のようにジェンダー代名詞も教え合った(彼はhe/himで、私はshe/her)。
そのスタッフはとても親切で、気さくだった。彼の案内のもとで、センターを見学させてもらった。といってもそこまで広くなく、狭いフリースペースのほかに、カウンセリングルームやオフィスなどがあるだけだった。クィアのコミュニティセンターといえば真っ先にニューヨークの、あの堂々とした外観の3階建ての、カフェとコンピュータールーム、そして書店が併設されているLGBTセンターが思い浮かぶが、あれほどリッチなコミュニティセンターは世界中を見渡しても異例だろう。とりわけ家賃の高い大都会のコミュニティセンターは、ほとんど「Qmunity」のように小ぢんまりしている。
しかし「Qmunity」は狭いなりにリソースが充実している。定期的に自助グループをやっているほかに、掲示板にはクィア・コミュニティ向けの英会話クラブやヨガ教室、スケートボード、ボクシング教室、調査研究の協力者募集など、多彩な案内が張り出されている。フリースペースの壁に張ってあるポスターには、こう書かれている。
〈ここでは差別は許されない。この場所で、私たちはこう信じている――トランスの権利は人権である、トランス女性は女性である、私たちはトランスの子どもを守るべきである〉
別の壁にはピンク、水色、白の3色の付箋がハートの形を作っており、様々なメッセージが書き込まれている。
フリースペースの棚では無料のコンドーム類のほか、薬物使用者向けの案内や用具(注射針やニトリル手袋など)も置かれている。日本のコミュニティセンターではまず見かけないし、名前も用途も分からない用具の数々を見て少し戸惑ったが、薬物を使う習慣のある人に対しては厳しく罰したり強制的にやめさせたりするのではなく、なるべく危険を減らす「ハーム・リダクション」の考えがあることは知っている。それにしても、「より安全にコカインを吸うために」「より安全にヘロインを打つために」と書いてあるパンフレットを見ると、やはり新鮮である。
(つづく)
連載概要
「クィアという言葉を引き受けることによって、私は様々な国のクィアたちに、さらには現在にとどまらず、過去や未来のクィアたちにも接続しようとしている」——世界規模の波となって襲いくるバックラッシュに抗うために、芥川賞作家・李琴峰が「文脈を繋ぎ直す」旅に出る。バンクーバー、ソウル、チューリッヒ、アムステルダム、各地をめぐった2024年の記録。
著者略歴
李琴峰(り・ことみ)
1989年、台湾生まれ。作家・日中翻訳者。2013年来日、17年『独り舞』で第60回群像新人文学賞優秀作を受賞し、デビュー。『五つ数えれば三日月が』で第161回芥川賞・第41回野間文芸新人賞候補、『ポラリスが降り注ぐ夜』で第71回芸術選奨新人賞受賞、『彼岸花が咲く島』で第34回三島由紀夫賞候補・第165回芥川賞受賞。他の著書に『星月夜』『生を祝う』『観音様の環』『肉を脱ぐ』『言霊の幸う国で』がある。