「怪談未満」はじめます|三好愛さん短期連載
「怪談」といいますと、その名もずばり『怪談』という短編小説集がございます。著したのはかの小泉八雲、本名をラフカディオ=ハーン(1850~1904)といいました。古典文学や民間伝承に取材した「耳なし芳一の話」「雪女」など、誰もが一度は耳にしたことのあるお話がそこには収められております。
とまあ、わざわざ小泉八雲を引き合いに出さずとも、妖怪や幽霊たちの登場する不思議なお話は、昔から私たちの心を魅了してやみません。これらはまさに、冒頭に掲げた辞書上の定義(1)にあたる物語といえましょう。
さて、こうした「怪談」にはたいてい決まった型のようなものがありまして、それゆえに、ひとつの完成された物語であるかのように思われます。だからこそ、それを消費する私たちは、お約束にのっかることで安心感を覚えながらも、ハラハラドキドキ(ときにホロリと)することができるのです。
では、この「怪談」という言葉に「未満」をつけるとどうなるか。そんな言葉あそびをしてみたいと思います。「未満」とは、ある一定の水準に到達しないということですから、そこで語られる物語はパッケージとして語られはするものの、型におさまりきることはなく、怪談になりそこねつづける「未完」の物語でしかありえないのではないでしょうか。
突如として日常に裂け目がはいり、向こう側に非日常が顔をのぞかせる。私たちは、不審ながらも歩み寄る。もう一歩踏み込めばあちら側に届きそう……。瞬間、裂け目はサッと閉じてしまい、代わり映えのない日常が戻ってくる。果たしてその戻ってきた日常は、まだ日常といえるのか?
妖怪や幽霊が登場しなくとも、私たちの日常には、「あれっていったい何だったんだろう」と思えるような体験、ざらざらした感触だけが残るような出来事がごく普通に起こりえます。私たちはそのたびにモヤモヤし、「なんだか納得いかないなあ」なんてことを思いつつもやり過ごし、いつも通りの生活に戻るのです。でも、起きてしまったことにいちいち立ち止まり、目を凝らしてみたときに何が見えるのか。日常と非日常の境界にあえてとどまってみたときに何が起きるのか……。
抽象的なお話が続きましたが、この連載は「怪談」という言葉に、「未満」という中途半端をぶつけることで、その定義を(2)のほうにもっと拡張してみようという試みです(そもそも妖怪も幽霊も、日々の生活において生じる私たちの割り切れなさや納得できなさがその根底にあったはずです)。
語り手は、イラストレーターの三好愛さん。三好さんの書く文章は、身近な日常を淡々とえがいているはずなのに、なぜか異世界に通ずる扉をのぞき見しているような気持ちになるものです。三好さんがつむぐ言葉をてがかりに、私たちはきっと、日常にひそむ不可思議を再発見することになるでしょう。
この夏限りの連載。短い間ですが、しばしお付き合いください。
[文=編集担当・天野潤平]