描かれた人と描いた人|絵にモヤモヤする人のための描かない絵画教室|はらだ有彩
みんな色々考えて描いている
この連載を始めるにあたり、私はさっそくバナーのためのイラストに取りかかった。机に向かって紙を取り出し、こう考えた。――さあ、どんな絵を描こうかな?
そんなことを考えながらすんごいラフを描いてみた。すんごいラフとは、精度の高いラフではなく、ラフラフよりもさらにラフなラフの意である。
それから精査する。
うーん、どうしようかな。AとBの構図、前にやったな。つい描いてしまうんだよな。私は自分の連載の挿絵を自分で描かせてもらうことが多いので、必然的に最終成果物のイメージが似てくる。だから似た構図は避けるが吉だろう。AとBはいったんナシ。Cは真理だが元気がなくなってくる。Dは自分の内面と向き合うっぽいな。Eは描かれた「女性のイメージ」が、目しか見えない小窓で視線を回避し、その窓からガン見し返しているという点でカウンターパンチ的だと言える。しかし先ほど挙げた①②の条件を満たしているかというと微妙である。Fはまさに今から考えようとしている「女性のイメージ」をそのまま描いているが、「描いている」状態も描いているのでメタ的だと言える。
そんなわけで、バナーはF案に決めた。
……今こうして言語化してみたが、きっとかなりつまらない――というかお行儀のいい――あるいはテンプレ化された――手順で絵を描いているやつだな、と思われた方もいるかもしれない。言語化してから描くなら言葉で表現すればいいんじゃないの、言葉で言い表せないものを描くから絵なんじゃないの、と思うかもしれない。絵の全てを言語化しながら描くのは、たぶん無理だ。手が滑ったり、なんだか勝手にびゅんと動いて激しい線ができたりすることは、絵を描く人なら誰でも知っているだろう。しかしとにかく、絵を描くときには、あらゆる人が何らかの選択をしている。言葉で選んでいるかどうかにかかわらず、描くものと描かないものを取捨選択しているはずである。だって世界の全てが一枚の作品に収まっているなどということはありえないし、そんなことが可能なら、あとにも先にもこの世に存在する絵はその一枚だけでいいことになってしまう。
この「何を描くか」「なぜ描くか」というねらい、そのねらいを「どう実現するか」というアプローチの無限の可能性が、絵が世界に一枚だけでいいわけがない理由である。
さて、今「ねらい」と書いたが、「ねらい」は「ねらう」の名詞形だ。「ねらう」は動詞。動詞には主語がある。
主語は誰だろう?
ここに一枚の絵があるとき、登場人物は絵の中の人ひとりに見えるかもしれない。しかし絵を良くしようと「ねらって」いるのは、絵に描かれた本人ではない。絵を描いた人なのだ。
私はバナーのすんごいラフを、色々なねらいを考えながら描いた。そして思った。
――この、描き手が「ねらった」「考えた」という行為こそが、モヤモヤの源流なのではないか?
例えば、目の前にひとりの女性がいたとする。現実世界に、女性がひとり。そこに存在している。その人の在り方を変えることや、その人に在り方を変えるよう命令することは、誰にもできない。その人はその人が生まれ持った在り方で、在りたい在り方で、ひとりでにこの世に存在しているからだ。
一方、目の前に「女性のイメージ」を描いた絵があるとする。そしてその絵に私がモヤモヤしたとする。そのモヤモヤは、描かれた「女性のイメージ」によって発生しているが、私は描かれたイメージの女性本人にモヤモヤしているわけではない。イメージ自身に、「イメージ」はコントロールできない。「キャラが勝手に動く」というようなことはあっても、イメージは「イメージ」を生み出せない。
その「女性のイメージ」をイメージした人が必ずどこかにいる。昨今はAIがいい感じの絵を生成してくれたりもするが、今のところ、つまりこれまでの歴史上、絵が一枚あれば、いつかどこかで誰かがその絵を描いたはずなのだ(AIも誰かが描いた絵をソースとしているので、例外ではないかもしれない)。
絵には、「描かれた人」と「描いた人」の二人いるのだ。私は「描いた人」にモヤモヤしているのである。
絵には二人いる、絵の周りにもめっちゃ人いる
「『描いた人』にモヤモヤしている」などと言われたら、絵を描く人は「えーッ!」と思うかもしれない。
えーッ! だって、絵なんだからいいじゃん。絵くらい好きに描かせてくれよ。あんた自身を描いてるわけじゃないじゃん。絵は現実の体ではないんだから。創作物と現実は違うんだから。だいたい、モヤモヤそのものが気のせいなのでは? 考えすぎじゃないか? ていうか、偉大なる芸術を前にして、ちょっとくらいガマンできないわけ?
きっと、「えーッ!」と思った人は絵が好きなのだろう。私も好きである。絵はおもろい。この連載ではイラストも現代美術も各時代の芸術も、誰かが描いて生み出した表現全般を雑にひとまとめにして「絵」と呼んでしまおうと思っているが、絵はおもろい。絵のおもしろさは、それを思い描く人の数だけある。見るのも描くのもおもしろいし、文脈を読むのもおもしろい。
だから、絵は私たちの人生とがっちり結びついていく。絵が人生の拠りどころだという人もいれば、描かずにはいられない人もいる。好きな気持ちは自分の半生に根ざしているので、もはや自分自身と言ってもいい。好きなものはいつでも見たいし、広めたい。描きたい。描くのは超大変なので、できれば作ったものは良いものであってほしい…。
こんなに切実に絵を好きな人ほど、絵に疑いをかけられると、「えーッ!」となるかもしれない。
しかし絵に疑いをかけている方も切実なのである。
なぜ、とりわけ「女性のイメージ」を描いた絵にモヤモヤすることが多いのだろう。私の場合は、私自身が周囲から「女性」と見做されるであろう体を持っているから、そして自分で自分を女性だと思っているからというのが主な理由のひとつだ(「私はなぜ自分を女性だと思っているんだろう?」「見做されるとは何だろう?」と考えるとき以外、日常生活の中で私は自分について、ひとまず女性であるという情報で処理している)。もちろん他の理由でモヤモヤしている人もいるだろう。
「女性」という自分と、どういうわけか極めて近しく、それでいて著しくかけ離れている、描かれた「女性のイメージ」。その「女性のイメージ」が取り扱われる手つきに私はモヤモヤしている。自分と極めて近しいだけとか、著しくかけ離れているだけなら、気にならなかったかもしれない。
さっき書いたように、絵には「描かれた人」と、「描いた人」の二人がいる。描いた人はこの世にあふれる「女性のイメージ」を見て勉強し、想像し、同時にこの世に結構たくさんいる「現実の女性」を見て勉強し、想像し、新しいクリエーションに取りかかる。つまり既成の「女性のイメージ」と「現実の女性」をイメージソースとして「女性のイメージ」を作る。その人が描いた「女性のイメージ」は、また別の「描く人」のイメージソースの一部となる。絵を見る人は、描いた人の目線を通して、「女性のイメージ」を見る。
フィクションと現実とはもちろん別のものだが、絵でも、アニメでも、小説でも、フィクションは現実による補完を前提として構築されている。フィクションで「女性の~」という表現が行われるとき、「説明しよう!今初めて知った概念だと思うが、女性とは……」という全く初見の説明がない限り、そのフィクションは「見る人」が現実世界の「女性」を知っているという前提に頼っている。その前提との相似や差異を利用して、イメージを掻き立てていくのである。
だから「女性のイメージ」が「女性の」イメージである以上、現実の女性とその体に近しい意味付けがなされている以上、「女性のイメージ」と「現実の女性」はとても近い場所に置かれ、しばしば混同される。「現実の女性」が「女性のイメージ」のイメージソースになったり、「女性のイメージ」が「現実の女性」のイメージを強化したりするのだ。
人間は、人間が作った創作物を吸収し成長し学習した人間の群れの中で生きている。だから、描かれた「女性のイメージ」の体を持つ張本人でなかったとしても、同じ女性と見做される体を持っていたり、自分を女性だと思っていたり、その他あらゆる近しい意味づけをなされている「現実の女性」たちは、問答無用でそのイメージに巻き込まれ、モヤモヤする羽目になるのではないか。
それでは、実際にどんな絵を見てどうモヤモヤしたのか!? を考える……前に、次回はその「現実の女性」の、現実世界での取り扱われ方について考えようと思う。