プロローグ|聴こえない母に訊きにいく|五十嵐大【試し読み】
4月24日に、ライターで作家でもある五十嵐大さんの最新作『聴こえない母に訊きにいく』が配本となります。「かしわもち」で連載していた取材メモをもとに、追加取材をしたうえで書き下ろした一冊です。
本稿ではいち早く、本書のプロローグを全文無料公開します。ぜひお近くの書店さんなどでご予約いただけたら幸いです。
プロローグ
すべてを詳らかにされるのが公正中立な世の中だとしても、それでもぼくは、この世には明らかにされなくていいこと、知らされなくていいことがあると思っている。
友人がついた噓、パートナーの過去、家族の傷跡……。
大体の場合、それらを「知る」という行為には痛みをともなう。
でも、「これだけは知るべきではないか」と個人的に思っていることがある。ぼくの母・冴子が抱えている、過去だ。
母は耳が聴こえない。生まれつき聴力がない、先天性のろう者である。彼女はろう学校時代に、同じく耳が聴こえない父・浩二と出会い、結婚した。その後、ぼくが生まれ、聴こえない両親と聴こえる息子との間にはそれなりのイザコザもあり、それでもいまは平凡な人生を送ることができている。と、思っている。
思春期の頃のぼくは、とてもすさんでいた。親の耳が聴こえないことがコンプレックスのようになっており、常に「恥ずかしい」という感情に苛まれていた。そして、それをそのまま彼らにぶつけた。特に母に対しては、「障害者の親なんて嫌だ」と何度言ったことだろう。そんなことを口にしたって現実はなにも変わらないし、ぼくが抱えるつらさが軽くなるわけでもない。それでも吐き出さずにはいられなかった。そんなとき、決まって彼女はこう言うのだ。
〈耳が聴こえないお母さんで、ごめんね〉
母は決して弱音を吐かない人だった。自身の障害を理由に、たったひとりの息子からどんなに否定されようとも、「自分が悪いから」と受け入れ、眉尻を下げて笑ってみせる。ぼくの興奮が落ち着くのを認めると、そろそろ夜ごはんにしようね、と立ち上がる。その後ろ姿がなにを背負っていたのか、当時のぼくには知るよしもなかった。
だから、母の人生には、大きな波風は立っていなかったのかもしれない、とも思った。母の障害を人一倍気にしていたのはぼくだけで、彼女自身はそんなのどうってことない、と生きてきたのかもしれない。現に彼女は、家庭を築き、平凡な暮らしを送っている。
けれどぼくは、大人になってから、その認識が甘かったことを知る。
それはぼくが二十代半ばの頃。父がくも膜下出血で倒れてしまい、急遽帰省したときのことだ。幸いにも緊急手術は無事に成功し、後遺症も残らないとのことだった。でも、退院するまではなにが起こるかわからない。宮城県にある実家にいるのは聴こえない母と、少しずつ認知症が進行していた祖母のふたりだけ。彼女たちを置いて帰京するのは心配だ。せめて父が退院するまでは、実家で過ごすことにした。
父の手術が成功し、数日後。なにを思ったか、祖母がぼんやりと話し出した。
「あなたのお母さんとお父さん、若い頃に駆け落ちしようとしたの」
初耳だった。いつも控えめな母がそんな大胆なことをするなんて、信じられない。驚くぼくに、祖母は続けた。いったん口を開いたら止まらなくなったのか、意識がはっきりしてきたのか、祖母はどんどん饒舌になっていく。そしてぼくは、彼女が語る〝昔話〟の一つひとつに、衝撃を受けた。
祖母は、母と父が結婚することに反対していたこと。
駆け落ち事件を機にようやく結婚が認められたこと。
障害児が生まれては困るという理由から、出産も反対していたこと。
それでも子どもを欲しがる母を見兼ねて、結婚から十年が過ぎた頃にそれを認めたこと。
そうして生まれてきたぼくに障害がなく、家族みんなが安堵したこと。
祖母と母との間にあった〝物語〟、そのかけらをひとつずつ咀嚼するたび、胸中がざわめいていった。そこにあったのは、紛れもない〝差別の片鱗〟だったからだ。
同時に、母の笑顔がちらつく。いつだってニコニコ笑う彼女と、祖母の話とがうまく重ならなかった。
祖母が話してくれたことは、一体どこまで本当のことなのだろう? それを確かめる勇気はなかった。直接、母に尋ねてみることもできたかもしれない。でも、それは彼女が抱えるかさぶたを無理やり剝がす行為にならないだろうか。そんなことをすれば、きっと母を傷つけることになる。
それに、世の中には知らなくていいことがたくさんあるのだ。ぼくは祖母の言葉を胸にしまい込み、これまで通り変わらず母と接していこうと決めた。
けれど結局、ぼくは祖母から聞いた話を、『しくじり家族』というエッセイに認めた。本作は家族との関係について書いた一冊で、それを書くにあたって、どうしても隠すことができなかったのだ。もちろんエッセイには、書くべきこともあれば、書かなくていいこともある。でも、祖母が話した母の過去は、ぼくにとって〝家族〟を語るうえで避けて通れないことだった。
その後、続けて、母との関係に焦点を当てた『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』というエッセイも書き上げた。こちらに込めたのは、思春期の頃につらくあたってしまった母への謝罪の気持ちと、母との関係をやり直したいという願いだった。
すると、それを読んだ柏書房の編集者・天野潤平さんが連絡をくれた。「一度会って、話がしたい」という。打ち合わせの場で、彼は言った。
「もしよかったら、五十嵐さんのお母様の過去について、書いてみませんか?」
その言葉のあとに、「気を悪くされたらすみません」が付け加えられた。確かに、安易に提案できるものではないだろう。でも、その提案を受けて、ぼくの胸には確固たる思いが芽生えていた。
――母のことを、書きたい。
この場合の「書きたい」は「知りたい」と同義だった。あれから大人になり、ぼくのなかで母の過去は〝知らなくていいこと〟ではなく〝知るべきこと〟に変化していたのだ。
ろう者として生まれたひとりの女性が、一九五〇年代から一九八〇年代にかけてどのように生きたのか。障害者に対する差別や偏見のみならず、その出生を防止する「優生保護法」(一九四八~一九九六)という悪法もあった時代に、彼女はどうやって結婚、出産に至ったのか。それを知りたい。いや、知らなければならない。それも、母の言葉を通して。
もちろん、母の過去をこじ開けようとするのは、とても暴力的なことでもある。子どもだからといって、無理やり覗き見ることは許されないだろう。当の本人に拒否されてしまえば、もう成す術はない。それでも、母が話してくれる可能性を信じて――。
「母のことを書きたい……、いや、知りたいです」
ぼくの言葉を受け止めると、天野さんはこう続けた。
「五十嵐さんのお母様にとっての〝真実〟を、これまでに経験してきたことや感じてきたことを、まずは書き留めていきましょう」
母にとっての真実――。それが一体どんなものなのかわからないまま、ぼくは〝聴こえない母に訊きにいく〟ことを決意していた。