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第8回 共に祝うために 国家としての記憶|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉|中村達
【連載の概要】
西洋列強による植民地支配の結果、カリブ海の島々は英語圏、フランス語圏、スペイン語圏、オランダ語圏と複数の言語圏に分かれてしまった。そして植民地支配は、被支配者の人間存在を支える「時間」をも破壊した。すなわち、カリブ海の原住民を絶滅に追い込み、アフリカから人々を奴隷として拉致し、アジアからは人々を年季奉公労働者として引きずり出し、彼らの祖先の地から切り離すことで過去との繋がりを絶ち、歴史という存在の拠り所を破壊したのだ。西洋史観にもとづくならば、歴史とは達成と創造をめぐって一方通行的に築き上げられていくものだから、過去との繋がりを絶たれたカリブ海においては何も創造されることはなかったし、大文字の歴史からも零れ落ちた地域としてしか表象されえない。だからこそカリブ海作家たちは、西洋中心主義的な歴史観に抵抗する。〈記念碑や偉大な建築物、世界を形作る出来事といった「目に見える」歴史でなくとも、ここには歴史がある〉——本連載では、記憶をめぐる彼らの詩学的挑戦を巡ってゆく。
「我ら共に願い、我ら共に成し遂げる」
1960年代、カリブ海の島々は次々に宗主国イギリスから分離し、それぞれ国家として独立していった。1804年のハイチ(仏語圏)、1844年のドミニカ共和国(スペイン語圏)、そして1902年のキューバ(スペイン語圏)を除けば、カリブ海での独立という動きは英語圏において顕著である。その連鎖は、1962年のジャマイカとトリニダード・トバゴの独立から始まった。この2国に続く形で、1966年にガイアナとバルバドス、1973年にバハマ国、1974年にグレナダ、1978年にドミニカ国、1979年にセントルシア、セントビンセント及びグレナディーン諸島、1981年にアンティグア・バーブーダ、そして1983年にセントクリストファー・ネイビスが、全世界へ自身を独立国家であると宣言した。オックスフォード大学で教育を受けた歴史学者で、トリニダード・トバゴ初代首相として独立の立役者となったエリック・ウィリアムズが『コロンブスからカストロまで』において述べるように、「歴史的観点からいえば、カリブ海地方の人びとの眼前にひらけているこの未来への道は、彼らをして借り物でない彼ら自身の歴史を歩み始めさせてくれるものでなければならない。彼らをして、歴史の客体ではなく主体たらしめるもの、他国民の操り人形であることをやめさせてくれるものでなければならない[*1]」。いわばカリブ海における1960年代は、英語圏の島々が独立によって植民地支配のくびきから逃れ、「歴史の客体ではなく主体」として歩む未来への道を拓いたという意味で、歴史的な重要性を持つ時期であった。
トリニダード・トバゴの独立に合わせる形で書き上げられた『トリニダード・トバゴ国民の歴史』は、トリニダード・トバゴという「国家」に生きる国民たちの歴史を記すウィリアムズの、カリブ海出身の歴史家としての努力の結晶である。ウィリアムズは、カリブ海の先住民たるアラワク・タイノ族、コロンブスによる「発見」後にやってきたヨーロッパ人、奴隷制によって強制的に送り込まれたアフリカ人、年季奉公制によって海を渡ってきたインド人や中国人、それぞれの民族集団がいかにトリニダード・トバゴという国家の歴史に貢献してきたかを、歴史家としての腕を振るってなぞってゆく。そして最終章で、彼は「母」としてのトリニダード・トバゴのあり方について述べる。
1962年8月31日の独立記念日、トリニダード・トバゴはもはや奴隷労働や半奴隷労働によって運営される大工房などではなく、小さな国家となったのだった。ふたつの民族[アフリカ系とインド系]が解放されたが、社会は形成されていない。国家を作り出すためには、国境だろうが、どんなに心躍る国歌だろうが、どんなに特徴的な国章だろうが、どんなにふさわしい国旗だろうが、どんなに美しい国花だろうが、それだけでは足りないのだ。独立後、トリニダード・トバゴ国民が直面する課題は、今日のおよそ87万5千人のトリニダード・トバゴ国民というアマルガムを生み出した不和な要素、対立する主義主張、競合する信仰、対立する色彩から国家を創造するということである。
[……]。
そして、彼らが一緒になってこそ、社会を築き、国家を築き、祖国を築くことができるのだ。[……]。母なるアフリカは存在しえないし、もしトリニダード・トバゴがアフリカの社会であるかのような印象を与えたり、そのような妄想下で行動することを許したりしようものならば、トリニダード・トバゴ社会は嘘に生き、トラブルへと突き進んでいることになる。母なるイングランドも、二重の忠誠心もありえない。いかなる人も、両方の世界を出し抜き、英国の市民権を保持するつもりでありながらトリニダード・トバゴの市民権という特権を享受することなどできない。たとえどの中国が母であるかということに同意できたとしても、母なる中国は存在しえないし、母なるシリアも母なるレバノンも存在しえない。国家は個人と同じように、ただひとつの母を持つことができる。我々が認める唯一の母とは、母なるトリニダード・トバゴであり、母がその子たちを差別することなどありえない。すべての子が彼女の眼には平等に映らねばならない。そして我々の家族関係や家庭内の諍いに外部のいかなる国が干渉することも、たとえそれが今日のトリニダード・トバゴの人々という集団に、いつ、どのような貢献をしてきたとしても、許されない。
その長い歴史を通してトリニダード・トバゴは、植民地支配によって祖国から切り離された、異なる文化的・民族的ルーツを持つ人々を世界各地から受け入れ続けてきた。彼らの出自や血縁にかかわらず、トリニダード・トバゴは「母」として「子」である彼らを迎え入れ、愛情深く育ててきたのである。ウィリアムズにとって、独立後のトリニダード・トバゴ国民が目指すべきは、その多様性を否定するのではなく、ひとつの母国のもとで互いを尊重し合いながら共に未来を築いていくことだった。そして初代首相となったウィリアムズがトリニダード・トバゴの国家標語として採用したのが、「我ら共に願い、我ら共に成し遂げる」(Together We Aspire, Together We Achieve)という多文化主義的なメッセージなのだった。
こうしてトリニダード・トバゴは、人々が共に願い、共に成し遂げることのできる多文化主義国家として独立を果たしたのだったが、それはカリブ海特有のある大きな問題を抱え込んだまま迎えたものだった。すなわち、国内の多数派を占めるアフリカ系集団とインド系集団の軋轢である。彼らの祖先は、奴隷制と年季奉公制を通してカリブ海へ強制的に連行されてきた。1834年に大英帝国内での奴隷制が廃止され、アフリカ人を奴隷として強制的に使役させることができなくなると、イギリス人はその労働力の代用として、インド人をプランテーションに送り込んだ。イギリス人の植民地経営という欲望システムによって無理やりカリブ海に押し込められたこのふたつの人種集団は、経済的な競争と社会的な緊張状態の中で生きることを強いられたが、それでも共存の道を歩み始めた。1930–40年代の労働運動の時期には、アフリカ系伝道師テューバル・ユライア・バトラーとインド系弁護士エイドリアン・コーラ・リエンツィの活動が示すように、彼らは植民地支配由来の社会的不平等に立ち向かい、社会正義のための闘争に互いに従事していた。
しかしこの人種間に長い間燻っていた軋轢は、1960年代の独立期が近づくとより鮮明になっていった。ガイアナ人経済学者クライヴ・トーマスが言うように「1960年代の独立前夜には、すでに多くの否定的な特徴が明らかになっていた[*3]」。たとえばウィリアムズが独立前の1956年に行ったスピーチにおいて、インド系集団を「反抗的な少数派」(recalcitrant minority)と蔑視的に表現したのはよく知られている。この問題発言には、彼の政党である人民国家運動党(PNM: People’s Nation Movement)に対して、インド系の人々が支持を表明していなかったという背景がある。党首を務めていたウィリアムズは、トリニダード・トバゴという共通の「母」のもとでひとつの国民としての団結を実現するという目標を掲げる一方で、人種間の壁を越えて幅広い支持を得ることの難しさに直面していた。彼が率いる人民国家運動党が反植民地主義を掲げてトリニダード・トバゴの政治の舞台を牛耳り始めた際、トリニダード・トバゴにおけるインド・ナショナリズムの父祖として知られているインド系ジャーナリストのハリ・プラサド・シンは、人民国家運動党のもとでは黒人ナショナリズムが推進される一方で、インド系集団がアフリカ系集団の下に追いやられてしまっていると批判を展開した。実際に、シンは「人民国家運動党候補者への投票は、インド人社会に逆らう投票[であろう]」と明確に述べている[*4]。ウィリアムズが「反抗的」という発言をしたのは、彼が提唱する「我ら共に願い、我ら共に成し遂げる」多文化主義的国民政治の枠組みの中へ、インド系の人々が溶け込もうとしないことへの苛立ちが露呈した結果だったのだ。
ウィリアムズはその多文化主義的理想を掲げることで、カリブ海において発生した複数文化間の衝突と混淆の果てにある可能性を、政治という場で見事に表現しているように見える。しかしトリニダード人歴史学者セルウィン・ライアンは、「ひとたび権力の座につくと、ウィリアムズは厳格で妥協のない多数派主義者となった。人民国家運動党を支持しない民族集団は、いずれも反抗的、反逆的、あるいは反啓蒙主義者なのだった」と述べ、その理想の裏にあるウィリアムズの権威主義的政治思想を批判する[*5]。ウィリアムズにとって、多人種がひとつの国家において融和的に生活する社会を実現するためには、多数派によって導かれる政治の発展が望ましかった。そのため、「多人種主義に対する彼の誠実で知的なコミットメントにもかかわらず、彼は少数派コミュニティが自分たちの民族を選出する権利や、自分たちなりの国家共同体のあり方を提示する権利を認めることを拒否した。その多数派主義のテーゼが約束する均質な社会とは、多人種的社会ではなくむしろ非人種的社会だったのだ[*6]」。このように多数派主義的政治を遂行するために、少数派が人種的アイデンティティを拠り所とすることを許さないというウィリアムズの政治思想は、彼のインド系集団への強硬的姿勢に表れている。その姿勢は、ジャマイカ系アメリカ人歴史学者コリン・パルマーによって「辛辣で抑制を欠いている」と批判されている[*7]。
このふたつの人種間の軋轢は、カリブ海諸国においてどれほど有能な政治的指導者であってもいまだに解決することのできていない、共通的な問題である。たとえばガイアナでもアフリカ系とインド系の人々は政治において分断され、現在でも互いに政治的優位性を競い合っている。1961年から1964年という独立直前の時期に、ガイアナ政府はインド人年期奉公労働者の子孫である政治家チェディ・ジェイガンによって率いられていた。このインド系の政権に対し、アフリカ系の人々は自分たちの生活が脅かされているという感覚を経験し、反発する姿勢を示した。アメリカ人人類学者レオ・デプレが述べるように、「ジェイガンが選挙で勝利を収めた後、ガイアナ社会には人種的暴力の恐怖が蔓延した。[……]。それは、もしガイアナがジェイガンのもとで独立を達成したら、『アフリカ人をインド人の奴隷とする国になってしまう』という信念を表していた[*8]」。その後1966年に独立を果たしたガイアナの国家標語は、「ひとつの国民、ひとつの国家、ひとつの運命」(One People, One Nation, One Destiny)である。トリニダード・トバゴと同様、ガイアナが国家として掲げる理想は、民族的多様性を持つ人々をひとつの統一された国民として結びつけるヴィジョンである。しかしながら、アフリカ系とインド系の人々の間の軋轢は、その理想の実現への道のりにとって大きな障害となっている[*9]。
1960年代の独立期、ウィリアムズが掲げた「我ら共に願い、我ら共に成し遂げる」という多文化主義的理想は、彼が歴史家としての視点から捉えた、カリブ海に集った諸民族がそれぞれにその地域の異種混淆に果たしてきた貢献の「歴史」に基づいたものだった。しかしその理想は、アフリカ系とインド系の人々の間の軋轢という現実を前に挫折している。それではカリブ海作家たちは、この現実とどう向き合うのか。彼らは、自身の想像的/創造的アプローチにより、ウィリアムズの歴史家としての眼が認識することのできなかったアフリカ系とインド系の人々の「記憶」を照らし出す。この記憶は、西洋の直線的歴史記述——つまり歴史がある目的に向かって進むことを前提とする歴史記述——だけではだけでは描き出すことができない。というのも、奴隷制や年期奉公制に耐え忍びながらカリブ海に生きた人々の「歴史」を刻んだ遺跡や記念碑は、「目に見える」形ではもはや存在していないからだ。アフリカ系とインド系の人々の出会い、衝突、相克、そして融和の記憶を、カリブ海作家たちは、「歴史」を誇示する記念碑や遺跡、そして歴史記述のような「場」ではなく、風景や人物にある「痕跡」に見出すのである。
ステレオタイプ——捏造された記憶
1833年8月28日、イギリス政府は奴隷制廃止法を制定した。その1年後の1834年8月1日にこの法案は施行され、イギリス帝国内のすべての奴隷が名目上解放された。その後いわゆる「徒弟期間」(apprenticeship)という4年の移行期間(本来は6年の予定だった)を経て、1838年に奴隷たちは正式に解放された。元奴隷たちの中には、プランテーションから離れより良い環境で生計を立てようとする者や、プランテーションに残りながら高い給料を要求する者もいた。奴隷制時代と同様の働き方を彼らに強要することは不可能となったため、プランテーション経営者たちは彼らに代わる新しく安い労働力をどこかから補充しなければならなくなった。そこでイギリス政府が導入したのが、英領植民地インドから労働者を契約の下でカリブ海に送り込むという年季奉公制である。その際にイギリス政府は、黒人奴隷たちに与えられていたあるステレオタイプを「年季奉公制導入の正当化」に利用した[*10]。それが、「怠惰」である。ガイアナ人歴史学者ロバート・J・ムーアが報告しているように、「プランテーション経営者の大多数は、[プランテーションにおける]労働問題を解放された黒人たちの『怠惰』によるものだと説明した[*11]」。元奴隷たちの「怠惰」は、かつての奴隷制の間は、奴隷主が奴隷をプランテーションで絶え間なく働かせる理由となっていたが、1838年の完全廃止以降は、プランテーション経営を破滅寸前まで追い込んだ原因として、今度は批判され始めたのである。
この代表例は、スコットランド出身の歴史家・著作家トーマス・カーライルだろう。19世紀ヴィクトリア朝の保守派を代表する思想家であるカーライルは、1849年に雑誌『フレイザーズ・マガジン』に悪名高いエッセイ「黒人問題にかんする特別論説」(Occasional Discourse on the Negro Question)を発表する。このエッセイは奴隷制の必要性を説く評論として大きな反響を呼び、賛否を巻き起こした。その後、1953年にカーライルはこのエッセイの題名の「黒人」を“Negro”から“Nigger”という蔑称に変更し、パンフレットの形で出版した。このエッセイの中で、カーライルは元奴隷たちの病的なまでの「怠惰」に怒りを隠さず、それを「西インド諸島人たちの問題」と呼び、攻撃している[*12]。当時、産業革命以来の急速な経済成長と植民地開発に反比例して、イギリス国民の生活状況は大きく悪化していた。アイルランドでは絶え間ない飢饉に人々が苦しみ、ロンドンではセブン・ダイヤルズをはじめとする都市スラムが出現した。カーライル研究者の向井清が言うように、奴隷制廃止により「農業経済は衰退し、砂糖が不足して高価になった。解放は崇高な行為になりえたが、経済不況と社会不安の時期と相まって、イギリス国民に実質的な犠牲を強いることになった。一八四〇年代には砂糖は大衆消費財となってきており、中産階級のみならず下層階級の家計にも影響した[*13]」。カーライルは、イギリス国内のこの不幸の原因が西インド諸島にあるとし、解放された黒人が1日小一時間程度の労働でのうのうと生活し、「みな非常に幸福で、うまくやっている」一方で、「イギリスの白人はむしろひどい暮らしをしている」という「矛盾」に苛立ちを露わにしているのだ[*14]。
そしてカーライルは、同郷スコットランドの経済学者アダム・スミスに始まる自由放任主義的経済思想、いわゆる需要と供給に従って人々が自発的に働くという社会科学を「悲惨な科学」(dismal science)として否定する[*15]。というのも、白人とは異なり黒人は、彼が「悪魔」と形容する生来の怠惰に取り憑かれているということが、西インド諸島の元奴隷たちの生活から明らかであるからだ。この黒人どもの怠惰が、勤勉な白人溢れるイギリス国内の不幸を生み出している。そう考えたカーライルは、奴隷解放後も彼らには強制的な労働が必要であると説く。「あらゆる場合において、怠惰は必然的に悪化し、腐敗する——あえてこう言おう、まさしく悪魔がその中にいるのだと[*16]」。そして、イギリス帝国が秩序と安定を回復するために必要だと彼が支持するものこそ、自然の法則に従って、優れた白人が生まれつき劣った黒人に労働を強制する、抑圧的なシステムの再構築であった。
西インド諸島にかんしては、原則としてこう言えるだろう。[……]。神々が彼に与えたもうた労働能力に従って働かぬ黒人には、たとえそのような土地が豊富であろうともカボチャを食べる権利などほとんどない。しかし彼には、その土地の真の所有者たちによって、彼の生活のために有意義な仕事をするよう強制される、議論の余地のない永続的な権利がある。
こうしてカーライルは、元奴隷たちには「働くことを強制される権利」があり、彼らも実際にはそれを望んでいると主張するのである。彼にとって、黒人は白人の奴隷になるように神に創造された劣等な生き物なのであるから、その黒人の生まれつきの怠惰がイギリス国内の白人の不幸を生み出すなど、言語道断なのだった。
カーライルのような帝国主義者たちの言説によって「事実」として「歴史」にこびりつくことになった人種的記憶——怠惰という悪魔に生来的に取り憑かれていた元奴隷が、プランテーションに協力せず、自発的に働こうともしないという記憶——は、アフリカ系の人々が守り続けた人間としての抵抗精神を排除している。たとえばファノンは、彼らが労働を拒否する様子に隠された心理をこのように説明している。
パリあるいはエクスで、アルジェあるいは、バス=テールで、幾度われわれは見たことか、黒人の怠惰と言われ、アルジェリア人の、ヴェトナム人の怠惰と言われるものに、植民地原住民が激しく抗議する姿を。にもかかわらず、植民地体制のもとで仕事熱心な自営農民、休息を拒むニグロこそ、まさしく病理学的個性にすぎないということは、まるで真実に反しているのだろうか。植民地原住民の怠惰とは、植民地機構に対する意識的サボタージュだ。それは、生物学的にみればみごとな自己防衛の一方式であり、また所詮は、国全体に及ぶ占領者の支配に、一定の遅延をもたらすものなのだ。
奴隷たちの怠惰は本質的なものではない。カリブ海における支配と抵抗の歴史という文脈で観察すれば、怠惰は彼らが人間として生きるための「意識的サボタージュ」であり、「自己防衛の一方式」なのだ。植民地主義の歯車になることに抵抗するアフリカ系の人々の精神は、意識的な怠惰という形をとった。この抵抗を通して、彼らはプランテーション経営に大打撃を与え、見事にカーライルのような帝国主義者たちを苛つかせたのである。
しかしカリブ海の歴史は、この抵抗戦略が「逆効果」を生んだことを示している[*19]。言い換えれば、イギリスは、この意識的な怠惰を逆手に取り、さらに上を行ったのだ。この抵抗に起因した労働力不足の応急処置として、インドから安い人材の輸入を決定するに至ったのである。奴隷制廃止後、イギリス帝国主義者たちは元奴隷たちとの信頼関係を築くことも、彼らが喜んで働ける新しいシステムを模索することも拒否した。イギリス帝国主義者たちは、黒人をどうしようもなく怠惰な民族であるとし、勤勉なインド人と取って代えることで見捨てたのである。アフリカ人たちは、新しくカリブ海に送り込まれた契約労働者のインド人たちが、急に目の前に現れ土地と仕事を奪い、さらには自分たちが打撃を与えたプランテーション経営を破滅から救いだしたことに恨みを抱いた。インド人が来たせいで、自分たちが意図的に怠惰を営むことで繰り広げたサボタージュが無駄になったのだ。一方、インド人たちはアフリカ人たちに対する白人支配者たちの人種的記憶から学び取り、同じようにアフリカ人を怠惰な劣等人種として軽蔑した。たとえばイギリスの小説家アンソニー・トロロープが、1858年にジャマイカ、キューバ、ガイアナなどカリブ海を旅し、その旅行記として翌年出版した『西インド諸島とスパニッシュ・メイン』において、「強制されない限り、黒人は決して働こうとしない」と書き留めている[*20]。トロロープのようなイギリス人たちが残した記憶を受け入れ、インド人年季奉公労働者の子孫であるV・S・ナイポールは、1960年に行ったカリブ海旅行の記録である『中間航路』において、オランダ領スリナムのコロニー地方に住むアフリカ人たちを「最も怠惰な人々」、「怠惰な黒人ども」と形容している[*21]。こうした蔑視に埋め込まれているのは、アフリカ人が怠惰でなければ、自分が祖先の土地インドから離れたカリブ海で生まれることもなかったという恨みである。
イギリス帝国主義者たちがアフリカ系とインド系の人々を分断するために捏造し、利用した「怠惰」というステレオタイプは、カリブ海生まれの政治家たちによって払拭されることはなかった。ウィリアムズのような精鋭たちが多文化主義的理想を掲げて迎えた国家としての独立も、彼らを分断してきた壁を克服する契機としての機能を果たすことができなかったのである。ガイアナ人言語学者リチャード・オルソップが指摘するように、「カリブ海の黒人のイメージには怠惰というキャプションがつきまとう[*22]」。このように西洋の歴史記述の中で記録された記憶は、独立後の現代カリブ海の島々の国家構造に深く刻み込まれたまま、アフリカ系とインド系の人々の対立を決定的にしてしまっているのである。
カリブ海に「記憶の場」はあるか
ところで、国家的記憶にまつわる議論に多大な貢献をもたらしたのが、フランスの歴史学者ピエール・ノラによる「記憶の場」のプロジェクトである。ノラは1984年から1992年にかけて7巻からなる『記憶の場』を編集・出版した。アルヴァックスの集合的記憶論から大きな影響を受けたノラは、その大著で記憶が「社会的枠組み」において構成されるというテーゼを受け継ぎつつ、それを批判的に応用し、独自の視点を発展させた。『記憶の場』のマニフェスト的序論である「記憶と歴史のはざまに」では、アルヴァックスと同様に「記憶」と「歴史」を区別し、記憶がなぜ近代において問題となっているかを語っている。「歴史が加速している。この表現は、たんなる比喩にとどまらない。そこには重大な意味が含まれており、それを認識しなければならない。すなわち、バランスが崩れて倒れてしまうかのように、過去はますます急速に失われ、すべてが消え去ったと感じられつつある、ということだ。[……]。このように記憶が存在しなくなりつつあるからこそ、いまこれほど記憶が問題にされるのだ[*23]」。「グローバリゼーション、民主化、大衆化、メディア化」という変化が急速に押し寄せる近代において、人々の生活は細分化され、伝統的な共同体や文化的慣習が崩壊し、記憶を共有する場としての共同体が失われつつある、というのがノラの見立てだ[*24]。そして近代の実証主義的な歴史学は、史実としての過去の客観性を追求するべく、人々が語り継ぐ記憶の流動性や曖昧さを排除し、「歴史」として固定化してしまう。これが「歴史が加速する」という言葉の含意である。換言すれば、「歴史の真中には、自発的な記憶を破壊するような批判主義が働いている。歴史にとって記憶はつねに怪しい存在であり、歴史の真の使命は記憶を破壊し抑圧することにこそある。歴史は、生きられた過去から正当性を奪うのだ[*25]」。そのような近代化による集合的記憶の断絶に抗い、「自発的な記憶」、もしくは「真の、社会的な、ありのままの記憶」を人為的に保存する必要性から、ある象徴的な「場所」が生じる[*26]。それこそが、ノラが呼ぶ「記憶の場」(Lieux de mémoire)である。
フランスにおける記憶の場を考察プロジェクトの対象とするノラは、いわゆるパブリック・メモリーやナショナル・メモリーといった従来の歴史学的探究とは異なる、「新しい仕方でフランスの国民感情を研究すること」を念頭に置いていた[*27]。言うなればそのプロジェクトは、「フランスの集合的遺産が結晶化されているもろもろの場所、つまり、その後のあらゆる意味において、集合的記憶が根付いている重要な『場lieux』を分析することによって、フランスを象徴するものの広大な地勢図(トポロジー)を創り」だすというものだったのだ[*28]。ノラいわく、フランスの国民的記憶は自然発生的なものではなく、記憶の場を通して意識的かつ人工的に構築されたものである。この記憶の場には、モニュメントや戦場、遺跡など、文字通りの物質的場所だけでなく、三色旗やデカルトの『方法序説』など、抽象的な概念や人物や著作までもが含まれている。文学研究者でメモリー・スタディーズにも造詣が深いアストリッド・エアルによる簡潔な整理に沿って、ノラの意図を汲むと、まず「フランスにおける記憶の場はその源泉を一九世紀の第三帝政期に有している。当時、国民国家の記憶はなお集合的なアイデンティティを保持していた。だが、そのような『慣れ親しんだ』記憶は、二〇世紀になってから崩壊した[*29]」。近代のグローバリゼーションの動きの中で、地域ごとに根付いていたフランス独自の記憶や伝統は、国際的な価値観や文化に影響され、徐々に消失していった。そのため、「今日の社会は、活き活きとした過去、集団や国民国家の特徴を帯びた過去、アイデンティティを生み出す過去との繋がりが途切れた過渡期にある[*30]」。そこで、文章に残された「固定化された歴史」だけでなく、パリやヴェルサイユ、アルザスやエッフェル塔、三色旗やジャンヌ・ダルクや7月14日(革命記念日)といった象徴的な記憶の場を通じて、失われつつある記憶を保存しようというフランスの国民感情が生じたというわけだ。これらの場を通じて、国民的記憶が人工的に再生され、フランス国民としての一体感や帰属意識が強化されるのだ。このため、国民的記憶というものは、単なる歴史の流れの中に固着した事実の集積ではなく、過去と現在を結びつける複雑で感情的な動態なのである。
ノラの「記憶の場」論は、国家という枠組みにおける記憶の意味を検討するうえで多大な貢献となったが、近年、そのヨーロッパ中心史観に疑問が投げかけられている。『記憶の場』の訳者のひとりである歴史学者江川溫は、2002年3月に東京外国語大学で行われたシンポジウムにおける訳者応答で、フランスの経験に基づいた「国民国家」という理論的枠組みのヨーロッパ中心性を指摘している。「ノラにとっては自明の前提であるけれども、私たち日本人から見るときわめて特徴的に見える問題を指摘しておきたいと思います。おそらく国民国家一般が国民的記憶になるものを明示的なロジックで示すとは必ずしも言えないのではないだろうか。この点でフランスはやはり、日本と単純には比較できない。なぜかというとフランスは言うまでもなく西ヨーロッパ世界にあるからです[*31]」。
ヴェトナム史学者のフエ=タム・ホー・タイは、「記憶された領域——ピエール・ノラとフランスの国民的記憶」という論文で、ノラが「記憶の場」を「多声的(ポリフォニック)な研究」であると述べたことに注目する[*32]。単一的なフランスの国民的アイデンティティに抗して、国民国家の記憶に「多声的」なアプローチを試みると主張するノラだが、実際には植民地や外国人移住者の存在には十分に目を向けなかった。ホー・タイは、「周辺部では、植民地化という侵略によって長い眠りから覚めていた社会が、新興国家として独立することによって、歴史性のなかに引き込まれた」というノラの言葉に反応する[*33]。そのうえで、ノラの「多声的」アプローチには「あいまいさ」と「矛盾」があり、そのせいで彼は「国家的」な記憶へ注意を向ける一方で、相対的に植民地的な記憶を蔑ろにしてしまっているのだと鋭く指摘する。「ノラによれば、『記憶の場(lieux de mémoire)』は、『記憶の環境(milieux de mémoire)』が消滅したときに生まれるのだという。このような区別は、声の文化[オラリティ]と文字の文化[リテラシー]の区別と類似している。非西洋社会の歴史家は、『周辺部では、植民地化という侵略によって長い眠りから覚めていた社会が、新興国家として独立することによって、歴史性のなかに引き込まれた』という彼の主張に異論を唱えるかもしれない。それは、西洋だけが歴史を持ち、他の国には文化がある、西洋は歴史的探求の適切な対象であり、それ以外の国々の不変の文化はレヴィ=ストロース的構造主義のレンズを通して研究することができる、という信用されない考え方に呼応しているのだ[*34]」。「記憶の場」に響くポリフォニーには、植民地の人々の声は含まれていない。それゆえ、ノラが「記憶の場」の議論から想定する国民的記憶には、植民地や移民の記憶は存在しないのだ[*35]。
2016年には、アメリカの人類学者でヨーロッパの帝国主義を幅広く研究するアン・ローラ・ストーラーが同様の問題点を指摘している。彼女は著書『強要——現代における帝国の永続性』において、フランスにおける植民地支配の過去の記憶を掘り返すために「植民地的失語」(colonial aphasia)という概念を展開する。意識にあがらなかったり意識上から消えたりしたものを示す「健忘」や「忘却」の代わりにストーラーが「失語」を用いるのは、「知の閉塞」(occlusion of knowledge)という「適切な言葉や概念を適切な事物と結びつける語彙」を生み出す際の「困難」を問題視するためだ[*36]。その「失語」の状態に西洋アカデミアが陥るのが、「植民地」の問題に直面した瞬間である。ストーラーがこの「植民地的失語」の例のひとつとして取り上げるのが、ノラの「記憶の場」である。「たとえば1980年代から1990年代にかけて、ピエール・ノラが複数巻かけて国家的な想起の場所を称揚する中で頼った『記憶の場』(les lieux de mémoire)というものに、フランスの歴史家たちがあれほどまでに熱狂していた時、なぜフランスの500万平方キロメートルを超える植民的『所有地』や保護領、ましてやフランス人移民たちがその中に存在しなかったのだろうか[*37]」。国民国家としてのフランスの国家的記憶を語るためにノラが提出した知の結晶たる「記憶の場」は、植民地支配の歴史やその暴力の記憶を前に「知の閉塞」という困難に陥っている。ストーラーはさらにたたみかける。「ノラの最初の5,000ページに登場する唯一の植民地的『記憶の場』は、サイゴンやダカール、あるいはフランス人入植者が没収したアルジェリアの果樹園や畑、農場から作り出した家屋敷からではなく、1931年にパリで開催された植民地博覧会という帝国的プリズムを通して眺めたものである」[*38]。ノラの『記憶の場』には、パリと地方の分断の記憶を思い起こす余地はありながらも、フランスといわゆるその「ウトラメール」(海外)の領土の分断に言及する意識がなかったのである。ストーラーいわく、フランス人歴史学者でアフリカニストのキャサリン・コケリー=ヴィドロヴィッチがこの問題点をノラに問いただし、『記憶の場』においてなぜ植民地的記憶の場がないのかと尋ねたという。ノラの返答は、そのような記憶の場は「ない」、というものだった[*39]。
2020年には、フランス研究者エティエンヌ・アシル、仏語圏ポストコロニアル研究者チャールズ・フォースディック、比較文学研究者のリディ・ムディレノが『ポストコロニアル的記憶の場——現代フランスにおける場と象徴』という研究書を編集・出版し、ノラの西洋中心的な『記憶の場』へのカウンターを試みた。序文で彼らは「仏語圏ポストコロニアル研究は、多くの批評家が指摘してきたピエール・ノラの『記憶の場』にある欠点に体系的に取り組む時期に来ている」と明確に述べ、「記憶の場」をポストコロニアル研究に接合させる必要性を説いている[*40]。彼らがまず反応するのが、『記憶の場』プロジェクトにおいて「ナショナリズム抜きで国民について考察したり、普遍主義的な『前提』抜きでフランスについて考えようとする」というノラの狙いである[*41]。というのも、この宣言にもかかわらずノラは、植民地的記憶の場には目もくれず、彼のプロジェクトが「記憶の場」として特定する様々な象徴が持つ帝国主義的な暗がりを認めようともしなかったからだ。そこでアシルらは、ノラの『記憶の場』には「ポストコロニアル的視点から精査を受け、恩恵を受けないような項目は存在しないと言えるかもしれない」と述べる[*42]。ノラにとってまさしく「死角」であった植民地を、「ポストコロニアル的記憶の場」として捉えなおす視点が必要とされるのだ[*43]。
再びストーラーの言葉を借りれば、『記憶の場』において「ノラが『忘れた』ことは何もない。抹消された場のことを知らなかったわけでもない[*44]」。ただ、フランスの「国民的記憶」を分析する理論的枠組みとしてノラが用意した「記憶の場」は、自らをフランスとその植民地的経験に「結びつける語彙」を持ち合わせていなかったのである。その失語状態は、『記憶の場』が「多声的」な研究を志向していながら、植民地という場とその人々の声を記憶から排除してしまっていることの証左なのである。
カリブ海の多声的記憶論——「記憶痕跡」
『ポストコロニアル的記憶の場』の編者のひとりであるフォースディックは、ある本に序文を寄せている。マルティニーク島出身の小説家パトリック・シャモワゾーが、1994年にアルジェリア系ドイツ人写真家のパトリック・ハマディとともに出版した『仏領ギアナ——流刑地の記憶痕跡』である(フォースディックの序文が加えられたのは、2020年に出版された英語版)。彼はそこでこう述べている。「仏語圏におけるポストコロニアル的記憶喪失の最も顕著な例のひとつが、流刑地の記念碑の欠如である。この流刑地は、ピエール・ノラの『記憶の場』プロジェクト(1984年から1992年にかけて刊行された全7巻)からは、植民的拡大主義に関連する他のほとんどの場と同様に省かれており、植民地帝国の記憶がどのように濾過され、歪曲され、特異化され、しばしば抑圧されてきたかを物語っている[*45]」。『ポストコロニアル的記憶の場』と同年に世に出たこの文章において、フォースディックは、シャモワゾーが仏領ギアナにある記憶の「痕跡」を巡りながら世に送り出した同書が、ノラの西洋中心的な「記憶の場」に訂正を加える可能性を擁護しているのである。
英仏とロシア間でクリミア戦争が勃発した1854年、ナポレオン3世が重労働刑の執行にかんする法令に署名したことから、仏領ギアナの正式な流刑植民地化の歴史が始まった。刑罰として重労働に処せられた者は、フランス国内のブレスト、トゥーロン、ロシュフォールなどの港湾にある刑務所で服役していた。しかしこの法令以降、重労働刑を下された者はフランス国内ではなく、仏領ギアナへ送り出されることになった。植民地を流刑地とすることで、政治的に危険性のある者や社会に害を与えかねない人物を本国から遠く離れた場所に収容し、再犯のリスクを回避することができる(8年以上の重労働の刑期を言い渡された囚人は、実質的に仏領ギアナへ終身追放となった。だがこの移送法の第6条に「倍増制」〈doublage〉という制度があり、8年未満の刑期を言い渡された者も、釈放時に刑期と同じ期間仏領ギアナに留まる義務が課せられていた)。加えて、帝植民地に豊富で安価な労働力を提供することもできた。このように、本国の治安の維持と同時に帝国主義的な拡張を可能にするために、仏領ギアナは格好の流刑地となった。流刑地は受刑者だけでなく看守や植民地行政官にとっても過酷な環境であり、死亡率が高かった。そのため1864年以降、フランス政府は囚人を新しく設立されたニューカレドニアの流刑地に送り出すことにした。このニューカレドニアへの移送はおよそ30年後の1897年に終了したが、仏領ギアナはその間も流刑地として機能し続け、フランス国内だけでなくその植民地から送られてくる囚人を受け入れ続けた。しかし1920年代、フランス人ジャーナリストのアルベール・ロンドルが現地に入り込み、囚人たちが置かれた苛酷な環境を暴露する記事を発表し反響を呼んだことがきっかけとなり、1938年に流刑移送を正式に廃止する法案が成立した[*46]。
こうした仏領内の流刑植民地の記憶は、「多声的」なアプローチでフランスの国民的記憶をたどろうとした「記憶の場」プロジェクトで、ノラが決して認識しようとしなかったものである。「記憶の場」から排除された、植民地の風景に染み込んだ声——自然に刻み込まれた記憶——は、「場」ではなく「痕跡」としてカリブ海に響いている。その「痕跡」に触れる想像的/創造的アプローチこそが、『仏領ギアナ』においてシャモワゾーが見せんとしているものだ。この作品は、ハマディが流刑地の跡地を訪れ、現地で撮った60枚以上の写真とともに、忘れ去られた記憶を探求することを目指した、シャモワゾーによる「記憶の詩学」の結晶である。彼はまず、国家権威によって承認された公式の歴史——大文字のHを用いて“History”と表現される大文字の歴史なるもの——を、「1の記憶」(Memory-One)という概念で説明する。「1の記憶」は、訳者のマット・リックの解説を借りれば、「『記憶の集合体を組織する』権威を持つもの」、すなわち「不変であると称する記憶、歴史」である[*47]。大きな権威が国家の歴史として定めるひとつの大きな時間の流れ、あるいは記念碑や歴史書といった形で一束にまとめられた「国民的記憶」というものが、「1の記憶」である。その「1の記憶」からは、仏領ギアナのような流刑地植民地の記憶やカリブ海の記憶などは国家権威によって覚えるに値しないものと規定され、排除されてしまう。だからこそ「記念碑という概念を刷新し、遺産という概念を脱構築する必要がある。植民的な大文字の歴史の記述の下に、複数の歴史の痕跡を見つける必要がある。砦や建物といった高尚な記憶の下に、これらの集団にとって決定的な段階が結晶化した、数少ない場を見つける必要があるのだ[*48]」。「1の記憶」として受け入れられることのない、カリブ海で生きた人々の歴史と記憶——その痕跡を、カリブ海作家たちは見つけ出し、表現する必要がある。そのためにシャモワゾーが提出するのが、「記憶痕跡」(Memory trace)という考えである[*49]。
シャモワゾーいわく、「記憶痕跡」とは「支配された歴史と破壊された記憶の目撃者であり、それらの保存を助けるものであるがために、大文字の歴史と1の記憶によって忘れ去られる空間である[*50]」。その痕跡は、「記念碑、墓標、彫像、またはかつての歴史家たちによる文書の崇拝によって顕在化されうるものではない[*51]」。すなわち、物質的な目に見える形での歴史の象徴に、「記憶痕跡」は存在しないのである。というのも、「記念碑が死んだ結晶であるのに対して、記憶痕跡は生命の閃光」だからだ[*52]。「記憶痕跡は集合的であると同時に個人的であり、垂直的であると同時に水平的であり、共同体主義的であると同時に世界的であり、動かせないが持ち運べる、それと同時に壊れやすい。その一方で、記念碑は常に支配権力が持つ強固で垂直的な権威の証人であるのだ[*53]」。
この「記憶痕跡」は、国家の栄華を歴史の流れの中から選び取り、国民の象徴として未来永劫記念するような、国民が覚えているべきものの選定基準を決定づける「垂直的な権威」に抗い、文字にも残らない「苦しみ」の記憶を抱き続ける。「それらは苦しみを目撃する。/それらは苦しみを保存する[*54]」。つまるところ「記憶痕跡」は、歴史の表舞台を豪華に飾る偉業の数々についての記憶ではなく、そこから排除された、見るに堪えないトラウマ的記憶の痕跡なのである。シャモワゾーにとってそれは、公式の歴史(「大文字の歴史」、「1の記憶」、「記憶の場」のような支配的な記述が誇示する歴史上の偉業や達成)に対抗して存在する、「粉々で、散り散りになった、儚い」苦しみの記憶の目印なのだ[*55]。
シャモワゾーの「記憶痕跡」によるアプローチは、フランスの輝かしい国民的記憶から切り離された仏領ギアナの朽ち果てた流刑地、そしてそこに放置された瓦礫、苔生した残骸、そして壁に刻まれた数字などに想像的/創造的に働きかけることで、そこに染み込んだ人々の声を蘇らせる。『仏領ギアナ』の序文でフォースディックが説明しているように、シャモワゾーによって仏領ギアナの「廃墟は有機的なものとなり、国家によって承認された記憶が流刑地に課したような忘却を、苔、湿地、土、埃といった層を通して映し出す。同時にそれはカウンター的記憶の空間であり、注意深い放浪者の歩みのリズムによって新たに蘇る、過去が交わる痕跡の貯蔵庫なのである[*56]」。「記憶痕跡」による想像的/創造的アプローチとは、目に見える形で存在する記憶に従事することではない。それはカリブ海の風景に刻まれた、「記憶の場」にそぐわない「他者」として大文字の歴史から追い出された人々の苦しみの記憶を、想像を通して創造し直す作業なのである。シャモワゾーは、本編の終わりでこのように主張している。
可能な限りのあらゆる方法で、我々はそのように消耗してしまうことを食い止め、何が残されるのかについて語るプロセスを開始するために尽力せねばならない。そのためには、こういった場から、革新者を追い出し、再建を望む人々から身を引き、建造者や建築家、観光産業家、そして政治家・開発者たちを追い出さなければならない。我々は、これらの壊れやすい記憶を、記念碑の管理者に渡してはならない。太古の昔から、世界の記憶痕跡を大切にする方法を知っている人々に渡さなければならない。つまり、沈黙を生きる友に、孤独を生きる兄弟に、無機物の味方に、もはや誰も聞こうともしないものに耳を傾ける恐るべき魂に——その手つかずの航路に、目に見えない記憶の牧草地を残す者たちに。
カリブ海は、ノラが想定した「記憶の場」(大文字の歴史)によって排除された人々の記憶をその風景に中に抱き続ける、苦しみと癒しの稀有な世界である。その記憶は、目の前にある記念碑を管理する者には感知することができず、深い共感と想像力をもって目に見えないものを見ようとする者にのみ現れる。シャモワゾーのようなカリブ海作家たちが実践する「記憶痕跡」は、「もはや誰も聞こうともしないものに耳を傾ける」という、痛みと苦しみへの理解を必要とする想像的/創造的な——そして真に「多声的」なアプローチである。
アール・ラヴレイス、『ソルト』
トリニダード人作家アール・ラヴレイスによる小説『ソルト』(Salt)は、1834年の奴隷解放令から1960年代の独立期にかけての物語である。そこでは、トリニダード・トバゴにおいてイギリス、アフリカ、インドという3つの世界がどのように邂逅し、どのような対立に陥り、どのように互いにトリニダード・トバゴという国に生きていくかという歴史が、ラヴレイス特有の群像劇で描かれてゆく。その群像劇の中心にいるのは、アルフォード・ジョージという人物である。物語は大きく2部に分かれ、第1部ではアルフォードの幼少期から政治家への転身までが描かれている。元奴隷の貧しい家の息子として、クナリポにあるカスカドゥという村に生まれたアルフォードは、6歳まで話すことができず、内向的な性格のまま少年期を過ごす。トリニダードを離れイギリスへ行くことを夢見るが、それは叶わず地元の教師となる。その後、西洋のスタンダードに則りエリートを育てるための教育に不満を覚え、文部省への抗議を行ったことがきっかけで政治の場に入ってゆく。彼はインド人年季奉公労働者の子孫ソナン・ロチャンとその甥ケノス、プランテーション経営者の子孫アドルフ・カラボンとともに多人種的政党の旗揚げを計画する。しかし首相(ウィリアムズがモデルである)が党首を務める国家党(The National Party、人民国家運動党をイメージしている)にアルフォードが取り込まれ、その計画は頓挫する。第2部では政治家となった結果共同体から孤立し苦悩するアルフォードのもとに、語り手の叔父であるバンゴが現れる。彼は毎年独立記念日に、あらゆる人種グループの子どもたちを誘い、カーニヴァルの行進を実施している人物である。バンゴの語りを通して、アルフォードは国民党の権威的政治に抵抗するため、独立記念日にバンゴの行進を支援する計画を立てる。アルフォードはソナンとアドルフを誘うもの、ふたりはその場に現れなかった。それでもその行進は、トリニダード・トバゴという国に生きる人々の明るい未来の兆しを示し、物語は終了する。
『ソルト』は、ギニア・ジョンという奴隷にかんするバンゴの語りから始まる。1804年から1811年までトリニダード総督を務めたトーマス・ヒスロップによる統治下で、ギニア・ジョンはある日腋にトウモロコシの芯をふたつ挟み、アフリカに文字通り飛んで帰っていった。アフリカからカリブ海に連行されてきた奴隷たちの間には、死後アフリカへ飛んで帰ることができるという言い伝えがあった。しかし、塩を口にしてしまうと体が重くなり、二度と飛ぶことが叶わなくなるのだ。小説の題名『ソルト』が示唆する通り、現在カリブ海に住まう人々は、ギニア・ジョンとは異なり、アフリカへ飛んで帰ることができなかった奴隷たちの子孫である。そのひとりが、アルフォードだ。彼は幼い頃から、より良くより大きな世界というものがトリニダードとは別のところにあり、自分がトリニダードにいるのは一時的なものだと考えていた。ゆくゆくはイギリスへ向かうことを願っていたのだが、家庭の問題で国内に残らざるを得なくなった[*58]。自分がトリニダード・トバゴからの「脱出」に失敗した経験から、教員となった後は島を離れてより良い機会を求める優秀な生徒を育てるべく、非常に厳格な教育を実践する。「これがこの島の世界だ。しかし、もうひとつの世界がある。彼はその世界の大きさを、脱出というアイデアを、彼ら[生徒たち]に満たした。[……]子どもたちはその世界という味、空間の壮大さ、時間の大きさ、そして脱出の可能性を感じ始めていた[……][*59]」。
しかし、そのようなエリート教育は地元の文化と伝統を否定するだけであるということに気づいたアルフォードは、子どもたちが「脱出」するためでなく、この島で生きていくための教育を行う必要性を認識する。それまでの教育とは打って変わり、アナンシーの民間伝承やカリプソを教え始める。そして文部省の前でハンガーストライキを決行したことがきっかけで、教員を辞し政治活動を始めることになる。彼はソナン、ケノス、アドルフとともに「グループ」(the Group)を結成し、トリニダード・トバゴの多人種的現実を反映する政治を展開することを試みる。彼らは現在社会を苛ませているのが人種間の不和であるとして、それぞれが歩み寄ることでその傷の「癒し」を得ることができると考える。「自分の存在する場所と時間で生み出された創造物や実践を、あたかも自分とは何の関係もないかのように見てしまえば、自分自身と自分の存在を否定してしまう危険性があるということを、我々ひとりひとりが認識する必要がある。[……]。この国の一角一角が、不安感を覚えているのは明らかだ。指導者たちは、自分たちの小さな目的のためにそれを利用するのではなく、指導者たちは癒しの手助けをする必要がある[*60]」。彼らはその「癒し」をカーニヴァルによって実現できるか議論し、毎年独立記念日に行進を主催しているバンゴに協力を持ち掛ける。しかしその後アルフォードが国家党に入ったことで、「グループ」は瓦解する。
「グループ」の仲間たちとの議論の中で、アルフォードは「もし政党を持つのであれば、国民の前に出る必要がある」と語っていた[*61]。しかし政界に入ったために、自分が生まれ育った環境、そして共に生活していた人々から孤立してしまい、アルフォードは悲観的になる。「私は自分の使命を忘れてしまった。私は権力の座に存在する者たちを編み込んだタペストリーの一部になってしまったのだ[*62]」。そこに現れたのがバンゴである。彼は「グループ」からのカーニヴァルへの依頼を断っていた。アルフォードは、そもそもバンゴがなぜ私財を投げ捨ててまで行進を続けるのかを、誰も知らなかったことに気づく。「なぜ彼は行進するのだ? 誰一人彼に尋ねることもなかった[*63]」。国民党の事務所にある首相室で、バンゴはアルフォードにある物語を始める。それはギニア・ジョンの曾孫でバンゴの曽祖父にあたる、ジョジョの話だった。1834年に奴隷制が終わり、ジョジョは奴隷主のカラボンと対等の関係となり、共に「この新世界を家として」主張する決意を固める[*64]。ところが、イギリス政府が奴隷制の廃止に対して奴隷所有者に2000万ポンドの補償を決定する一方で、元奴隷たちには実質的な奴隷制の延長とも呼べる「徒弟期間」を与えるのみだったことに、ジョジョは激怒する。怒りのままに彼が実行したのは、怠惰による抵抗ではなく、懸命な労働だった。「彼は、カラボンとそこの仕事を存続させるべく、憤怒の怒りの限りを尽くし、一日も欠かさず働き、農園の繁栄を破壊するようなストライキやサボタージュや策略には一切加担しなかった。すべては彼がカラボンにとっての敵というよりも兄弟となるためだった[*65]」。ジョジョの行為は、黒人が生来怠惰という悪魔に取り憑かれており強制されない限り働くことがないという、西洋人によって捏造された人種的記憶の妥当性を否定するものである。彼は奴隷主でプランテーション経営者であるカラボンと「敵というより兄弟」となり、その経営を破壊させないため、そして新世界という家で共に生きるため、働いたのだった。
ある日、ジョジョはカラボン邸を訪れ、カラボンに請願書を手渡す。それはヴィクトリア女王に向けた請願書であり、植民地総督に届けるよう、ジョジョはカラボンに頼むのだった。
女王陛下の植民地省首席秘書官、グレネーグル男爵閣下へ
グレートブリテン及びアイルランド王国女王陛下のアフリカの臣民の署名により、以下申し上げます。陛下の署名者たち(Your Memorialists)はアフリカの原住民でありますこと。奴隷貿易が行われていた時代、陛下の署名者たちは自分たちの土地、友人、親戚から切り離され、奴隷商人の土地に引き渡され、奴隷商人は陛下の署名者たちを西インド諸島に輸入し、売却しましたこと。陛下の署名者の名は変更されてしまいましたこと。陛下の署名者たちの労働の成果は、彼ら自身の発展のためではなく、彼らの労働を不法に命じた者たちの維持のために使われましたこと。彼らが奴隷とされる環境の結果、陛下の署名者たちは今、この島を故郷とする以外に選択肢がありません。なぜなら、こここそが彼らの多くが生まれ育った場所であり、彼らの労働が築き上げた場所だからです。
陛下の署名者たちは、正義と人道のため、そして我々を捕らえたことにより利益を得た者たちと捕らえられた者である我々との間の、未来における調和的な関係のため、以下のことを信じます。慈悲深き陛下が署名者たちに、土地という形で、良き環境という形で、そしてその他の方法で、救済をお与えなさるということを。慈悲深き陛下が、私たちになされた過ちに対する賠償として、それが適切であるとお考えになる方法で。慈悲深き陛下が、陛下の謙虚な臣民が自身の過失でもなく何世紀にもわたり置かれた立場に対して、遺憾の表明としてお考えになる方法で。陛下の署名者たちがこの最も劣悪な仕方で貶められるのを、慈悲深き陛下がお防ぎになるために。
この請願書は、実際にトリニダードのポート・オブ・スペインにあるマンディンゴという地域の人々が、1838年1月12日に署名し提出した実際の文章とほぼ変わらないものである(ジョジョの請願書の宛先は「グレネーグル」だが、実物の請願書の宛先は「グレネルグ」〈Glenelg〉である)[*67]。この請願書を読み、カラボンはジョジョの正気を疑い、何が望みなのかと尋ねる。そしてジョジョはこう返す。
「始まりを求めているんです。新たな始まりを」
「誰にとっての新たな始まりなんだ?」と、カラボンが彼に尋ねる。
「私たちの両方にとってです」
しかし、元奴隷主と元奴隷の「未来における調和的な関係」と「新たな始まり」に向けたジョジョの期待は、容易く裏切られることになる。徒弟期間が終わった頃、ジョジョは見慣れぬ集団を目撃する。そして同じく元奴隷の友人から、彼らがインド人であると教わる。「あいつらはここに働きに来たんだよ。[……]これがお前の補償の請求に対する答えさ[*69]」。そしてその後、プランテーションへ向かおうとした際、ジョジョは近くの土地でナタを振る音を聞く。
ジョジョは驚き立ち止まった。短刀を持ってその音のする方に近づいてみると、インド人がひとり茂みを切り開いているのが見えた。彼の怒りはさらに大きくなった。こいつらは大胆なやつらだ。総督が俺の陳情に応じるのを邪魔して、仕事を横取りしに来たのだ。そして今、こうしてひとり政府管理の土地に居ついてやがる。
「おい」とジョジョが声をかけた。「何してるんだ?ここに人が住んでいるのが見えないのか?どうして何にも言わずにそうやって入ってくるんだ?」
インド人の男は激しい怒りを感じながらも冷静に彼を見ていた。言葉を詰まらせ、ほとんど詫びるような声を出し、彼は言った。「この土地は私のものですよ」。
「お前のもの?」
「契約しているからです。私はインドには戻る気ありませんし」
「契約? 契約だって? 誰がお前とそんな契約をしたんだ?」ジョジョはまるで王国の保護官のように彼を詰問した。
このジョジョとインド人年季奉公労働者フェローズの遭遇に象徴される、カリブ海におけるアフリカ系とインド系の人々の出会いの記憶は、記念碑や遺跡に目に見える形で残されているはずがなく、歴史書に記されていることもない。この遭遇の瞬間は、ラヴレイスの想像的/創造的アプローチによって詩学的に再現されることで、初めて読み、触れ、感じることが可能になる。ジョジョはトリニダードを、元奴隷主と元奴隷が対等な関係で共に暮らす家としたいと願った。しかし、イギリス政府はその願いに耳を傾けることもなく、新たな労働力としてインド人契約労働者を送り込んできたのだ。ラヴレイスは「相互歓待」と題されたスピーチで、この状況を次のように説明している。「奴隷解放令自体は、奴隷となっていたアフリカ人と植民者との間に新たな関係を築こうとするものではなく、経済システムの新たなあり方を模索するものでもなかった。それは同じプランテーション・システムを維持したのである。プランテーションでは、アフリカ人に代わってインド人が労働に従事し、労働者にもたらされるはずだった利益——もし我々がそう呼べるのだとしたら——は、すべてインド人が享受した。プランターたちは、それまで奴隷だったアフリカ人の労働力の損失を補償された。アフリカ人は謝罪も補償もなく、ただ自由にされ、プランテーションの組織システムの外に押し出されたのだった[*71]」。この裏切りに対して、ジョジョは怒りをイギリスにではなく、新参者であるインド人たちに向ける。ジョジョのように、アフリカ人たちは、奴隷制に耐え働き続けた自分たちが得るはずの利益が、そして何より自分たちの家が、突然現れたインド人によって盗まれたと感じたのである。この考えから、ジョジョはさらに賠償の必要性を強く主張し始めるが、そうすることで「フェローズと他のインド人たちを敵に回してしまった」のだった[*72]。
バンゴが語るジョジョとフェローズの出会いの記憶は、現代カリブ海諸島の国家におけるアフリカ人とインド人の間の対立が、決して自然発生的なものではなかったことを示している。つまりその対立の裏には、両者を敵対関係に置くことで支配者側に憎しみを向けさせまいとする、イギリスによる狡猾な統治政策があったのだ。しかし、その記憶は西洋の偉大な作家や歴史家たちが記す史実として書き残されているわけではなく、それが真実であるのかどうかはもはや誰にもわからない。象徴的なことに、アルフォードがバンゴの語りを聞いた首相室は、「歴史が詰まった部屋」であった[*73]。そこには植民地総督の肖像画が飾られており、1530年にサントドミンゴからトリニダードを植民地化するためにやってきたアントニオ・セデーニョ、1580年から1597年まで総督を務めたスペイン人兵士アントニオ・デ・ベリオ、1783年から1797年までスペインの占領下で最後にトリニダード総督を務めたドン・ホセ・マリア・チャコン、そしてイギリス人総督ヒスロップ、トーマス・ピクトン、ラルフ・ウッドフォード、ヒューバート・ランス卿の顔が並んでいる。このカリブ海の歴史を支配する人物たちを眺め、アルフォードはこう思った。「これは彼らの歴史である[……]。自分の歴史ではない。ならば我々の歴史はどこにあるのだろう[……][*74]」。
ギニア・ジョンやジョジョら先祖たちの記憶は、記念碑に刻まれたものではなく、「呪い」として、そして「光」として、子孫であるバンゴに染みついているものだ[*75]。バンゴはアルフォードにこう述べる。「彼ら[イギリス人]が自分たちの歴史を書き記す。するとあなたは彼らに何も尋ねません。意味が分からなくても、それを飲み込んでしまうのです。しかし、黒人が話し始めると、あなたはすぐに日付と名前と時間と場所を聞きたがるでしょう。まるでその話よりもその場面に興味があるかのように[*76]」。ここでバンゴが語る、史実になりえない記憶は、まさしく「記憶痕跡」である。シャモワゾーは『仏領ギアナ』の中で、記憶痕跡が「書き言葉の下で人から人へと伝えられる年配者の言葉——口承の記憶——のみが目撃する」ものであると述べている[*77]。首相室に詰め込められた「歴史」にも、首相ウィリアムズが書き記した『トリニダード・トバゴ国民の歴史』にも含まれない、アフリカ系とインド系の人々の出会いと軋轢の「記憶痕跡」を、バンゴは語るのである。
バンゴの語りを傾聴し、その「記憶痕跡」を受け止めたアルフォードは、独立記念日に行われるバンゴの行進に参加する。「グループ」の仲間であったソナンやケノス、そしてアドルフがそれに参加することは叶わなかった。彼らは当時、「問題は、[……]私たちはみな見知らぬ人同士だということだ。私たちに必要なのは、他者を歓待する誰かなんだ」と語っていた[*78]。その歓待を、その人生を通して実践し続けていたのが、バンゴなのだ。先祖たちの記憶を「呪い」と「光」として受け継いだ彼は、なぜトリニダード・トバゴにおいて様々な人種グループが互いを歓待することに失敗してしまったかを理解していた。だからこそ、彼は人種間の壁を越えた行進を毎年計画し、私財を使い切るまで実行していたのである。彼の行進に参加したアルフォードは、ようやくそのことに気づく。「ジョジョと繋がるために、バンゴはその過去の裂け目を越えたのだ。傷害を認めることも、損失に対処することもなかった奴隷解放。それが付与された後も、蹂躙され続けたというジョジョの感覚をまだ持ち続けるために。/そして彼は恥を感じた。自分たちがその下で生き続けている侮辱というものに憤慨することをバンゴにのみ押し付けていた、彼自身とその共同体に対して。[……]。彼は、共同体全体が不正義と侮辱と臆病さに対する憤りを感じることを望んだ[*79]」。この「恥」の感覚こそ、アルフォードがウィリアムズのように目に見える史実のみを「歴史」として受け止めるのではなく、「記憶痕跡」に触れることのできる政治的指導者として成長した証拠なのだ。
カリブ海の「国民的記憶」は、目に見える形としての「場」には存在しないかもしれない。肖像画や記念碑が見せる、大文字の歴史の流れの中に固着した「記憶」は、アルフォードの言葉を借りれば、「彼らの歴史」ばかりを見せている。物質として、そして文字として残らなったカリブ海の人々の記憶は、想像を通してのみ触れることのできる「痕跡」として存在しているのだ。アルフォードは、バンゴの語る「記憶痕跡」に耳を傾けることで、アフリカ系とインド系の人々が互いをトリニダード・トバゴという家に招き入れること(「相互歓待」)に失敗した原風景を、ジョジョとフェローズの出会いの記憶を通して学び取る。そうすることで、政治家として成長してゆく。ラヴレイスが表現するカリブ海の記憶の詩学は、現代カリブ海社会に生きる人々が、その人種間不和を越え、共に願い、共に成し遂げる歩みを進めるための可能性を見せてくれるのである。
註
[*1]E. ウィリアムズ『コロンブスからカストロまで(II)——カリブ海域史、一四九二-一九六九』川北稔訳(東京:岩波書店、2014年)、357。
[*2]Eric Williams, History of the People of Trinidad and Tobago (New York: Frederick A. Praeger Publisher, 1962), 278–9.
[*3]Clive Y. Thomas, The Poor and the Powerless: Economic Policy and Change in the Caribbean (New York: Monthly Review Press, 1988), 176.
[*4]H. P. Singh, The Indian Struggle for Justice and Equality against Black Racism in Trinidad and Tobago: 1956–1962 (Couva, TT: Indian Review Press, 1993), xlv.
[*5]Selwyn D. Ryan, Race and Nationalism in Trinidad and Tobago (Toronto: University of Toronto Press, 1972), 375.
[*6]Ibid.
[*7]Colin A. Palmer, Eric Williams and the Making of the Modern Caribbean (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2006), 263.
[*8]Leo A. Despres, Cultural Pluralism and Nationalist Politics in British Guiana (Chicago: Rand McNally, 1967), 264.
[*9]その他のカリブ海の国家標語をいくつか紹介する。ジャマイカ、「多くの人々からひとつの国民」(Out of Many, One People)、アンティグア・バーブーダ、「各々が努力し、皆で成し遂げる」(Each Endeavouring, All Achieving)、グレナダ、「神を意識しつつ、我々はひとつの民として志し、築き、前進する」 (Ever Conscious of God, We Aspire, Build and Advance as One People)。
[*10]Richard Allsopp, “Caribbean Identity and Belonging,” Caribbean Cultural Identities, edited by Glyne Griffith (Lewisburg: Bucknell University Press, 2001), 41.
[*11]Robert J. Moore, “Colonial Images of Blacks and Indians in Nineteenth Century Guyana,” The Colonial Caribbean in Transition: Essays on Postemancipation Social and Cultural History, edited by Bridget Brereton and Kevin A. Yelvington (Kingston, JA: The University of the West Indies Press, 1999), 129.
[*12]Thomas Carlyle, “The Nigger Question,” The Nigger Question: The Negro Question, edited by Eugene R. August (New York: Appleton-Century-Crofts, 1971), 3.
[*13]向井清『トマス・カーライル研究——文学・宗教・歴史の融合』(大阪:大阪教育図書、2002年)、365。
[*14]Carlyle, 3.
[*15]Ibid., 8.
[*16]Ibid., 10 (original emphasis).
[*17]Ibid., 9 (original emphasis).
[*18]フランツ・ファノン『地に呪われたる者[新装版]』鈴木道彦、浦野衣子訳(東京:みすず書房、2015年)、291–92。
[*19]Ryan, 30.
[*20]Anthony Trollope, The West Indies and the Spanish Main (London: Chapman and Hall, 1859), 225.
[*21]V. S. Naipaul, The Middle Passage (London: Picador, 2001), 193.
[*22]Allsop, 42.
[*23]ピエール・ノラ「序論 記憶と歴史のはざまに」『記憶の場——フランス国民意識の文化=社会史 第1巻 対立』長井伸仁訳、谷川稔監訳(東京:岩波書店、2002年)、29。
[*24]同書、30。
[*25]同書、32。
[*26]同書、30。
[*27]ピエール・ノラ「『記憶の場Lieux de mémoire』から『記憶の領域Realms of Memory』へ——英語版序文」『記憶の場——フランス国民意識の文化=社会史 第1巻 対立』谷川稔訳、谷川稔監訳(東京:岩波書店、2002年)、15。
[*28]同書。
[*29]アストリッド・エアル『集合的記憶と想起文化——メモリー・スタディーズ入門』山名淳訳(東京:水声社、2022年)、46。
[*30]同書。
[*31]江川溫「翻訳者からの応答」『クァドランテ』第5号、2003年、47。
[*32]ノラ「『記憶の場Lieux de memoire』から『記憶の領域Realms of Memory』へ」、26。
[*33]ノラ「序論 記憶と歴史のはざまに」、30。
[*34]Hue-Tam Ho Tai, “Remembered Realms: Pierre Nora and French National Memory,” The American Historical Review, vol. 106, no. 3 (2001), 915.
[*35]ドイツ文学・比較文学研究者のアンドレアス・フイセンも「今日の『記憶の場』は、[……]グローバライゼーションによって変化した分野でも機能している」と述べ、ノラが当時実践していた記憶の場の研究が、国家や限定された地域という枠組みに収まっており、フランス国内外で人々が営む交流によって変化した記憶の領域にまで手が届いていないと指摘している。Andreas Huyssen, Present Pasts: Urban Palimpsests and the Politics of Memory (Stanford: Stanford University Press, 2003), 97.)
[*36]Ann Laura Stoler, Duress: Imperial Durabilities in Our Times (Durham, NC: Duke University Press, 2016), 128 (original emphasis).
[*37]Ibid., 158.
[*38]Ibid.
[*39]Ibid., 159. ちなみにフランスにおける移民史研究のパイオニアであるジェラール・ノワリエルが、公開の場でノラと対談した際に、コケリー=ヴィドロヴィッチと同様にこの点を問いただしたことがあった。その後、ノラはノワリエルに『記憶の場』第3巻への寄稿を依頼した。そしてノワリエルが書いたのが、「フランス人と外国人」という章である。(Ibid., 158)
[*40]Etienne Achille, Charles Forsdick, and Lydie Moudileno, “Introduction: Postcolonializing lieux de mémoire,” Postcolonial Realms of Memory: Sites and Symbols in Modern France, edited by Etienne Achille, Charles Forsdick and Lydie Moudileno (Liverpool: Liverpool University Press, 2020), 1.
[*41]ノラ「『記憶の場Lieux de memoire』から『記憶の領域Realms of Memory』へ」、24。
[*42]Achille, Forsdick, and Moudileno, 8.
[*43]Ibid., 1.
[*44]Ibid., 159.
[*45]Charles Fordsdick, preface to French Guiana: Memory Traces of the Penal Colony, by Patrick Chamoiseau, translated by Matt Reeck (Middletown: Wesleyan University Press, 2020), xi.
[*46]仏領ギアナの流刑地の概要はFordsdick, preface to French Guiana, xi–xii. ロンドルによる流刑地での取材活動については、真野倫平による『アルベール・ロンドル——闘うリポーターの肖像』(東京:水声社、2023年)の「第五章 徒刑場にて——一九二三年」が詳しい。ちなみに仏領ギアナの流刑地は、スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンが主演した1973年公開の映画『パピヨン』の舞台である。
[*47]Matt Reeck, “Translator’s Note,” French Guiana: Memory Traces of the Penal Colony, by Patrick Chamoiseau, translated by Matt Reeck (Middletown: Wesleyan University Press, 2020), xxi.
[*48]Patrick Chamoiseau, French Guiana: Memory Traces of the Penal Colony, translated by Matt Reeck (Middletown: Wesleyan University Press, 2020), 6.
[*49]Ibid., 7.
[*50]Ibid.
[*51]Ibid.
[*52]Ibid., 8.
[*53]Ibid.
[*54]Ibid., 5.
[*55]Ibid., 11.
[*56]Fordsdick, preface to French Guiana, xv–xvi.
[*57]Ibid., 28.
[*58]村の名前カスカドゥは、広く南米に分布する魚で、トリニダード・トバゴではカスカドゥラという名で知られる魚を示唆している。トリニダード・トバゴには、カスカドゥラを食べると必ずトリニダード・トバゴに戻ってきてしまうという伝承がある。それを題材にしたのが、インド系トリニダード人作家サミュエル・セルヴォンの『カスカドゥラを食べた者たち』(Those Who Eat the Cascadura)である。
[*59]少年期から青年期にかけてのアルフォードには、ナイポールの姿がイメージされているかもしれない。
[*60]Earl Lovelace, Salt (London: Faber and Faber, 1996), 92.
[*61]Ibid., 85.
[*62]Ibid., 130.
[*63]Ibid., 161.
[*64]Ibid., 173.
[*65]Ibid., 45.
[*66]Ibid., 182.
[*67]Gertrude Carmichael, The History of the West Indian Islands of Trinidad and Tobago (London: Alvin Redman, 1961), 414.
[*68]Lovelace, Salt, 182.
[*69]Ibid., 185.
[*70]Ibid.
[*71]Earl Lovelace, Growing in the Dark: Selected Essays, edited by Funso Aiyejina (San Juan, Trinidad: Lexicon Trinidad, 2003), 167–68.
[*72]Lovelace, Salt, 187.
[*73]Ibid.
[*74]Ibid., 125 (original emphasis).
[*75]Ibid., 45 (original emphasis).
[*76]Ibid., 187.
[*77]Chamoiseau, French Guiana, 5.
[*78]Lovelace, Salt, 93.
[*79]Ibid., 257.
参考文献
● Achille, Etienne, Charles Forsdick, and Lydie Moudileno. “Introduction: Postcolonializing lieux de mémoire.” In Postcolonial Realms of Memory: Sites and Symbols in Modern France, edited by Etienne Achille, Charles Forsdick and Lydie Moudileno, 1–19. Liverpool: Liverpool University Press, 2020.
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● Moore, Robert J. “Colonial Images of Blacks and Indians in Nineteenth Century Guyana.” In The Colonial Caribbean in Transition: Essays on Postemancipation Social and Cultural History, edited by Bridget Brereton and Kevin A. Yelvington, 126–58. Kingston, JA: The University of the West Indies Press, 1999.
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●ウィリアムズ、E『コロンブスからカストロまで(II)——カリブ海域史、一四九二-一九六九』川北稔訳。東京:岩波書店、2014年。
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●ノラ、ピエール「『記憶の場Lieux de mémoire』から『記憶の領域Realms of Memory』へ——英語版序文」『記憶の場——フランス国民意識の文化=社会史 第1巻 対立』谷川稔訳、谷川稔監訳、15–28。東京:岩波書店、2002年。
● ---「序論 記憶と歴史のはざまに」『記憶の場——フランス国民意識の文化=社会史 第1巻 対立』長井伸仁訳、谷川稔監訳、29–56。東京:岩波書店、2002年。
●ファノン、フランツ『地に呪われたる者[新装版]』鈴木道彦、浦野衣子訳。東京:みすず書房、2015年。
●真野倫平『アルベール・ロンドル——闘うリポーターの肖像』東京:水声社、2023年。
●向井清『トマス・カーライル研究——文学・宗教・歴史の融合』大阪:大阪教育図書、2002年。
凡例
・引用文中の亀甲括弧〔 〕は原著者・翻訳者による補足を、角括弧[ ]は引用者による補足を意味している。
・引用文献のうち、邦訳のないものはすべで引用者が原文から訳し起こしている。
著者略歴
中村 達(Tohru NAKAMURA)
1987年生まれ。専門は英語圏を中心としたカリブ海文学・思想。西インド諸島大学モナキャンパス英文学科の博士課程に日本人として初めて在籍し、2020年PhD with High Commendation(Literatures in English)を取得。現在、千葉工業大学助教。主な論文に、“The Interplay of Political and Existential Freedom in Earl Lovelace's The Dragon Can't Dance”(Journal of West Indian Literature, 2015)、“Peasant Sensibility and the Structures of Feeling of "My People" in George Lamming's In the Castle of My Skin”(Small Axe, 2023)など。日本語の著書に『私が諸島である——カリブ海思想入門』(書肆侃侃房、2023)。2024年11月、同書で第46回サントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞。
お知らせ
本連載は今回が最終回となります。ご愛読、誠にありがとうございました。なお、2025年には連載をもとに書き下ろしを加え、書籍化する予定です。準備ができた頃に、改めてお知らせいたします。ご期待くださいませ。