佐竹本三十六歌仙絵巻をめぐるドラマ
「佐竹本三十六歌仙絵巻」をご存じでしょうか。
三十六歌仙+住吉大明神の風景の、全37図が載る絵巻で、鎌倉時代に製作されたものです。
久保田藩(秋田)の大名家であった佐竹家に伝わっていたことから、「佐竹本」と呼ばれます。
もともとは1つの絵巻でしたが、現在は絵ごとに分断されて、「歌仙絵」としてバラバラになり、各所有者の元で保管されています。
なぜ立派な絵巻物がバラバラにされてしまったのでしょうか。
このnoteでは、歌仙絵の流行と、「佐竹本三十六歌仙絵巻」をめぐる事件についてまとめました。
歌仙絵の流行
柿本人麻呂像
そもそも歌人の作品は和歌。鑑賞するのも、和歌がメインであるはずです。それが歌人の肖像を鑑賞するようになったのは、「人麿影供」が始まりだとされています。
人麿影供は、平安時代からすでに“神”として崇められてきた柿本人麻呂の肖像を掲げ、和歌を献じ、歌道精進を願うという儀式。
最初に行ったのは、六条藤家の祖である藤原顕季です。
顕季は、白河院が持っていた人麻呂の絵を写させ、藤原敦光の賛(賞賛の文章)を付け、歌合を行いました。初度人麿影供の記録には、敦光著『柿本影供記』があります。
ちなみに白河院の人麻呂像は、もともと藤原兼房(平安後期歌人)が人麻呂を礼拝するために作らせたものです(『古今著聞集』・『十訓抄』)。
肖像を描く時代に
平安時代に描かれていたのは、人麻呂のような神格化された人の想像図でしたが、鎌倉時代にさしかかると、生きている同時代の人々の肖像が描かれるようになります。
美福門院加賀を母に持つ歌人・藤原隆信は、「似絵」という写実的な人物絵を得意としました。手法は息子・信実に世襲され、以降絵画の家となります。
この信実が、「佐竹本三十六歌仙絵巻」の作者とされる人物。
歌仙絵には、似絵の表現が使われています。
三十六歌仙は、平安時代に藤原公任よって選ばれた歌人たち。つまり鎌倉時代の人々からすれば、“昔の歌人たち”です。
同時代の人の絵を描くようになったこの時代では、過去の歌人の歌仙絵を作ろうと発案される前に、まず同時代の歌人の歌仙絵が作られたと考えられます。
その作品に挙げられるのが、『時代不同歌合絵巻』です。
後鳥羽院の編んだ選歌合『時代不同歌合』に、歌人の絵が付けられました。
佐竹本の行方
佐竹家コレクションの売立
佐竹本はもともと京都の下鴨神社にあったものです(『蒹葭堂雑録』)。江戸時代後期ごろに佐竹家に移り、幕末、明治時代と佐竹家に所蔵されましたが、大正6年(1917)に売りに出されることになります。
なぜ立派な絵巻物を売りに出してしまうのか?
明治維新で経済的にダメージを受けた旧大名家は多く、佐竹家も、家の宝物を売ってお金に換えることを余儀なくされていたのです。
華族(旧大名家)の財産を保護するために定められていた「華族世襲財産法」が改正され、当主の意志で家財を売却できるようになったこともあり、名家の大々的な売立が行われるようになっていました。
さて、「佐竹本三十六歌仙絵巻」に付けられた値段は、35万3000円。大正時代初期の1万円=今の1千万円~2千万くらいなので、億を超える値段です。高すぎる!
一人ではとても買うことができないということで、京都・大阪・東京の道具商が合同で落札することになりました。
成金・山本唯三郎
とは言え、全員でお金を折半するとなると、絵巻そのものも折半しなくてはなりません。誰か一人で買ってくれる大金持ちはいないのか……そこで白羽の矢が立ったのが、山本唯三郎です。
当時の日本は、第一次世界大戦による軍需産業が発展し、大儲けする実業家がいました。山本は、そんな成金の一人です。「どうだ明るくなつたろう」で有名な、成金おじさんのモデルとされています。
こうして所有者の決まった「佐竹本三十六歌仙絵巻」でしたが、第一次世界大戦の終結とともに、経済界にも暗雲が……。山本も経営難に陥り、2年ほどで絵巻を手放さなくてはならなくなりました。
鈍翁・益田孝の決断
再び貰い手を探すことになった「佐竹本三十六歌仙絵巻」ですが、三井財閥の重鎮であり、茶人・美術収集家としても有名だった益田鈍翁(本名益田孝)の尽力によって、歌人ごとにバラバラに売られることが決定します。
明治時代以降、旧大名家や寺院から売りに出された美術品や骨董品、仏像の数々は、欧米人が購入して海外に出ていくことも多くありました。益田鈍翁は、「これではいかん」と、そういった名品を蒐集した人物です。
「切断事件」当日
絵巻物は、なが~い1枚の紙が巻かれたものではなく、何枚もの用紙を貼り繋いで作られます。つまり、その境目の糊を丁寧に剥がせば、バラバラにできるのです。
こうして歌人ごと(+住吉大社)の歌仙絵となった「佐竹本三十六歌仙絵巻」。人気なのは、僧侶よりも、色鮮やかな着物をまとう女流歌人の絵で、購入価格にも差がつけられました。
誰がどの歌仙絵を買うかは、益田鈍翁の茶室「応挙館」にて行われた、くじ引きで決まりました。しかし最終的にくじの結果とは別の絵が所有者に渡っていることもあるので、忖度の上、しかるべき人に相応な絵が行き渡ったということでしょう。
各々に行き渡った歌仙絵は、それぞれ表装されて、大切に保管されてきました。時代が流れ、所有者は幾度か変わっていますが、戦災や災害を免れて今日まで伝わっています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。