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名作の連鎖

 エッセイ連載の第23回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 大辻清司の生誕100年ということ、
 ジェーン・バーキンが亡くなったこと、
 それで思い出したことなどを書いてみました。

写真家 大辻清司

 大学生のときに、少しだけ写真を習っていたことがある。
 大辻清司という先生で、今年が生誕100年で、展覧会も開かれる。

 本も出版される。

 私はこの先生の写真がとても好きだった。
 あとで安部公房もほめていることを知って驚き、嬉しかった。

 このシナリオをもとにしてつくられた大辻清司氏の写真は、映画の断片というものではなくて、独立したイメージの再構成として非常におもしろいものだと思う。

「実験映画のシナリオ」『安部公房全集』11巻 新潮社

 大辻先生の推薦で、私も一枚だけ、いまはなき『カメラ毎日』という雑誌に写真を載せてもらえたことがある。
 なぜ写真を続けなかったかというと、難病になって入院してしまったからだ。いろいろなことが、それっきりになってしまい、写真もそのひとつだ。

誰かに命をねらわれているつもりで見る

 それはともかく、私はもともと写真を撮るほうではなく、このときがほとんど初めてだった。
 なので、何をどう撮ったものか、戸惑った。
 そのとき考えたのが、誰かに命をねらわれているつもりになってみたらどうだろう、ということだった。
 そういうつもりで周囲を見回せば、おのずと見え方もちがってくる。

 で、実際、やってみたのだが、そうすると、自分の視野がいかに限られたものであるかがよくわかって、びっくりしてしまった。
 一度に見える範囲はごく限られていて、しかもその範囲内もぜんぶがちゃんと見えているわけではない。きょろきょろとがんばって見回しても、ほとんど見逃していると言ってもいいほどだ。

 調べてみると、細部まで判別できる「中心視野」は、視線を中心にした約20度の範囲だけで、あとの「周辺視野」は、動きにこそ敏感なものの、物の形はぼやけ、色もあまりわからないそうだ。
 命をねらわれている者にとっては、なんともたよりないものだ。

 ある一瞬の光景をすみずみまで充分に見ることができるのは、それを写真に撮ったときだけだ。人が写真というものにひかれるのは、そのせいではないだろうか。少なくとも、そのせいもあるだろう。
 本来はほとんどを見逃していたはずの現実を、いくらでも時間をかけて見つめることができる。写真の中ではもはや時間は進まないのだから。

 そうすると、当然、目で見ていたときには見逃していたものが見つかる。
 写真の面白さは、撮影者も気づいていないものが写っていることにあると思う。絵画の場合、そこに描かれているものは、すべて画家によって描かれたものだ。アクションペインティングのように偶然性が取り入れられている場合でも、キャンバスの上に描かれたものはすべて画家が作り出したものだ。
 しかし写真の場合、撮影者にとってもまったく思いがけないものが、撮影者が意図したわけではないものが写っている。
 わかりやすい例が、心霊写真だ。撮ったときには気づかなかったのに、後から見ると写っている。心霊絵画というものがあるかどうかは知らないが、少なくとも心霊写真ほど有名ではない。「写ってしまった」こそが、写真の魅力の醍醐味だと思う。

 ゴミ捨て場など、ふだんなら目をそむけたくなる光景でも、これを写真で見ると、不思議にひきつけられる。捨ててあるゴミのひとつひとつが、なぜか目をひく。何か見落としてきた現実がそこに写っているのではないかという気になってしまう。

映画『欲望(Blow-up)』

 前フリが長くなったが、こういう写真の魅力とおそろしさを見事に描いているのが、映画『欲望(Blow-up)』(1967年)だ。20歳のジェーン・バーキンが出演している。

『欲望』の主人公はカメラマンで、静かな公園で寄り添っている男女を、気まぐれから写真に撮る。
 そのフィルムを現像して引き伸ばし(Blow-up)をしたとき、女が何かを見ていることに気づく。
 女の顔の部分だけをさらに引き伸ばす。
 その視線の先にある繁みをさらに引き伸ばす。
 さらに別の部分も引き伸ばす。
 どんどん引き伸ばす。
 部屋の壁は、引き伸ばした写真でいっぱいになる。

 すると、そこには死体と、犯人らしき男の姿が写っている。
 写真を撮ったときには、つまり目で見たときには、まったく気づいていなかったことだ。
 公園に戻ってみると、写真通りの場所に死体が横たわっている。
 しかし、少し時間が経った後でもう一度戻ったとき、そこに死体はない。ネガもプリントもすべて失われる。

 この写真の引き伸ばしのシーンは、たまらないほど魅力的だ。そんなにもこのシーンにひきつけられるのは、先に書いたように、撮影者にとってもまったく思いがけないものが写っていて、それをじっくり確認できることに、写真の醍醐味があるからだろう。

コルタサル『悪魔の涎』

 この映画には、もとになった小説がある。ラテンアメリカ文学の代表作な作家のひとり、コルタサルの『悪魔の涎』という短編だ。
『悪魔の涎』では、自分が撮った写真を引き伸ばして壁に貼った主人公は、いつもの仕事机に向かってその写真をながめていたとき、まさにその写真を撮ったときと同じ視点に自分がいることに気づく。そして、あらためて、何度も、時間をかけて、それを見る。見ずにはいられない。そうすると、写真を撮ったときには気づかなかったことが、だんだん見えてくる。目で見ていたときには見えていなかった現実がどんどんあふれ出してくる。彼は目を閉じ、泣き出し、時間の感覚を失う。

コッポラ『カンバセーション…盗聴…』

 もとになった小説があって、映画が作られるというのは、よくあることだが、じつは、映画『欲望』からさらに別の映画が生まれている。

『欲望』はカンヌ映画祭でグランプリを獲得しているが、カンヌでこの映画を見たコッポラ監督は、大いに刺激を受けて、のちに『カンバセーション…盗聴…』(1974年)という映画を撮る。そして、この『カンバセーション…盗聴…』もカンヌ映画祭でグランプリを受賞する。

『カンバセーション…盗聴…』は、『ゴッドファーザー』と『ゴッドファーザー PART II』の間に撮られた。
 私は「映画を見たという満足感が最も得られる映画は?」と問われたら、『ゴッドファーザー』をあげるが、「コッポラの映画でいちばん好きなのは?」と問われたら、『ゴッドファーザー』ではなく、この『カンバセーション…盗聴…』をあげる。あまり有名ではないが、素晴らしい映画だ。

『カンバセーション』では、目から耳へと主題が移る。
 今度の主人公は盗聴のプロだ。
 盗聴したテープの同じ箇所を彼は何度も何度も聞き返す。
 観客はそのシーンに惹きつけられる。どんな現実も、そんなふうにくり返して聞き直すなら、必ず気づいていなかった新しい現実が現れてくるに違いないからだ。
 実際、映画の中でも、音声に処理を加えていくと、そこから秘密の会話が現れてくる。
 そこには喜びとショックが同時にある。現実をより深くとらえた喜びと、やはりとらえそこねていた現実があったというショックだ。
 彼は録音に執着する。録音せずに、ただ普通に聞くだけでは、もはや彼には不充分だ。録音された音という、くり返せる時間の中で、より深く聞くこと。しかし、その間にも、録音されない時間がどんどん流れていく。

 音の場合は、なんでもかんでも勝手に耳に飛び込んできて、選択はできない気がする。しかし、実際には、聞きたい音だけを集中的に聞き、他の音はぼんやりとしか聞いていない。ある程度騒がしい場所でも会話が可能なのはそのためだ。「カクテルパーティ効果」と呼ばれる。
 選択は音のさまざまな性質によって行われるが、音の発生する位置も大きく関わっている。ある位置から発せられる音だけに意識を集中することができるのだ。位置は、音が左右の耳に入ってくる時間差によって割り出される。
 テープに録音すると、この位置の割り出しができなくなるため、必要な音だけを聞き分けることが難しくなる。周囲の雑音が予想以上に大きく録れていて、すべての音が溶けた飴玉のようにくっつきあってしまうのは、録音機の性能のせいだけではないのだ。

 ようするに、わたしたちは、目にしたほとんどのものを見逃し、耳にしたほとんどのことを聞き逃している、ということだ。
 つまり、人生のほとんどは、ちゃんと見ていないものと、ちゃんと聞いていないことからできていて、さらにそれを自覚することさえ難しい。

デ・パルマ『ミッドナイト・クロス』

 連鎖はまだ続き、この『欲望(Blow-up)』と『カンバセーション…盗聴…』の両方にインスパイアされて、『ミッドナイト・クロス(Blow Out)』(1981年)という映画が作られる。ブライアン・デ・パルマ監督の作品だ。
 この映画の主人公は映画の音響効果マンで、野外でたまたま事件の音を録音してしまう。その音を映像と組み合わせたときに、新しい事実が浮かび上がってくる。

安部公房『箱男』『密会』

『欲望』→『カンバセーション…盗聴…』→『ミッドナイトクロス』という連鎖を、私はとても素晴らしいと思う。
 どれも、じつに魅力的な映画だ。

 なお、以下はまったく証拠のないことで、私の完全な憶測にすぎないのだが、安部公房が「見ること(のぞき)」をテーマとした『箱男』という小説のあとに、今度は「聞くこと(盗聴)」をテーマとした『密会』を書いたことには、『欲望』→『カンバセーション…盗聴…』という連鎖が関係しているのではないかと思っている。
 安部公房が映画好きで、これらの作品を見ていたのは間違いないという以外には、何の根拠もないことだが。

名作の連鎖を楽しむ

 もしよかったら、コルタサルの『悪魔の涎』を読んで→アントニオーニ監督の映画『欲望』を見て→コッポラ監督の映画『カンバセーション…盗聴…』を見て→デ・パルマ監督の『ミッドナイトクロス』を見るということを、ぜひやってみてほしい。
 名作の連鎖の楽しさを堪能してもらえるはずだ。

 さらに、もしよかったら、安部公房の『箱男』を読み→『密会』を読んでみてほしい。



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