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「やらなくて後悔するより、やって後悔したほうがいい」は本当か?(後編)

 新しく始めたエッセイの連載の3回目です。
 毎月、15日と30日の夜に、アップする予定です。
 バックナンバーは、『人生は「何をしなかったか」が大切』というマガジンに入れていきます。

 今回は、前回のつづきです。
 みなさんからいただいたご意見もご紹介しています。

みなさんのご意見

 前回、「やって後悔」と「やらなくて後悔」について、心理学の研究や、名言や映画などをご紹介し、
「やらなくて後悔するより、やって後悔したほうがいい」は本当に正しいのか?
「みなさんは、どう思いますか?」
と投げかけてみた。

 SNSやコメント欄でお返事をくださったみなさま、ありがとうございました!
 いろんな考えを聞けるのは楽しいものだ。いくつか、気になったものを紹介してみたい。

「やらない後悔の方が実感として傷は深いです」と、やはり実感としてもそういう人が多かった。

「為せば成る成さねば成らぬ何事も」だから、やらないよりやるほうが、人生にプラスなのではないかという人もいた。

「やらなくて後悔するより、やって後悔したほうがいい」と言われるのは、「やるべき」というプレッシャーになる
という意見もあり、なるほどと思った。迷っているとき、いつもやることになってしまう。

ポイントはどこなのか?

 数の問題という人もいた。

「行動した後の結果は、大抵一つだけです。ストレスの比重の差でしょうかね」

 やらなかった場合には、やった場合のいろんな結果を想像してしまうので、それだけ後悔も重くなるというわけだ。

 時間の問題という人もいた。

「『やって後悔』の場合、時間によって解決されるということなのだろうか。『やらなくて後悔』は時間がたつほど思い出されるような気がする」

 やったことは、もう起きてしまったことだから、そこからはだんだん時間が解決してくれるところもあるが、やらなかったことは、なにしろやっていないので、いつまでも時間が解決してくれないというわけだ。

 実体験かどうかの差だという人もいた。

「『やらなくて後悔』は、その行為自体も、想像や空想の向こうにあるではないですか。それに対し、『やって後悔』は、その行為も結果も、実体験となるところがまったくちがうなと」

 たしかにそうだ。
 実体験のほうがリアルなわけで、よけいこたえそうなものだが、想像や空想でしかない『やらなくて後悔』のほうがこたえるというのも興味深い。

 結果がわかっているかどうかだという人もいた。


「『やって後悔』は結末を知っている、わかっている。しかし『やらなくて後悔』は自分にも誰にももしその道を選んでいた場合の展開も結末もわからない。人は選ばなかった道、別の人生、未使用の切符、どこか違う世界で違う生き方している仮の自分に、歳を重ねるほど憧憬の念を抱くのではないでしょうか」

 美化ということをあげる人も多かった。

「思い出は美しく変化しやすいし、未完で終わった漫画や小説、結末を見逃したドラマは心に強く残りますし、気になります!そして何を想像するのも自由ですから」
「告白したらしたでの人生もあったのでしょうが…。でも、告白しなかったからこその美化もあると思うんですよね」

後悔の味は人生にまじらないほうがいいのか?

 これだけいろいろな意見が出てくるのだから、やっぱり人に話を聞くというのは面白い。
 私が書こうと思っていたことも、すでにみなさんが言い尽くしてくださったように思う。

 いちおう書いておくと、私が思っていたのはこんなことだ。
「やって後悔」より「やらなくて後悔」のほうが、よけいに後悔するというのは、これはもうまちがいのないところだろう。多くの人の実感がそうなわけだから。
 でも、だからといって、「やらなくて後悔するより、やって後悔したほうがいい」ということになるのかどうか、ちょっと疑問を感じるのだ。

 つまり、「後悔はしないほうがいいのか?」という疑問だ。
「そりゃあ、しないほうがいいだろう」と思う人が多いだろう。私も後悔はつらい。何か選択して、後悔すると「しまった」と思うし、後悔せずにすめば「よかった」と思う。なるべく後悔しない選択をしたい。
 ただ、人生の味わいというのは、よかったことだけで増していくものでもない。苦味や酸味もあってこそ、全体の味がよくなるということもある。

私の経験

 これは後悔とは少しちがうのだが、私にはこんな経験がある。
 20歳で難病になった後、私は「もし難病にならず、それまでどおりずっと健康だったら、どんな人生だっただろう?」と考えずにはいられなかった。
 それを想像するのは、とてもつらいことだった。難病患者としての今の人生はわき道にそれてしまったものとしか思えず、本来の人生を歩いている自分の後ろ姿がいつも見えた。でも、もう自分はその道には戻れない。

 また、こんな想像もした。「もし特効薬とかができて、難病が治ったら」という想像だ。
 もし病気でさえなければ、自分には何でもできるような気がした。
 今はベッドの上から動くことができないけれど、病気さえ治れば、山にも登るし海にも潜るし、日本国内はもちろん海外にも行くし、いろんなことをやって挑戦的に冒険的に人生を楽しんでやるのに! と思った。
 それができない、難病という足枷がくやしかった。

じつはやらない

 ところが、13年間の闘病のあと、私は手術をして、ある程度、普通の生活を送れるようになった。じゃあ、山にも登るし海にも潜るし……といろんなことをしたかというと、まったくしなかったのだ。
 もちろん、手術をしても、病気が完全に治ったわけではない。普通の人とはぜんぜんちがう。だから、できないのだ。

 でも、それだけではないことに気づいた。もし本当に完全に健康だったとしても、自分はきっとそれほど挑戦的に冒険的に人生を楽しみはしなかっただろうと、そのとき初めてわかった。難病にならず、健康なままだったとしても、さほど挑戦もせず、さほど冒険もせず、なんとはなしの人生を送っていただろう。

 難病になったために、想像の中の〝健康だった場合の自分〟は躍動し、光り輝いたのだ。

 そして、もうひとつ気づいたのは、自分はそういう想像によって、ずいぶん支えられていたということだ。
 もちろん、先にも書いたように、そういう想像をするのは、すごく苦しいことだった。決して手に入らない、手に入れそこねた人生を想像するわけだから。
 しかし、自分にはそんな人生がありえたかもしれないという想像が、現実には難病とふたりきりの自分のみじめな人生を、ずいぶん飾り立ててくれていたのだ。荒涼とした土地に、想像の花を咲かせてくれたわけだ。
 もしその想像の花がなかったら、私は荒涼とした土地にぽつんとひとりだった。

苦しいけれど、支えにもなる

 後悔にも、これに近いところがあるのではないだろうか。
 たとえば、「もし告白していたら……」と考える。もしかしたらOKだったかもしれない。そうしたら、人生が大きく変化していたかもしれない。もし結婚まで進展していれば、ずっとその人と何十年もいっしょにいることになったはずで、まるでちがう人生だ。それはいったいどんな人生だったのか……。と、「もし」や「もしかしたら」や「はず」だらけの想像を始めれば、それはどこまででもひろがっていく。

 もちろん、その想像が輝かしいほど、苦しみも大きい。それはもう手に入らない、なぜ自分は告白しなかったのかと自分を責め、身もだえる。まさに後悔の苦しみだ。

 しかし、この後悔の苦しみがないほうが、人生が豊かだとは言えないだろう。そういう想像をふくらませることのできる後悔を持っているほうが、人生が豊かだとも言える。

「しょせん想像じゃないか」と無価値に思う人もいるかもしれないが、人間はそんなに現実だけで生きていない。「おれは現実にしか興味がない」という人でも「お金さえあれば幸福になれる」という想像は持っていたりする。私の「健康にさえなれれば幸福になれる」とそんなにちがいはない。
 人生の半分以上は、じつは想像でできているのではないだろうか。

「やって後悔」ばかりでなくても

 もしそうだとすれば、想像の種となる「やらなくて後悔」は、ないほうがいいとばかりも言えない。そういう後悔もあるほうが、人生が豊かとも言える。

 実際、「いつも正しい選択をしてきたから、後悔はない」という人より、「後悔だらけで……」という人のほうが、話していてだんぜん面白い。後悔の味わい深さによって、その人自身の魅力も増している。つゆの味わいによって、そばの味がよりひきたつように。

「やらなくて後悔」の名言

 というわけで、「やらなくて後悔するより、やって後悔したほうがいい」というのはたしかに金言だけれども、それ一辺倒でなくてもいいのではないかと思う。
 前回は、やって後悔したほうがいいという名言ばかり紹介したが、じつはやらなくて後悔するのもいいじゃないかという名言もちゃんとある。

 画家のゴッホはこう言っている。

「後悔することが何もなければ、人生はとても空虚なものになるだろう」

 だとしたら、「やらなくて後悔」のほうが、いつまでも後悔するわけだから、いつまでも空虚にならずにすむとも言える。

「もっとも永く続く愛は、報われぬ愛である」

 と作家のサマセット・モームは言っている。
 日本の文芸評論家の亀井勝一郎も、


「恋の味を痛烈に味わいたいならば、それは片思いか失恋する以外にないだろう」

 と言っている。

「悔いの大将」

 日本の古典文学は、後悔をじつに魅力的に描いている。
 古くは『源氏物語』の薫。その恋は、すべて実を結ぶことなく、後悔の連続だ。
 後悔する主人公が登場する物語はたくさんあったようで、『狭衣物語』にはその一部が引用されているらしい。『みづからくゆる』とか『八千度の悔い』とか。そこには「悔いの大将」という表現もあるそうで、大将とまで呼ばれるほど後悔する人物が登場していたようだ。
 どうせなら、「悔いの大将」を目指すのも一興だと思う。
 私もそうとう後悔ばかりしているが、まだ中将くらいかもしれない。

次回もさらに後悔について

「やって後悔」と「やらなくて後悔」について書いてきたが、後悔はもちろんそればかりではない。もっとちがう後悔もある。
 次回は、さらに別の後悔について書いてみたいと思っている。
 後悔ばかりつづくが、後悔というのはあとをひくものなので、もう1回だけおつきあいいただければ幸いだ。



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頭木弘樹
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