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人生は「何をしなかったか」が大切

 今年最初のエッセイです。
 少し長いですが、もしよろしかったら。

 新しく始めたエッセイの連載です。
 毎月、15日と30日の夜に、アップする予定です。
 バックナンバーは、『人生は「何をしなかったか」が大切』というマガジンに入れていきます。

 人は「人生で何をしたか?」で判断されがちです。
 でも、「何かしなかったか」を誇りにしてもいいのではないでしょうか。



何かを成しとげてこそ、人生を生きたと言えるのか?

 人は「人生で何をしたか?」で測(はか)られがちだ。

 私も10代のころは、「自分は将来、何をするんだろう?」と夢見ていた。
 夜、眠る前のふとんの中などで。

 たくさんの人たちが、いろんなすごいことを成しとげている。
 アインシュタインが相対性理論を考え出したり、ダ・ヴィンチがモナリザを描いたり、始皇帝が中国を統一したり。

 もちろん、そんなすごいことは自分にはできない。
 そんなことはわかりきっている。
 それでも、もっと小規模でいいから、何かをしたいと思っていた。死ぬときに、「自分は人生でこういうことをした」と思えるようなことを。

 逆に言うと、何もない人生をおそれていた。
 死ぬときに、「何もできなかったなあ」とガッカリするとしたら、それはすごくつらいことではないかと思っていた。

 ダ・ヴィンチがこんなことを言っている。

あたかもよくすごした一日が
安らかな眠りを與(あた)えるように、
よく用いられた一生は
安らかな死を與(あた)える。

『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』上巻  杉浦明平 岩波文庫

 私は「いやなことを言うなあ」と思ってしまった。
 夜、寝るときに、ものたりなさを感じることがほとんどだからだ。なかなか一日を「よくすごす」ことなんてできない。
 だとすると、人生の最後にも「安らか」ではいられないということだ。

 なんていやな予言だ。

これが一生か、一生がこれか

 それでも10代のころは、まだ未来がたっぷりあると思っているから、「まあ、人生に何かあるだろう」と楽観していた。

 たしかに〝何か〟はあった。
 でも、思っていたものとはまるでちがっていた。
 20歳で難病になったのだ。

 そこからは20代はまるまる、そして30代になっても、ずっと闘病生活だ。人生は闘病一色。

 これが「野球しかやっていなかった」とか「絵しか描いていなかった」とかならいいのだが、「闘病しかしていなかった」では、じつにむなしい。

 人生が空っぽどころか、マイナスだと感じた。
 何もしていないどころか、ずっと溺れかけているのだ。

 トイレに行ったりしたとき、ふと「自分の人生はこれだけなのか、これが自分の人生なのか」と思うと、ふいに涙が頬を流れたりして、自分でも驚いた。
 樋口一葉の「これが一生か、一生がこれか、ああ嫌(いや)だ嫌だ」という言葉が身にしみた(「にごりえ」『樋口一葉 ちくま日本文学13』ちくま文庫)。

 最近、雑誌「BRUTUS」のNo.1008で「一行だけで。」という特集をやっていて、穂村弘さんがこういう短歌を紹介していた。

眠らむとしてひとすじの涙落つ きょうという無名交響曲

      大滝和子『銀河を産んだように』砂子屋書房

 解説にはこう書いてあった。

何事もない一日が過ぎて、何者でもない自分が、誰にも知られないまま、世界の片隅で眠ろうとする。その時、不意に「ひとすじの涙」がこぼれた。悲しいとか淋しいとかは、よくわからない。ただ、今日という日を生きた命の雫のような涙。「むめいこうきょうきょく」の中には「きょう」の響きが隠されている。

「何者でもない自分」
「誰にも知られないまま」
「世界の片隅で眠ろうとする」
 ということが、私もひどくこたえていた。

「何をしなかったか」の大切さ

 でも、今はまったく考えがちがう。
 2022年2月28日に私はTwitter(現X)にこうツイート(現ポスト)した。

 どうしてそう考えるようになったかというと、最初はこんなきっかけだった。

 昔の知り合いと久しぶりに集まったときに、ある女性が再婚を報告して、こう言った。
「わたしの今の夫、すっごく素敵なの!」
 どんなのろけを聞かされるのかと思ったら、
「お酒をぜんぜん飲まないの!」
 と、それだけで終わった。

(えっ、それだけ?)と内心、思った。
 まあたしかに、大酒飲みよりはいいかもしれないけど、素敵と言うほどの長所だろうか。むしろ、お酒をいっしょに楽しめないのは欠点と思う人も多いのでは。そんなふうに思った。

 でも、あとから知ったのだが、彼女の前の夫は、アルコール依存症になり、暴力暴言その他、さんざん苦労したのだそうだ。なんとか別れることができて、それでもしばらくは男性恐怖症にもなっていたらしい。

 だから、お酒を飲まないということは、彼女にとっては大変な長所なのだ。
「大酒飲みよりはいいかもしれないけど」などと軽く考えた自分を反省した。大酒飲みの夫がどれほど大変か、リアルに想像できていなかった。
 リアルに体験した彼女にとって、お酒を飲まないということは、光り輝くほどの美点なのだ。

 このときまで私は、人の長所というのは「何かができる」ことだと思っていた。「仕事ができる」とか「親切にできる」とか。
 しかし、「何かをしない」ということも、また長所になりうることに、このとき初めて気がついた。

カフカが"書いていなかった"こと

 もうひとつ、こういう出来事もあった。
 私は以前から、カフカと2回も婚約した恋人のフェリーツェが、どうしてカフカを好きだったのか、不思議だった。
 カフカはこんな手紙を送ってくる人だ。

 将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
 将来にむかってつまずくこと、これはできます。
 いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。

 神経質の雨が
 いつもぼくの上に降り注いでいます。
 今ぼくがしようと思っていることを、
 少し後には、
 ぼくはもうしようとは思わなくなっているのです。

『絶望名人カフカの人生論』新潮文庫

 こんなことをラブレターに書いてくる人と、つきあいたいだろうか?
 1回目の婚約はまだしも、それが破棄になったあとも、再度婚約しているのだ。カフカのどこをそんなにいいと思ったのか?

 その答えがわからないまま、私は『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)というカフカの伝記本を書いていたのだが、カフカの友人の医師で作家のエルンスト・ヴァイスが、フェリーツェのことをこんなふうに評したというのだ。
「相手のベルリン女性はただ実務だけの人間であって、『時代の毒』にもっとも染まった女であり、生活をともにできるはずはない」池内紀『フランツ・カフカの生涯』新書館
 フェリーツェは当時はまだ珍しかったキャリアウーマンで、10代でタイピストからスタートして20代前半で大手企業の管理職まで出世した人だ。
 そういう女性には、こういう反応を示す男性のほうが当時は多かっただろう。未だにそういう男性が少しはいるくらいなのだから。
 しかし、カフカはまったくちがう。そんなことは思いもしなかっただろう。

 そこでハッと気がついた。
 カフカの日記や手紙には、「男らしく」とか「女らしく」とか「男だから」とか「女だから」とか、そういう言葉がまったく出てこない!
 出てくる言葉には気がついても、出てこない言葉には気がついていなかった。
 盲点だったと思った。
 その人が何を書いたかだけでなく、何を書いていないかにも注目しなければと、このとき肝に銘じた。

 ともかく、カフカには、そういう魅力があったわけだ。
 男性社会の中で、周囲の男性たちからの批判的な目につねにさらされていたフェリーツェにとって、そういう批判を思いつくことさえないカフカは、どれほど素敵に見えたことだろう。
 他にはなかなかいない、かけがいのない存在であったはずだ。
 なるほど、これは2回婚約してもおかしくないなと思った。

 カフカの魅力もまた、男女差別をしないという、"しない魅力"であったわけだ。

 もちろん、これは推測で、フェリーツェが本当はどう思っていたのかは当人にしかわからないが。

ヴィヴェカナンダ師の言葉

 その後、ネットでこんな言葉に出合った。

もっとも偉大な人々は、人に知られることなく死んでいった。
人々が知るブッダやキリストは、第二流の英雄なのだ。

     ロマン・ロラン

 おおっ、こんな言葉があったのかと思って、感激した。
 ぜひラジオで紹介しようと思って、出典を調べたのだが、これがなかなかわからない。
 困り果てて、図書館のレファレンスの方に相談したら、なんとロマン・ロラン全集をすべて調べてくれた。
 でも、出てこなかった。
 ついには、ロマン・ロラン協会に問い合わせてくれて、その答えは「ロマン・ロランにそういう言葉はない」というものだった。
 詰んでしまって、けっきょくラジオでは紹介できなかった。
 じつは、名言にはこういうことがよくある。出典を見るとちがう言葉だったり、そもそもそんなことは言ってなかったり、別の人の言葉だったり。名言紹介の難しさは、ほぼ出典探しにあると言ってもいいほどだ。

 あとでわかったのだが、この名言は「別の人の言葉だった」というパターンだった。
 ヘンリー・ミラーが『冷房装置の悪夢』という本のエピグラフで、ヴィヴェカナンダ師の言葉を紹介している。

 この世のもっとも偉大なる人々は、無名のまま消えて行った。われわれの知っている仏陀やキリストごとき聖人も、世人が知らぬそれらの偉大なる人々にくらべるなら、二流の英雄にしかすぎない。

『ヘンリー・ミラー全集9 冷房装置の悪夢』大久保康雄訳 新潮社

 ヴィヴェカナンダ師というのは、インドのヒンドゥー教の出家者で、ロマン・ロランは彼を強く支持していたそうだ。それでこういう混乱が発生したのだろう。

 出典はわかったが、宗教家の言葉というのは、たとえば「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい」のように、素敵だけれども、一種の理想論なので、少し残念だった。
 もっと日常的な実感から語っている人はないものかと思った。

自分がしなかったことを誇りに

 シオランの本を読んでいたら、こんな言葉にぶつかった。

 自分がしたことを誇るのもよかろう。だが、それよりも私たちは、自分がしなかったことを、大いに誇るべきではなかろうか。その種の誇りを、ぜひとも創り出すべきだ。

『告白と呪誼』出口裕弘訳 紀伊國屋書店

 ずばりの言葉だ。
 しかもシオランは、「若い人たちに教えてやるべきことはただの一事、生に期待すべきものは何ひとつとしてない、少々譲ってもほとんど何ひとつない、ということに尽きる」『生誕の災厄』新装版 出口裕弘訳 紀伊國屋書店)などという、みもふたもないことを言う人なので、決して理想論でもない。

 さらに、このシオランの言葉について、山田太一がインタビューでこう語っていた。

 ルーマニアの哲学者エミール・シオランが、「みんな何かをなしたことで表彰されるけれども、もしかすると、しなかったことでほめることが必要かもしれない」というようなことを書いていますが、ぼくは、そこにすごく共感しています。
 ————しなかったことでほめる、というのは?
 たとえば、戦争をしなかったとかね。それはすごいことだと思います。しなかったことでこの世を潤(うるお)したとか、そういうことも考えたほうがいいと思うんです。しなかったことを探すと、たくさんありすぎて、表彰するのに困ってしまうかもしれませんが……。それでも、しなかったことで表彰してもいいんじゃないかという考え方自体、ぼくはとてもいいセンスだと思いますね。そういうのがいいなあと思ってしまう。

『NHK「100年インタビュー」 光と影を映す だからドラマはおもしろい』PHP研究所

 私は山田太一の大ファンで、今ではスタジオジブリの『熱風』という雑誌で「山田太一といっしょに山田太一ドラマをすべて見る」という連載もさせてもらっている。
 それなのに、まず真っ先にこの発言に気づかなかったとは!
 あるいは、山田太一のこうした考え方に感化されて、私もそういうふうに考えるようになったのかもしれない。
 シオランも、「理念は、私たちの腸(はらわた)から立ちのぼってくるものではない」「掛け値なしに私たちのものであることなど、絶対にない」と言っている(『告白と呪誼』)。

「何をしなかったか」という目で、あらためて周囲の人を見てみる

 上の山田太一の言葉にあるように、もし「戦争をしなかった」としたら、これはものすごいことだ。
 もしヒトラーが虐殺をしなかったら、どんなに多くの人が助かっただろう。
 きっとそういう「しなかった」人たちもたくさんいたはずだ。
 しなかったから、誰も知らないだけで。

 誰も知らない——。
 ここに「何かをしないこと」の問題点がある。
 ヒトラーが虐殺をしなかったら、ただの無名な画家だったかもしれない。
 ヴィヴェカナンダ師も「この世のもっとも偉大なる人々は、無名のまま消えて行った」と書いている。

 せっかくいいことをしたのに——いや、ひどいことをしなかったのに、誰にも気づいてもらえないのだ。
 これはものたりないことだと思う。
 人にはどうしたって、自分のやったことを評価してほしい気持ちがある。
「しないこと」だって、それは同じだろう。
「したこと」には気づいてもらえるが、「しないこと」には気づいてもらえない。
 何かをしなかった上に、それを評価してもらうこともあきらめなければならないのだ。
 これはそうとうの精神力を必要とする。

 シオランの言うように、「自分がしなかったことを、大いに誇るべきではなかろうか」
 やったことを自慢する人は多いのだから、やらなかったことも自慢していいだろう。
 自慢はいやだとしても、せめて自分の中では、「大いに誇るべきではなかろうか。その種の誇りを、ぜひとも創り出すべきだ」と思う。

 そして、周囲も、なるべく気づいて上げるよう、心がけたいものだ。「この人は何をしたか」だけでなく、「何をしなかったか」という目で、あらためて相手を見て見るのだ。
 そうすると、今まで気づかなかったよさに気づけるかもしれない。

 したこととちがって、しなかったことは、意識しないとなかなか気づけない。私のカフカの場合がそうだったように。
 しかし、意識すればかなり気づける。そのちがいは大きい。

老子とクマのプーさん

 しなかったことで有名な人も、世の中にはいる。
 たとえば、老子だ。

なにも為さないということを為し、
なにも事がないということを事とし、
なにも味がないということを味とする。

『老子』蜂屋邦夫訳 岩波文庫

 などと述べている。
 無為自然な生き方をして老子は尊敬された。

 また、先のツイートをしたときに、クマのプーさんが、

何もしないをする。

 と言っていることを教えてもらった。
 本の中でではなく、映画「プーと大人になった僕」の中のセリフだそうだ。
 プーさんのこの言葉も素敵で、プーさんはとても愛されている。

 老子もプーさんも、特別な存在で、マネをするのは難しい。
 でも、こういう2人(ひとりと一頭?)がいることも、頭の片隅においておくと、何もしないことを、より楽しめるし、誇りにできるのではないだろう。

「もっとも輝かしいもの」

 モンテーニュの『エセー』は、私が今書いているようなエッセーの源流のようなものだが、そこにこう書いてあった。

 われわれは大馬鹿者である。だからこんなことを言う。
『あの人は生涯を無為のうちに過ごした。私は今日何もしなかった。』
 ——なんだと。あなた方は生きたではないか。それが、あなた方の仕事の根本であるばかりでなく、もっとも輝かしいものではないか。

『エセー 6』原二郎訳 岩波文庫

 私には、この言葉がとてもしっくりきた。
「何もしなくも、人生を生きたと言えるのか?」という問いへの、ひとつの答えだと思う。もちろん、「言える!」という答えだ。
 生きているだけで、もう充分にすごいことだ。
 さらに「何かをしなければ」と思う必要はない。
 もしさらに何か心がけるとしたら、「何かをしない」ことも意識してみる、というのがいいのではないだろうか。

「◯◯をしない」を新年の目標に

 新年の目標を決めた人も多いだろう。
 それはきっと「◯◯をする」というかたちをとっているだろう。
 もしよかったら、そこにもうひとつ、「◯◯をしない」という目標を加えてみるのはどうだろうか?
 それも面白いのではないだろうか?
 私はまず「その人が"何をしないか"で評価する」を今年の目標のひとつとしてみたいと思う。



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頭木弘樹
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