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五行歌集のタイトルについての私的雑感

 こんにちは。南野薔子です。
 五行歌の歌集を作る場合のタイトルのつけ方についてふわっと考えたことなど。
 
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 きっかけは、水源純さんのこのツイート(ポスト)だった。

 それに私は、個人でやっているアカウントでこうリツイート(リポスト)した。

 ちなみに透明塔は五行歌ではなく詩の方(筆名:塔野夏子)でかつて出した『透明塔より』(絶版)という本を指している。硝子離宮は五行歌集『硝子離宮』である。
 で、それでふと思ったのだが、なぜこうも私はタイトルが建造物系なのだ。それもイメージ上の無機質な感じの。
 考えてみれば、先日出した五行歌冊子『万華鏡天象』も、建造物ではないがやっぱり無機質イメージ系だし、詩の方で比較的最近出した『錬銀術』もそう。いやもちろん、そういうのが好みだから、って云ってしまえばそれまでなんだが。
 しかしたとえば、他の五行歌集のタイトルを見てみよう。栢瑚メンバーだと白夜さんの『抱月』『病気、ときどき恋』、水源純さんの『この鳩尾(みぞおち)へ』『ほんとう』『しかくいボール』『まだ知らない青』、水源カエデさんの『一ヶ月反抗期』『承認欲求』、なんだかいずれも、もちろん方向性はいろいろだが、なんというか、実感、体感系だと思う。ちゃんと体温があるというか。元栢瑚の素音さんの『ありがとうキス』もそう。そこへゆくと、私のは「体温? 何それ?」だ。低体温ですらなく、無体温な感じ。
 それで、市井社のサイトにある五行歌集のタイトルを眺めてみたけれど、やっぱりすごく大まかに云えば実感、体感系が多いような気がする。これは、歌というものがなりたちからいってコミュニケーションがベースにあるものだということを反映している気がする。実感、体感を伝えあう器としての五行歌、と考えればすごく自然なことのような気がする。
 で、建造物系のタイトルは私ひとりですね(多分)。タイトルが無機質で体温を無視していることにかけては五行歌界で一番だと思う(多分)。なんでこうなるか、考えてみるに、良くも悪くも、私にとって五行歌は(というか自分の書く詩歌全般は)あんまりコミュニケーションツールじゃないんだな。いや、それを持って歌会に行ったりするしそれについて語ったりもするからそういう意味ではコミュニケーションツールなんだが、しかし歌そのものでコミュニケーションをしようという意識がわりと稀薄。ずいぶん前にもネットで、詩歌を書く人にはざっくり云って伝えたいタイプとあらわしたいタイプがいるよねという話をした記憶があるが、もちろんそこにはグラデーションもあるけれど、私はどちらかというと明らかに「あらわしたい」タイプなのだ。で、歌集とかの作品集になるとますます「私はこういういうことを伝えたい」というよりは「私はこういう世界を構築したい」が尖鋭化するわけだ。コミュニケーションどころか、一種の砦のようなものになる。その性格をタイトルが如実にあらわしているなあと今回あらためて思った次第。でもまあ、こういうやつもいていいのだと勝手に思っている。
 
 わりとタイトル考えるのとか好きなのだ。名前を考えるのも好きだからやたらと筆名を増やしてしまった。やっぱり私にとってそういう創作物のフィールドというのは「ここぐらいは! 自分の好きな世界を! 好きなように! 構築させてくれ!」という精神の砦なのである(個人の作品集を作るときは作品選びも配列も自分でやらないと気が済まないたちでもある)。そういうフィールドが自分にあること、そしてそういうわがままの産物でもひとさまとの交流のきっかけになることはありがたいなと思っている。

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