義手の女 / 大川啓
ところで、僕はいったい……、いいや、考えるな。足を動かせ。どうしたって歩き続けるほかにマシな選択肢なんかないんだ。制服を着ている連中は当てにならない。あんな奴らは、思わせぶりなだけの無意味な亡霊に過ぎない。じゃあほかの連中は? ――ダメだ。大体、自分のことは自分が一番よく分かってるはずじゃないか。とにかくひたすら歩くんだ。
あたりは異常なほど騒がしい。無数の古ぼけたゲーム筐体が僕を取り囲んでいるせいだ。そのうちのいくつかはもう壊れていて、しかし電源に繋がれているためにいつまでも画面を明滅させていた。並んでいるのは聞いたこともないようなタイトルのゲームばかりだった。そのせいなのか、ひどく心細かった。男の怒鳴り声がどこからか聞こえてきて、僕は冷や汗をかいてしまう。湿気った空気に混じって煙草や甘いジュースやカビの臭いが立ち替わりにやってくる。まるで透明な人混みの間を縫っているような気分だ。天井に埋め込まれた照明にヤニがこびり付いていて、そのせいで視界に薄い黄色の膜がかかっているように感じる。気づかず飲み残しの入った缶を蹴飛ばしてしまう。飛び散った中身が前にいた背の高い男の靴にかかった。幸い彼はそれに気づかない(仲間たちとのゲームに夢中なのだ)。僕は酷く喉が渇いていることに気づいた。そういえば、途中で水飲み器を見たような気がする。もうそこからだいぶ歩いてしまったけど、戻るべきかと思案する。が、すぐにその考えを取り下げた。あった気がしただけだ――と、僕は自分にそういい聞かせた。過去を都合のいい姿に捻じ曲げてしまう癖が自分にはあることを、僕はよく知っていたから。そういうのって、靴紐を結ぶよりも簡単なんだから……。魅力的な記憶ほど疑わなければならない。しばらくして、僕はたまらなくなり、ちょうど角から現れた全裸の女に自販機の場所を尋ねた。彼女は僕の顔を見るなりさっと表情を冷たくし「そんなことでいちいち質問してこないでよ」といった。「自分のことは自分が一番よく分かってるはずなんでしょう?」。僕は軽い自己嫌悪に陥りそうになった。わざわざ裸の女に訊くことはなかったんだ……。終始そんな具合だから僕は大切なものをいくつも見逃していたかもしれない。しかしその声を、僕は不思議にはっきりと聞くことができた。
「ねえ、ちょっと!」誰かが叫んだ。女の声だった。突然のことに僕は足を止める。「そう、そこのお兄さん! ――紺の服を着てる!」。僕のことだ。僕はきょろきょろと周りを見回してしまう。しかし人の姿はない。「こっちこっち!」。幻聴じゃない。やはり誰かが僕を呼んでいた。もう一度周囲を確かめた。そして小さな頭がぴょこぴょこと飛び跳ねているのが、列になった筐体を挟んだ向こう側に見えた。僕は走って回り込んだ。そこにいたのはやはり女の子だった。彼女は僕と目が合うと、「ちょうど良いところに通りかかったね」といった。歳は十代後半くらいの、いくぶん風変わりな、はっきりいってしまえばみすぼらしい見た目の女の子だった。特に目を引いたのがその髪型だった。おそらくそれは、文房具のハサミで切ったために前髪が眉のあたりで、横と後ろは首のあたりで無慈悲にまっすぐと切り落とされていた。その姿は僕に哀れな人形を思わせた。僕よりやや背が低く、白いシャツの上によれた赤いネルシャツを着て、下はジーンズとボロのスニーカー。「ちょっと私の代わりにこれ、とって欲しいの」と女の子はご機嫌な感じで、側にある彼女の身長ほどの大きさのクレーンゲームを、人差し指の爪でこつこつと叩いた。マシンは他の筐体と同じでずいぶん古いものだった。外装の退色が著しく、金属でできた骨組みや装飾部分があちこち錆び付いていて、ガラスは全体が茶色く曇っている。マシン上部に大きくある"SPACE HUNTING"の文字列。ちゃんと動くのかどうかすら怪しいものだった。
「ぼ、僕が?」と、吃りながら僕は、いかにもまぬけな質問をしてしまう。僕はいつもまぬけな質問してしまう。――自分と年の近い女の子と喋る時には特に。そう、君が、と彼女はいって、手を後ろで組んで恥ずかしそうに笑った。その姿を見て、僕の緊張はいくらかやわらいだ。僕はいった。「それじゃあ悪いけど、ほかを当たってくれ。そういうのはあんまり得意じゃない」と。そしていった後で、そんなことをいうつもりはなかったと、心の中で言い訳した。いったい誰に? 女の子はつんと口を尖らせた。「でも、ここにはもう私とお兄さんしかいないよ」――と、そういわれて、僕は思わずあたりを確認してしまう。確かに、彼女のいう通りここには僕らの他には誰もいない。本当に誰もいなかった。どうして今までそれに気づかなかったのだろう? 僕はその事実に驚愕し、その場に崩れ落ちてしまう。サイコロでできた背骨がばらばらになってあたりに散った。周囲が一瞬にして無音になる。実際のところ、最初から音なんかしていなかったのだ。僕はパニックに陥っていた。呼吸が乱れ、わけが分からないまま次から次へと涙が出た。僕は震える意識の中で、なんとか頭の中を整理しようと努めた。――まず、ここにくる前のことを思い出そう……。しかし何も思い出せなかった。代わりに、自分は夢の中にいるのだと思い込もうとした。しかしそう信じ切ることができなかった。というのも、僕はこれまで一度も夢を見たことがなかった。次に腕時計を確認しようとした。何でもいいから一つでも確かな事実が必要だと思った。しかし、涙で視界がぼやけてしまっている。手も震えていた。そしてようやく分かったのは、どうやら時刻は二時半を過ぎているらしい、ということだった。しかし、僕にはそれが真夜中の二時半なのか、真昼の二時半なのかの区別がつかなかった。昼と夜はどう見分けたらいい! 身体が真っ二つに引き裂かれる。そして右半身が太陽の下へ、左半身は月の下に投げ出され、真っ赤に燃え上がる。
もうここから一歩も動けそうになかった。ふと、戯れに彼女に聞いてみたくなった。ねえ、いったい僕はどうやってここにきたんだっけ? もちろんそんなことは聞かなかった。その代わりに僕はこう尋ねた。「君は本物?」
「お兄さん?」彼女はけげんな表情を浮かべていた。しかしすぐに持ちなおして、「別に得意じゃなくてもいいの。少なくとも、私よりはこういうのができそうならそれで」。中に小ぶりなヨーヨーがガチャガチャのカプセルに詰められて転がっているのが見えた。赤やら黄色やらの色とりどりのカプセルたち。よく覗いてみると、カプセルは四つあったが、中身は四つとも全て同じヨーヨーだった。これなら僕にでもとれそうだと思った。というか、こんなものにテクニックなんかあるのだろうか。
僕は他にいうことがなくなって、彼女に向かって手のひらを差し出した。すると彼女は、もうお金ないのよ、といって自嘲気味に笑い、小さく首を傾げた。思わず僕も笑ってしまう。なかなか感じのいい女の子だと思った。それによく見ると美人というタイプではないが魅力的だった。僕は自分の財布から金を入れてやった。それを合図に、マシンは楽しげな、しかしかえって不吉に聞こえる音楽を鳴らし、プログラムされた台詞を読み上げた。――『やあ、よく来たね! 君が新しい相棒だね?』。中のヨーヨーはどう見てもガラクタ同然という感じの代物だった。ずいぶん長いことそこに放置されているのか、かなり退色が進んでいた。「もっとマシなのがいくらでもあったんじゃないの」と僕はいった。「別に欲しかったわけじゃないの」「答えになってないよ」「何でもいいからやってみたかったの!」「そう?」。ヨーヨーは4回目のチャレンジでとれた。ガラクタ同然ではあったが少しは嬉しかった。彼女も嬉しそうだった。
「そういえば、出口を知らない?」と僕は訊いてみた。僕はずっと出口を探していた。「ついでに自販機の場所も」
「いいよ。一緒に行こう」と彼女は言った。そして思いがけず僕の手を取った。石みたいに硬い、冷たい手だった。それが本物の手ではないことはすぐに分かった。出口まではけっこう歩かなければならなかった。
出口までたどり着くと、彼女は持っていたヨーヨーを近くのゴミ箱に放り投げた。
「おい、どういうつもりだよ?」
「言ったでしょ? 別に欲しかったわけじゃないんだって」