思いつき / naname
普段よりも遅く起きた朝、始業時間には十分間に合うほどの時間だった。
最寄り駅と自宅とをつなぐ道の途中にいくつかバス停があり、
家から一番近いところに人が並んでいるのを見つけた。
バスの予定時刻と行列を見る限り、
二分前に来ている予定のバスがまだ来ていないらしい。
夏の日差しに加え連日の立ち作業に疲れていたので、
自腹になるために普段は使わない、
バスの行列の末尾に加わることにした。
私の前には母娘が並んでいて、
娘の方が「お姉ちゃんは? お姉ちゃんは今日まだ来てないの?」
と母親にしきりに問い詰めているのを聞いた。
それはたまたま聞こえてきたというだけのもので、
意識の大半は起動したソーシャルゲームのイベント周回に向けられていた。
下から見上げられる形になったので、
娘の視線が急にこちらを向いたのが携帯越しにでも分かった。
だが娘はすぐに視線をさらに奥、私の後ろに向けた。
「お姉ちゃん!」娘が叫びながら声の方向へ向かう。
眠そうな声でおはようと答える大人の女性の声が聞こえる。
目線は携帯に向けたまま私はそれを聞く。
娘はその『お姉さん』と母親の周りを行ったり来たりしている。
二人の女性は、
いつもすみません、だの、いいえ、だの、
お決まりらしいやりとりをしている。
全ての往来、会話は私を挟んで行われている。
誰もそのことに触れないまま。
そして私は頻りに時計を眺めるふりをして、
バス停の列から脱出し、駅に向かって足早に歩き始める。
誰が為に、目は伏せながら、自然を装って。
娘の声は大きく、
一〇〇メートルほど歩いた先にある横断歩道で信号を待っているときも、
背後から声は届いていた。
振り向くと、奥の信号でバスが引っかかっていた。
間もなくバス停に到着するだろう。
急いで引き返せば乗れるかもしれない。
けれど私は戻らなかった。
娘は植え込みに顔を突っ込んで、叫んだ。「アリの巣がある!」
そうかい、と私は思った。私は今からそこへ行くんだよ。