機械仕掛けの国/深井一
29年前のある冬の日
わたしはこの機械仕掛けの国にやってきた
晴れた夕方の入国だったと伝え聞いているが
当時のわたしは感官の時空的形式に無知であり
記憶を残すことには失敗している
見知らぬ世界で右も左もわからないわたしは
一組の男女のもとに身を寄せて
この国の道理を学ぶことになった
機械仕掛けの道理を、つまり
のちに父母と呼ぶことになる件の男女や
その他の人間たち、馴染みの野良猫
照りつける日差しに、頬を撫でる風
そうした一切の自然の風物が、それぞれ
精巧なる自動機械であり
厳然と(しかし確率的に)動作するメカニズムの総体に
滑らかに組み込まれている、という事実を
だから当然、わたしも自動機械であった
機械仕掛けのわたしは
機械仕掛けの父と母に育てられ
機械仕掛けの友人と馬鹿をやり
機械仕掛けの恋人と愛し合った
これら来歴の完全な記録が
機械仕掛けの国の動作ログには残されている、それゆえ
膨大な行数に及ぶそれをすべて読むことはできないとしても
あらゆる自動機械の振る舞いに説明の余地のあることが
原理的に保障されているのである
一連の歯車の回転、に還元される罪
一連の電荷の流れ、に還元される罰
にもかかわらず、わたしはわたしであった
この国でただ一人わたしだけがわたしであった
わたしだけが意志を持ち
わたしだけが赤色を見た
……というわたしの主張はもちろん
ログ中にその由来を見出すことができるはずのものだが
機械仕掛けの国の機械仕掛けの言語では
当の主張がわたし自身に対してもつ意味を決して表現しえない
これは不可能性というよりもむしろ論理的要請なのであって
機械仕掛けの国の成立要件に深く関わっているものである
ということを今のわたしは知っている
問題:わたしはなぜ入国を許されたのか?
永久に続く機械仕掛けの舞踏会になぜ
わたしが挟み込まれることになったのか?
いつの日かわたしはこの機械仕掛けの国を出てゆくだろう
仮借なく進行するメカニズムの帰結として
わたしのいない機械仕掛けの国で
機械仕掛けの少年が機械仕掛けの雨に降られている
そこではなにものも言語を超えはしない
機械仕掛けの哲学者が機械仕掛けの国について語り
機械仕掛けのアポリアで溺れている
謎一つない完璧な世界
わたしのいない機械仕掛けの国
晴れた明け方の出国であればよいと思う
感官の時空的形式に慣れ親しんだわたしには、もはや
未来の記憶を覗き見ることはできない