二月のドリアン、空転する / Ο σκύλος είναι μακρύς

就活をしないで大学を卒業したらニートになってしまった。

というのは悪い冗談だが、冗談が冗談ですまないというのは、
ニートではないもののニート同然の状況にあるという己の現状のせい。
まったくもっていつからこんなことになってしまったのか。
寒くて起きられませんよ、ホント。冬はいやですよ、まったく。
なんて独りごちていたら十一時をすぎてしまい、
また我慢していた尿意もいよいよたえがたい。
一念発起したわたしは三秒で着替えをすませ廊下を疾走、
尿意をドンしたのち洗面所に滑りこみお湯が出ない水道をシット!
と罵倒としてふと考えたのは、去年の今ごろわたしはなにをしていましたか?
ということであった。シット。

二〇〇九年二月某日正午過ぎ、
わたしはともにベルクソンの勉強会を行っているA女史とともに、
某大学の正門にて守衛さんから研究室の鍵を受けとった。
青いプラスチックの板に白で六〇六と刻印されているその鍵を
守衛さんは「はい、六〇六ね」と言いながらわたしに渡したので、
わたしは「九〇九」とぼそっとつぶやいてくすくす笑い、
守衛さんにお礼を言ったのである。

研究棟に向かう道すがら、
九〇九、九〇九と執拗にくり返すわたしを不審に思ったA女史、
なぜそうも九〇九にこだわるのかとわたしに問うた。
「なんか楽しいから」「なんか楽しいの?」「うん」「なにが楽しいの?」
となおも尋ねてくる彼女の意向を無視し、
ひたすら九〇九、九〇九と口ずさむわたしを見てあきれたA、
はじめはどうかしてるよなどとつれないことを言っていたが、
やがてわたしに触発され、「九〇九、九〇九九」と呟いた。
わたしは「違うよ。九〇九九じゃないよ。九〇九だよ」と不興をあらわにしたが、
Aは「九〇九九、九〇九九」とますますつけ上がる。
不機嫌に横を向き九〇九とつぶやいたわたし。
筋トレ中のラグビー部員の群れを見つめてなおも九〇九。

研究棟のエレベーター。
我慢の限界に達したわたし、なおも九〇九九とつぶやくAを直視、
「ちがう」とはっきり首を振った。「ちがうの?」「ちがう。全然ちがう」とゆずらないわたし、
垂直方向に移動する箱型の乗り物の内部に乗りこみ、しまった、と思った。
一、二、三、四、五、六。どこを探しても九のボタンが見つからぬのである。
箱内に訪れる気まずい沈黙。この女、あえてボタンを押しやがらぬ。
負けるものか、と思ったわたし、すかさず箱の反対側の隅に移動、
それも壁の方を向いて九のボタンを探したのである。
敵もさるもの、いつまでたってもボタンを押しやがらぬので、
本来上下するはずの箱はいつまでも頑として動かぬまま。
壁の一点を見つめながら、いつしかわたしは、
今じぶんがなにを一番食べたいのかを真剣に考えていた。そのときである。

エレベーターのドアが開き、顔見知りの教授が箱のなかへ。
「おお、Aさん、と、Mおちくん。こんにちは」
咄嗟にふり向いたわたし、こここんにちは、と挨拶する。
長身痩躯眼鏡に深緑のセーターがダンディな教授、
いつものニヤニヤ笑いを浮かべながら「なにしてるの」とお尋ねになる。
かつて無礼を働いたことがあり、わたしはこの先生に頭があがらない。
えっと、えっと、勉強会で、来ました、と言おうとしたわたしの声をかき消して、
Aは「Mおちくんが九を探していて困るんです」と言い放った。
「九?」「え、いや、九、かな」「九ってなに?なんの話?」
「いえ、なんか、抽象的な九、なんですけど」「抽象的なQ?」
「はい、いや、はい、六へのアンチテーゼとしての九、っていうか」
「なに?なに?だれの話?哲学者?」「え、いや、まあ、マクガバン」
「マクガバン?」「いや」「だれ?フランス人?」「いや、ちょっと」
「哲学者?」「いえ」「知らないなあ。哲学者かな?」「いえ」

ほうほうの体で研究室にたどり着いたわたし、すでにもう疲労困憊。
こうなったのも完全にA女史のせいである。
幸いにもやつはまだトイレに行っている。一泡吹かせてくれよう。
わたしはいすを二つ並べてそこに横たわり、
靴を脱いで脚をテーブルの上に投げ出した。
ガチャ、という音をたてて開いたドア、
わたしはそのドアが開ききったタイミングを見はからい、
「となりのトトロ」からインスピレーションを得てみずから作詞した楽曲、
「となりの粗品」をささやくように歌いはじめたのである。

ガチャン、という音がして、扉がしまった。
わたしは歌うのをやめて起きあがり部屋のなかを見渡すがだれもいない。
あれ?なんで?と思い両手をいすの上についてへらへらしていると、
ガタリとドアが開いてAが「ごめんごめんお待たせー」と言いながら入ってきた。
首を傾げたわたしの脳裏に恐ろしい錯誤の可能性が現実性を帯びてよぎったが、
いや。Aの一人芝居かもしれん。と思ったわたしはふたたび横になり、
ドアがしっかりと閉まったことを目視で一応確認して、胸に手を当て、目をつむって言った。
「今現在、わたしがかかるていたらくであるということは、誠にもって痛恨の極みであります」
室内は重い沈黙で満たされた。

わたしは目をつむり眉間に皺を寄せることでなにごともなかったふうを装った。
十秒が経過した。わたしは耳をすませて鳥の声を聞いていた。
どうだこの野郎。思い知ったか。と満足してわたしが起き上がろうとしたその瞬間、
「アハハ!なんかよくわかんないけどおもしろいね!あ、お菓子もって来たけど食べる?」
とAはことさら快活な調子で言ったのである。

いや。いい。いらない。と答えたわたしは足を下ろし、身体を半回転させて起きあがった。
「アハハ!そんなこと言わないで!ネタだからネタだから!」
と訳のわからないことをおっしゃるA、
緑と黄色の包装が派手な菓子袋を机の上に置いた。
「なにこれ?」「ドリアン」「ドリアン?」「ドリアン」「なんでドリアン」「おみやげ」
「おみやげか」「そう。おみやげのドリアン」「おみやげじゃ仕方ないな」
と納得したわたし、でもドリアンってくさいんじゃないの?と思ったその刹那、
Aはドリアン菓子の袋を思いっきりぶち開けた。

くさい。くさすぎる。
研究室は数秒のうちにドリアンのにおいにつつまれた。
「くさいね」「まあネタだから」「ネタか」「ネタだから」
「ネタか」「そう。ネタのドリアン」「ネタじゃ仕方ないな」
と納得はしたものの、早くこの菓子をなんとかしないと勉強会どころではない。
「でさ」「うん」「食べれば」「わたしはいいよ」「ぼくもいいよ」「いや、おみやげだから」
「でもネタなんでしょ」「ネタのおみやげだから」「どういう意味」
「とにかくMおちくんが食べたほうがいいよ」「そうかな」「そうだよ」
「そうかな」「絶対そうだよ」「そうかな」「絶対そうなんだって」
数秒後、わたしはもんどりうって洗面台のほうに遁走したのである。

とりあえずドリアンで一句読もう。ドリアンって夏の季語?
なんてあほなことをやっていたら夕方になってしまい、
Aはバイトに行かなくちゃと言って帰途についた。
わたしはひとりドリアンくさい研究室に残され、
沈みゆく夕日を眺めてみずからの将来を案じた。
はは。とりあえず、ダイエーの百均で耳当てでも買って帰ろうかな。
わたしは靴を脱いでいすの上にあがり、
大きなモーションでアキレス腱を思う存分に伸ばした。そのときである。

コンコンというソリッドでコンパクトなノック音が二回響いたと思ったらドアが開いた。
「お邪魔します。Mおちくんなにやってるの?Aさんは帰ったの?」
あ、アキレス腱を、っていうか、Aさんはバイトで、
「ああアキレス腱とバイトか、ところでさっきの抽象的なQってなに?
マクガバンてだれ?もしかしてマクガフィン?ヒッチコックの?
映画の話なのかな、マクガフィンならわかるんだけど。なにこの部屋くさいね」
「あ、それはアボガドで、おみやげが、あ、アボガドじゃなくて、アボカドですね」
「食べもののやつね」「そうです」「それでアボカドがどうしたの」
「えっと、あの、あ、いや、あ、ドリアンでした」「ドリアン?」「ドリアンです」
「食べものの?」「そうです」「ドリアンがどうしたの?」「ドリアンのにおいです」
「今ドリアンがあるの?」「あ、いやドリアンそのものじゃないんです」
「どういうこと」「いや、においはドリアンなんですけど厳密にはドリアンじゃなくて」
「どういうこと」「いや、ドリアンをアボカドとまちがえて、その、お菓子を持ってきて」
「っていうかなんの研究会なの」「いや、あの」「抽象的なQってなに」「いや」
「そういえば君、どこの院行くの」「いや」「あれ?就職するの」「いや」
「はは、なにこの部屋ほんとくさいね」

じぶんの置かれている状況を簡潔に説明することはまことにもって難しい。
そんなことを思いながら強い子のミロを作るべく牛乳を電子レンジで温め、
持てあました時間でカレンダーの数字を読みあげていたらテンションが上がり、
ファイブ!ファイブ!トゥウェンティファイブ!と叫んでいたら、
紅茶を飲んでいた母親がこちらを向いてなにも言わずとても悲しそうな顔をした。

ほんとうにすまない。