墓標 / naname

 目的地などなかった。改札から駅に入り、ホームに登り時間を見て、一路線のみが走る電車の上りと下り、到着時間が早い方に乗るつもりだった。どこで降りるかも気分次第だった。
 ところが、上りと下り両方が、同じ時刻で到着することが電光掲示板を見てわかった。待っていると、間もなくその通りになった。遅延もなく、ホームの真ん中に立つ僕の両側から平行して、轟音の挟み撃ちでもって到着が予定通りであること告げた。並んだ十三の車両、色、ドアの開くタイミングはピタリと一致している。出ていく乗客の数まで同じに見えたが、そこはきっと気のせいだろう。
 人を吐き出し終えた二つの電車は、次の乗客を取り込んでいく。僕がどちらにしようか迷っているうちに、二つの電車のドアがまたしてもタイミングを合わせて閉まった。そしてどちらもが、迷ったままの僕を残して走り去っていった。
 次の電車が来る時間には少しズレがあったが、その出来事ですっかり白けてしまった僕は、踵を返し、ホームから改札の方向へ戻り始めた。入場料だけが引かれたICカードの残額を横目に先ほど入った駅を出ると、夜へと色を変える夕方の空が見えた。それしか見るものもなかった。
 そもそも予定らしい予定ではなかったが出鼻を挫かれ、次の予定を練る羽目になった。遠出はせずとも駅の周辺で何か暇つぶしでも考えようかと思った。けれどこの辺鄙な自宅からの最寄り駅で軽い財布をそれでも振り絞り、失った金銭以上の満足を得られる施設やサービスが存在する確信は湧いてこなかった。結局駅を出て夕焼け空をしばらく眺めた後に何をしたかと言えば、家に帰るために、駅まで辿った道を戻り始めたことだけだ。何もしないことに決めたのだ。
 狭い道路を昭和時代に建てられたような古いデザインと建材の一軒家が軒を連ねる。六ピースワンセットの缶ビールをスーパーのレジ袋に突っ込んだ初老の男とすれ違う。だぶんだぶんの肉体となおその肉体を十分に包み込む服を着た主婦と、そいつが持つ手綱で繋がれた小さな犬。凡庸なのか滑稽なのか判断できない眺めが続く。
 賃貸木造アパートの一階の自宅。そこへ帰る道筋の七割程度を進んだところで、バス停が目に入った。今までは電車以外の移動手段を考えもしなかったから、住み始めてそれなりに時間が経っているはずなのに、初めてそれを見たような気がした。バスの運行表を見ると、三分以内には到着の予定だった。バス停には誰も並んでいなかった。バス停の前に立ったまま二分ほど考えた挙句、乗ることに決めた。どうせあと一分後にはバスは到着する。夕焼け空は先ほどより色を落とした気がした。気のせいかもしれない。眺めの下半分を到着したバスが埋めた。

 バス内の人はまばらだ。僕が乗ったバス停では下りていく乗客もいなかった。単純な乗客の増加。運転席の方へ眼をやる。経由するバス停を電光掲示板が照らしていた。どの病院も、名前だけではわからない施設も、聞いたことはなかった。
 何度か降りますランプが鳴り、乗客が降りる。何度かそれを繰り返す。それでも、やはり流れる景色、止まった目の前の建物に見覚えはなかった。世の中の広さと自分の視界の狭さを丁寧に一つ一つとがめられている気がした。
 降車する老翁、老婆についていって、適当なところで降りてしまえばよかった。そう思ったのは、僕以外の全員がすっかり降りてしまって、一人だけ取り残されてしまったときだった。まだ半分ほど経由するバス停はあったし、その間で乗客が増えるかもしれない。すっかり焦ってしまい、そこがどんな場所なのかろくに確かめもせずボタンを押した。押した途端に、車窓からの景色が黒と灰色ばかりになった。やがてバスは停車した。ほかに誰か降りてくれでもすれば留まりもしただろうが、乗客は僕ひとりだったので、素直に降りた。降りたバス停の名前を見た。「~~墓地前」と書かれていた。

 墓参りのシーズンではない。自分の周りの人間がそこに入るかでもすれば、用向きはあるかもしれない。あるいはそこで眠る人の、かつて特別な日かもしれない。けれど今日は——少なくとも今は、誰もここの墓に突っ込まれるようなこともなければ、墓石に用のある人間もいないらしい。もしくは、もうさっさと個人を偲び終わって夕飯でも作り始めているのかもしれない。入り口に首を突っ込んで辺りを見回したが、人っ子一人見つけることは叶わなかった。
 ふいに線香の匂いがした。曲がり角から先は板塀で隠れており、進んでみないとわからない。住職か誰かの習慣なんだろうが、一応、匂いの元を辿ってみることにした。立ち並ぶ墓の間を進んでいくと、線香の匂いが近づいてくると同時に少しずつ、木の葉の擦れ合う音に加えて、女性の話声が混じり始めた。くぐもっていた声が、板塀の曲がり角を折れると、はっきり聞こえるようになってきた。一人分の声。
 角を折れると見通しがよくなったため、声の主はすぐに見つかった。墓地の少し開けた場所に、小学校低学年ほどの小さな女の子が墓と向かい合っている。膝を追って、墓碑銘を見上げるように喋っていた。白の半袖のブラウスに、サスペンダーをつけた黒のスカート。黒いおかっぱの髪、白の肌。白の眼球、黒の瞳孔。唇だけが、立ち並ぶ墓に似つかない赤。
 足音に気づかなかったのか、女の子はこちらを振り向くことなくしゃべり続けていた。あまり近づきすぎると気付かれたときに驚かれるかもしれない、そう思いながらも、話の内容を聞き取れる距離まで近づいていた。

「あとね、あのね、クラスのユウキくんとサオリちゃんがね、付き合ったっていうの。すごいよね!付き合うってどういうことなのって聞いても、誰に聞いてもわからないんだ。わからないことを二人はしてるんだね、つまり。でね、それが一か月前のこと。それから付き合うっていうことを二人で探し始めたみたいなの。すごく『しんけん』に。テレビがしてるみたいに、いつも二人でいて、それで、手をつなぐの。それを見てわたしたちは付き合うってこういうことなんだ、って、二人を見ながら、納得してたの。
 でもね。もう二人は私たちの前からいなくなっちゃったんだ。なんでだと思う? なんでかっていうとね、いつだったかな、その日もね、いつも通り二人で登校してきたの。でも、もう並んではいなかったの。一言でいうとね、完全に『くっついてた』の。片方が片方にくっついて、二人分の胴体、腕は四本デタラメに生えてて、足も変なところについてるから、歩きづらそうだった。人と人が支えあって人って感じが生まれるって聞いたことあるけど、あの二人は、なんか、バッテンみたいな形になっちゃってたな。ざわついた教室に入った二人は、自分たち二人の、どっちの席につこうか悩んでるように見えたね。周りの声だって、どっちの耳で聞き取ろうか迷ってるようだったな。結局ユウキくんのところにひとまず座って。椅子も落ち着かなさそうだった。
 チャイムが鳴って、先生が来たら、すごいビックリした顔になったな!一通り表情を変えた後で、ひとつになった二人をどこかへ連れて行ったんだ。二時間目まで先生は帰ってこなくて、私たち、付き合うって難しいことなんだねって言いあったの。私たちっていうのはね……」

 墓に向って一人で喋る人間の内容なんてこんなものなのかもしれない。音を立てないように、静かに離れようとした。そこでもう一人、つまり墓に向っている少女と僕以外で、この墓地の中にいる人間がいることに気づいた。話が突飛すぎて周りを見失っていたのかもしれない。
 墓石に向っている少女よりはもう少し年長の、高学年くらいの、やはり女の子だった。こちらはおかっぱに比べて、あまりこの場にそぐわない服装だった。黒を基調としたフリルの多いドレスに、裾や袖まわりに引かれた赤のライン。胸元のリボンは折り目で規則的なウェーブを描いている。商店街にでもいたらさぞや目立つだろう。ぱっつんにされた前髪にストレートの長髪、スカートからは白のタイツが覗いている。その下には黒のローファー。長髪の女の子は、不謹慎にも墓に腰を落ち着けて、こちらを見下ろしていた。僕の目線に気づくと、挑戦的な表情から、唇の片方だけを釣り上げた。その仕草だけで歓迎はされていないことはわかった。構わなかった。もう帰るところだ。

 入り口の方を歩いていると、カツッと固いもの同士がぶつかる音がした。長髪の女の子が墓から降りたのだ。小さな石段を下りて、二、三歩こちらへ歩み寄る。
「あなたはここに何をしに来たの?誰のお墓にも相手しないで」
ひだひだの広いスカートを風になびかせながら、真正面に僕を見据える。腕を組むと赤の刺繍のラインが交差する。
この余裕しゃくしゃくぶりを見ると、入り口から見られていたらしい。この演技じみた動きは何度か頭の中でシミュレーションしてからでないとできそうにない。しかし、この見た目からして普段からこんな演技じみた動きをしている予想もできる。どちらでもいい。
 無視することは簡単だ。幼いとはいえ、大人との口の利き方もわかっていないらしい。わかっててやっている可能性を除けば。
 適当に言いつくろってしまおう。僕は言った。
「僕のファンだった小説家のお墓を探しに来たんだよ。すごくマイナーだけど僕は好きだったね。ろくに死んだ後の情報が無くて、小説から考察してきたんだけど、どうやらこの辺らしい。」
もちろん嘘だった。小説どころか活字の本すらここ数年開いてなどいない。
「にしてはひとつひとつ丁寧に探していかないのね。ほんの一画だけふらっとうろついて、私の妹をじっと見て、引き返すだけなんて。本当はファンでもなんでもないんじゃない?」
少女が反駁してきた。
「そうかもしれないね」
中身のない、面倒しかない会話の始まりだ。発起人が自分なのだから文句の言いようもない。
というか妹だったのか、あの変な話をしてたのは。
 少女はまた別の墓の上にひょいと跳び乗り、足をブラブラさせた。
「ここは私のお気に入りの場所なの」
 話題を急に変えてきた。むしろありがたい。
「かわいい私と、かわいい妹、そして、口の無い死者どもの静寂。普段は誰も訪れることのない、二人だけの場所。ここで私はあの子を見守るの。それ以外なにもない、そういう空間。あなたが何をしにここへ来たのかは知らないけど、私のお気に入りになるつもりがないんだったら——まあ、なろうとしてなれるモンでもないんでしょうけど、さっさとお帰り願いたいものだわ」
 演技じみた口調。お気に入り云々などどうでもよく、こちらから辞去するつもりだったことは黙っていた方がいいだろうか。
「ただ、まあ、見ていってもいいかもね、あなたの退屈な人生の紛らわしの一つとして。驚くことが起きるから、もう少し見てなさい」
 そう言うと、妹の方を顎で示した。妹はさきほどと同じ姿勢と表情で、まだしゃべり続けていた。
「……そうなんだよ!そう!だから今はユウキくんとサオリちゃん、二人の座っていた席には、どこかの国から来た男の子が二人転校してきて、それで座ってるの。二人は自分たちの過去のことがすごく話しづらいんだっていうんだ。二人の国にはことばがなくって、だからものにも名前がなくって、だから二人にも名前はないんだ。名簿に書くのが面倒だから、先生が適当に呼び名をつけてあげてるけど、あれは本当の名前じゃないんだ。本当は、名前なんてない。だから喋る一つ一つのことに、躓きながら喋るの。途中で急に現れる空白に、戸惑ってるの」
 相変わらずわけのわからない話に、僕が解釈を放棄しそうになったとき、それは起こった。妹の方が立ち上がって、言ったのだ。
「あーもう、何も返事してくれないから退屈になってきちゃった。あ、でもお墓は何も喋らないもんね。いままで何度聞いてもダメだったし。でも、踊ることならできるんだよね。あなたのお墓は、っていうか、あなたは。前にやったもんね。もう一回やろうよ!あれ楽しかったから」
 そういうと、妹の方は片膝立ちになり、背を逸らせる、その姿勢のまま片腕を墓に対して差し伸べた。すると、墓は地面を削る重い音を立て、ひとりでに、動き始めた。妹が手を差し伸べたまま立ち上がり、導くように、墓を開けた場所へ誘った。
 妹と墓は、少し開けたその場所で、彼女の指先を中心にくるくると回り始めた。墓は勝手に動き出し、少女が決める数々のポーズについていこうともがいているように見えた。墓には少女のようなしなやかな手足もない。ただ四角く切り取られた石だ。決して不細工ではないにしても、少女についていけるような機能なんて想定していない。石工が悪いというのでもないが。
 やがて、一人と一個の空間、平板な黄色い土でできたダンスホールの、周囲がざわつきはじめる。ほかの墓石たちがガタガタと動き出したのだ。
 いくつかの自信のある墓石がダンスホールに飛び出し、妹を囲み、周囲をぐるぐると回る。妹が姉のように墓石に飛び乗ると、その墓石は妹を載せたまま跳躍し、別の墓石の上に乗る。墓石一つと妹を載せたまま今度はそいつが同じことをする。達磨落としを逆再生しているようだ。どんどん高みに登っていく妹の表情は爛漫そのものだ。
 ダンスホールの墓石たちが一本につながったところで、今度は妹が何もない空中へと足を踏み出す。その瞬間、一番上で踏まれていた墓が、真横にスライドし、落下する。そして一段下の墓に妹の足が見事に着地する。空中に浮かんだもう片方の足を踏み出すと、今度はその墓が空へとスライドする。かくしてもう片方の足も下の墓に着地する。今度は正しい達磨落としの形だ。最後の一段を降りて、一番下の、ちょっと高い場所から両足でジャンプし、地面に再び立った。両手を上げて、背を逸らせる。拍手を頂戴しようとするポーズだ。達磨落としに参加しなかった墓たちが自分をゴトゴトと揺らしてそれに応じる。地震でも起きたのかと思う低い響き。妹は満足を胸いっぱいに吸い込んだような表情をしている。
「ちょっとしたものでしょ。」
姉の方の声だった。僕はそちらを見て、素直に頷いた。何かを補足する必要もない。反論もしない。ただただ予想もつかない出来事が始まり、終わったのだ。
「もちろん、こういうことができる場所は限られてるわよ。ここだけではないにしても、色んな場所でできるわけではない。あの子の想像力が許される場所、そこであの子は自由になるの」
 墓に座り、少し視点が高くなった場所から、姉は中空をぼんやり見ている。
「あらかじめ定められた自然から逃れて、新しい法則を生み出す。とっても限定的で、儚い場所。だから私はそこを守ってあげるの。あなたみたいな得体のしれない大人から。子供にしたって、変にわきまえてしまえば同じ……」
そこでいったん言葉を切る。被りを振って、続ける。
「それもきっと嘘ね。私にないものを持っているあの子を。いつか嫉妬に変わってしまう前の純粋な感情を、これでもか、ってくらい蓄えるためにここにいるだけ」
 僕は先ほどの姉の方の無礼をもはやどう咎めてやろうとも思わなくなっていた。彼女はむしろ僕と近い位置にいる。彼女の言う自由な場所が妹から失われたとき、どんな退屈な人間に変わり果ててしまうだろう。仮に妹が変わらなかったとして、自分がそこを締め出されるか、一緒にいられなくなったら、どんな日常が待っているだろう。
 この空間に対して僕が持ち合わせている言葉は多くない。かすかな恐怖。予兆。
 そんなことはいざ知らず、妹の指示で墓場がそれぞれの持ち場に戻されていくが、元居た場所と全然違っていた。
「そろそろ行くよ」
「そう」
この二つの会話だけ。彼女だってとっくにわかっていたのだ。僕がただ単にここへ迷い込んできただけのことであること、ここに留まり続けるには様々なものを失いすぎたこと、そして、失ったものは基本的に不可逆的であること。
 あるいは、初めからなにも持っていなかったか。

 墓地の入り口まで来たが、次のバスまで二十分以上も間が空いていたので、そのあたりをぶらぶらと回ってみることにした。
 墓地の傍には山があり、しばらく周囲をめぐると入り口を見つけた。空は夜の紫に色を変えた。
山の入り口は鬱蒼と茂った木々のおかげてほとんど奥まで見渡すことができない。
 考える前に、とっくに一歩目を踏み出していた。迷ったら迷ったで困るだけだし、足を踏み外して落ちたら、それだけのことだ。山で一晩明かして誰か困る予定はなかったし、これからもそのはずだ。代わりすら必要ない……家賃は払えなくなるな。

 幾人もの先人が歩いて草をなぎ倒し続け、むき出しになった地面の筋が続く。登った先に何があるのかも、何もないのかも知らない。踏み入ったのだ。疲れるまで歩けばいい。
 傾斜がきつくなってくると、道のすぐそばでむき出しになった灰白色の岩肌が見られ、継ぎ目を縫って緑が芽吹いている。切り株に絡みつき、花を開いた蔓草もあった。どこか意匠めいたものを感じた。
 暗いなりに景色を眺めながら進んでいくと、人の手入れの跡がだんだん目につくようになった。細い枝の束が道の脇に捨てられているのを見つけた。歩行の邪魔だったのでどこかの業者が切ったのかもしれない。アスファルトで作られた側溝があり、崖のある道には安全措置のための黄色と黒のロープが張られている。楕円の石碑が縦方向に地面に打ち込まれ、遠くて読めないが何か彫り込まれている。色が褪せたのか元からなかったのか、材木の色そのままの鳥居が並ぶ。平らな道になると、幾色もの紫陽花が花を開いているのを見つけた。さらに上に登っていくと、アスファルトで作られた手すり付きの階段が現れた。休息のためのベンチがあった。何かの工事のためなのか、工事の後に忘れられたのか赤の三角コーンが二つ、道の脇に放り出してあった。腐りかけの木の看板は何も僕に伝えることはできなかったし、差し込まれたプラスチック板には花の名前と紹介文が書いてあったようだが、花の名前も形もわからなかった。補強された細い幹の白樺と、増えすぎたスギの木と、山のほとんどを彩るヒノキと。そして僕とが、夜の山の中で一つに混ざり合って、照らす月の大きな影の構成要素として、静かに存在していた。
 当然ではあるのだろうけど、道中、他の人間を見かけることは今のところなかった。姿の見えぬ鳥のさえずり、木々の葉が擦れあうざわめき、靴裏が地面に削られる音。基本的にはこれだけだ。時になだらかで広く、時に狭く急な坂道を上る。まっすぐでも、降りているわけでもない。景色は一緒くたになっているのだから、目で楽しむといったこともできない。汗がぷつぷつと浮かんでいくのを肌で感じる。
 そもそも、頂上に達することができたところで、この背の高い樹木どもに囲まれ続けたら、それすらも気づかずに、そのまま下山のフェーズに入らないとも限らない。それはそれで仕方のないことなのだが。
 心配はすぐに打ち消された。墓地から眺めた限りでもそんなに高い山だとは思わなかったが、頂上にたどり着いたことを、木の板を並べて作られた展望台から知ることができたのだ。いくつかあった途中の看板もたぶんそれを知らせていたのだろう。

 展望台からは小さくなった墓地を眺めることができた。その中に小さな寺がひとつ、後は森。まっすぐ視線を向ければ夜のどこかの境界で途切れたのか、川か海かの水面が月の光を照らし返している。昼に来たとしても、寂しい景色だと思っただろう。せっかく来たのだからと、火照った体に風を受けながらしばらく見つめていた。単に疲れていたというのもある。月の引力に任せるように、手すりに肘をつけ、体重をもたせかけ、しばらくそのままでぼんやりとしていた。
「それほど良い景色ですの?」
誰かいるとも思わなかったから、僕の心臓は一気に跳ね上がった。手すりを背に、そちらの方を向くと、三十代くらいの女性と、小学生くらいの子供がいた。登山用とも思えない。女もののカジュアルな服装。子供の方は半袖と短パン。ありふれた組み合わせ。
「いや……単純に、疲れたもので」
しどろもどろに僕は答える。母親は僕の反応が面白かったのか柔らかく微笑む。
 二人とも展望台に作られたベンチに並んで座っている。足音ひとつしなかった。いつの間にここに現れたのだろう。景色を眺めているときの僕はぼんやりしていたが、二人組の足音になんの警戒も払わないほどでもなかったと思う。子供の方は、僕と、おそらく彼の母親であろう女性の話には興味なさそうに、下を向いている。眼球だけが小刻みに動いている。蟻でも見つけたのだろうか。
「やっぱりつまらないですよね。ここ、お昼でも、行楽シーズンでもそんなに人が来ないんです。ここ。だから、とても……」
母親はゆっくりと話す。
「静かなんです」
物憂げな視線とぶつかった。僕はそこから逃れようと、夜景に視線を戻した。
「何もない、ことが素晴らしい、という意見もあります」
自分で言っては見たものの、自分で何を言ってるかよくわからなかった。そもそもなんの動機もなく登り始めたのだ。なんのフォローも思いつかないのも無理はなかろう。
「どうして、こんな夜に、山へ登りに?」
 母親は僕に質問した。まず聞かれるであろうそれに対して、もちろんなんの答えも持ち合わせていなかった。
「理由はありません」
正直に言うしかなかった。
「こんな山道でも、ほら、崖から落ちたら無事ではいられないでしょう。お友達が心配するんじゃないでしょうか?」
主婦の質問は続く。嘘でもついて誤魔化せばいいのを、僕は正直に言う。誤魔化すことにだってそれなりの器用さが要る。
「友達はいません」
「ご家族は?」
「数年来連絡をとっていません」
最後に連絡したのは金の催促だったと思う。向こうももう話したいと思っていないはずだ。
「まあまあ、それは気づまりしてしまいますねえ」
のんびりとした口調だった。理解はしても共感を拒絶するような。
 いい加減僕だってやり返したかった。
「あなたたちこそ、どうしてこんなところへやってきたんですか。お散歩にしたってもうちょっと安全なコースがあるでしょう。こんな子供まで連れて……」
 少しの間。そこで僕は自分の質問に対する最悪の答えを予想してしまった。話題を転ずる必要があった。
「こ、こんなところにいたらお父さんだって、あなたの方のご両親だってご心配なさるでしょう。僕みたいに、誰にも心配をかけないわけではないでしょう。早く、お帰りなさい。それが良いに決まっています。こんな、殺風景な場所……」
 僕がしどろもどろになり始めたところで、主婦は僕が考えていることを見抜いたようだ。クスクスと控えめに笑い、「そうじゃありませんよ」と答えた。
「主人は、一人でもきっと大丈夫な人です。両親も、私たちがいなくなっても、きっと少しの間ですから。焦るにしても悲しむにしても、限度があるでしょう。それに、私たちの住処は……」
 主婦はゆっくりと腕を上げ、人差し指でもって、展望台の先の景色の一点を指さした。そちらの方を僕は見た。墓地の、一画だった。
「あそこですから」
 何かの冗談かと思って、母親の方を振り返った。誰もいなかった。ベンチには誰も座っていなかった。母親も、子供も。二人がいた場所にはただ風がなびいている。
 母親と子供は、帰ったのだ。きっと。僕の忠告通りに。ただ、僕と帰り方が違うだけで、二本の足で歩く必要なんてなくて、山を登る必要も降りる必要もなく、きっと、自由に往復できるのだろう。おそらくは、許された区間だけではあるのだろうけど。さっきと一緒だ。

変なところから山に入ったせいで獣道が続いたのであろう、下山の方向はだいぶ人の手が加わって、整備されていた。石碑のほかに、狛犬や灯篭などの手の込んだ作り物が増えてきた。途中、人為的に均された地面が広がって、ベンチが置いてあった。すぐそばに自動販売機まで置いてあり、中腹まで登った登山客への本格的な休憩スペースとして存在しているらしい。登山というよりハイキングだ。

 ベンチに腰を下ろしていると、空からひとつ、シャボン玉が降って来た。背の高い木々に引っかかることもなく、広間の地面に降りてきた。風と重力を頼りにここまでやってきたのだ。僕の目の前まで来た後、地面に向って破裂した。乾いた地面に、ギザギザした円形の跡ができた。シャボン玉は、一度僕に近づいた後、離れていったように見えた。
 地面に吸収され、風に吹かれ蒸発し、跡がなくなると、空からもう一つ、同じようにシャボン玉が降りてきた。同じように僕に近づき、そして離れて、破裂した。僕の疲労がある程度癒えて、もう一度立ち上がるまで三、四回ほど、シャボン玉は落ちてきて、破裂した。
 丸太を横に渡した階段を降りる。単調なペースでだらだらと同じ景色がしばらく続く。シャボン玉は、振り返ると常に空中のどこかにいるか、地上を濡らしていた。どこかからやってきて、宿命的に炸裂することの繰り返し。靴の裏が地面を擦る音、木々のざわめき。鳥は歌わない、きっと眠っているのだろう。シャボン玉には音がない。僕らが構成する、それでも静かに思えるセッションにかき消され、そっと降りて、消えていく。
 道の両側を土嚢で埋められた緩やかなカーブを曲がると、東屋が見えた。腐りかけの木のテーブルとベンチ、他には何もない。アスファルトの地面には流れてきた枯草が散らばっている。そこから山の外へ目線を向けると、展望台より一段低くはなっているものの、遠くを見渡すことができる。墓地が少し大きく見えるようになった気がするが、気がする程度の間隔でしかない。傾斜が緩やかだったために、思ったより下ってはいないようだ。幅の広い山なのかもしれない。
 近づくと、男が一人、ベンチに座っているのがわかった。頭は剃られており、髪の毛ひとつ見当たらない。柄の無い白の長袖のシャツから痩せこけた筋ばった細い首を出して、斜め上に顔を上げている。男の目線を辿ってみたが、そこにはただ名前のわからない木々が並んでいるだけだった。せめて外に景色を向ければいいのに。何も見ていないのだろう。月の光が、男の鈍った眼球の表面と、口の端から垂れた、顎まで届きそうな涎をてらてらと反射している。デニム生地のズボンから真っ白い足が出ていて、足先にはサンダルが引っ掛けられている。そこそこの高度をこの装備で登って来たにしては、むき出しのつま先は綺麗に見えた。先ほどの親子連れを思い出す。もっとも、着ている服については数年かけて作った、取り戻しようのないくらい深く染みついた汚れやほつれが、ところどころに見える。身一つで山の中に置き去られ、途方に暮れているようにも見えなくもない。まばたきひとつない眼と、小さく開いた口と、それらを含めた顔面の筋肉から、僕はどんな感情も読み取ることができなかった。
 下山するには、正しい道筋でいけば男の視界に入らなければならないが、当然喜んで入りたいものではない。かといって東屋の裏を回って通るには、すぐ傍が崖になっていてそれほど距離をとることができない。
 結局、何も意識しないようにして、これまでの足取りで男の前を横切っていくことにした。ただし、追いかけられても逃げられるように道の端を歩いた。
 何事もなく通り過ぎた。確実に僕が見えているだろうに。ある程度離れたところで、振り返ってもう一度男の姿を確かめようとした。
 例のシャボン玉がふわりと現れた。前触れもなく、わからないなりに何か意図をもった動きをするそいつが、いつものようにある程度降りてきたところで僕から離れると、今度は再び上昇した。風の流れに逆らって、東屋の方に近づく。
シャボン玉は速度は変わらないにしても、まっすぐに、男の口の中めがけて向っていった。
 男の眼がシャボン玉を捉えると、わずかに、光が宿ったように見えた。だらりと自然に開いた口を、大きく開いた。シャボン玉はすっぽりとその中に納まった。球体のまま、喉元を降りていったように見えた。
 少しの間の静寂。そして、男の身体は原型を残さないほどに、全身を散り散りに爆裂した。見通しの悪い夜の山の中では、真っ黒な花火みたいに見えた。三六〇度、均等に吹き散らした血が、各々の放物線を描いた後、地面やテーブル、柱、ベンチ、地面や草に飛び散った。
 飛び散った血は、しばらくすると消えてなくなった。乾いて消えていくにしても、血くらい濃い液体であればなにかしら跡を残していくだろう。でも、それはなかった。跡形もなかった。
東屋の屋根の下に入り、テーブルを手で払ってみても、何も付着することはなかった。
 男が何を予期して、シャボン玉が何を理解して、こんなことが起きたか。
男は跡形もなくなり、シャボン玉は二度と降ってくることはなかった。どちらも、完全に僕の前から消滅した。覚えているには脈絡が無さすぎるし、思い出すには手掛かりがなさすぎる。何か起こるべき出来事が起こったとしか言いようがない。それ以上に語ることはない。

 そこから先は、何も起こらなかった。降りていくごとにどんどん人の手の加わった跡が増えてきた。今までの出来事など起こりようもない、現実的な景色だ。
 アスファルトで舗装された階段、両側には防腐処理を施された杭が等間隔で打ち込まれ、ロープが渡されている。灯篭やキツネの石像をわき目に降りる。寺は訪問があるためか自律のためか、石畳が掃き払われた跡がある。暗くて読めないが、何かの漢字だけが並んだ上り旗が並ぶ。
 そのうち傾斜がなくなった。等間隔で並ぶ鳥居の先の、一番大きなやつをくぐると、道路に出た。入り口と全く違う景色だった。携帯を取り出し、現在地を地図情報で確認すると、二十分ほど歩いた先に駅があることがわかった。終電には移動時間を考慮しても十分間に合った。
 山頂からの眺めには人家ひとつなかったが、あれも一つの側面でしかないのだ。古びた一軒家が立ち並び、セダン車や自転車が通り過ぎ、信号が赤と青を繰り返す。なんの不思議もない。
 平坦な道にしたって、一つの山を昇り降りした後ではどうしたって辛いものがある。思考は消え去り、足を前後に動かす。景色を追い出すように前へ進む。信号を待っている直立の時間でも疲労が積もるのを感じる。
 駅の改札を通り、ホームのベンチに勢いよく腰を下ろす。一路線だけが走る、鈍行だけが停まる小さな駅だ。運よく到着の二、三分前に着いたようで、まどろんでいるうちに電車が来た。どこで降りるかは決めていない。終点の駅には見覚えがあった。それなりに賑わっている場所のはずだから、何も決められずともなんとかなるだろう。
 乗客はいなかった。けれど不安はなかった。知っている大きな駅と途中で合流するのだ。否が応でも乗客は増えるだろう。
 端の席に座り、手すりの方向に体重をかけて目を閉じた。疲れが眠気を誘った。実際眠りに落ちてしまうまで、それほどかからなかったに違いない。ほどなく意識が飛んだ。
 次の駅への到着を、扉が開く圧縮空気の音で知る。ゴトゴトとやたらうるさい音がする。大荷物でも持って入って来たのだろうか、目を開いて確かめる。
 墓石が、ちょうど僕の目の前を通り過ぎるところだった。直方体の四隅の角を起用に使って、移動していた。あまり動きたくないのか、ドアの一番手間を占めていた僕の隣に、ぴょんと跳ねて落ち着いた。僕と墓石だけがいる車両で、隣り合って並んでいる。すぐにでも移動したかったが、そこで不自然なほどの眠気が襲ってきた。目がかすんで、やがて感覚もなくなった。
 誰かの肩に自分の耳がぶつかった感覚があって、僕ははっと起き上がった。電車の中でうたた寝をしていたのをすぐに思い出す。数駅通り過ぎたようで、人数は座席を半分ほど埋める程度に増えている。すぐに姿勢をただす。きっと隣の席の男はいやな顔をしているだろう。
 自分の席が端っこから移動していることに気づいた。端の席の隣。車両も路線も何一つ変化はない。ただ、座っている場所が、寝る前の席の隣になっている。眠りに落ちる前、墓がそこに鎮座していた場所だ。
 寝る前と同じように、立ち上がって、また別の席にでも移動しようと思った。不自然に思われないように、車両でも変えながら。そうしようと思った。繰り返し思った。
 それでも僕はそこを動かなかった。強力な接着剤で背中を固められたように。
 眠りに落ちる前、乗車してきた墓に刻まれた文字列を思い出そうとした。僕はそれを見ていたはずだった。けれど、なかなか思い出すことができなかった。