追想 / さがみどり

伸びた爪と髪以外、時の流れを知らせるものはない
会社を辞めて引きこもった
毎日浴びる罵詈雑言には慣れたつもりだったが、
身体がある日動かなくなって、
指先一本も動かなくて
寝転がって虚空を見つめて一日が終わった
でももうすぐ終わりだ
僕は薬をいつもより多く飲んで、
一年ぶりに外に出た
カーテンを閉め切った部屋に長いこといたから、
コンクリートの灰色すら眩しく感じた
ぜんぶの風景が懐かしかった  
途中の公園に桜が咲いていた
空の青を背景に、
花びらを風に泳がせている 
僕は桜が嫌いだった
進学や、会社への入社
環境が変わるたびうまく馴染めなかった僕は、やがて環境の変化を怖がるようになった
僕が挫折し失敗しているときにはいつも桜が咲いていた
失敗と挫折を繰り返す人生、その淀んだ輪廻の象徴としての桜
でも今日は、死に場所へ向かう今日は
いつもと違っていた
これを見るのも最後だと思ったら、
綺麗に見えた
青空も、桜も、眩しかった
死は事象の一回性を際立たせ、
その奥底の美しさを看取することができるようになる
人がすべてを許すのは、死に際したときだけなのかもしれない
でも世界が綺麗なことと、
僕とは無関係なままな気がした
僕が命を絶った日だって、
例えば夕焼けは変わらず綺麗だろう
世界と僕という現象は、
彼岸と此岸、平行した物事だ
へその緒が最初からどこにも繋がっていない胎児みたいに、
人は最初から最後まで一人だ
行く場所もない
帰る場所も、お金もない
職場で浴びた罵声を急に思い出して、
動悸がしたから立ち止まった
吐き気がした
生きようと思えない
そうするしかなかった
遺書は書かなかった

あなたが死んで、色々ありました
お葬式は親族だけで、内々に済ませました
元々あなたは友達がいる様子もなかったし、恋人もいないようでした
あなたの遺体は比較的損傷もなかったようで、
あまり手入れされることなく顔見せになりました
死に化粧を施されたあなたは、
生前元々生気のない顔色だったからか、
あまり変わりがないようでした 
涙は出ませんでした
葬儀は粛々と進んで、
壺に収まったあなたの遺骨を私が運びました
思ったより、重く感じました
小さな墓地のすみに建てられた墓に、
参拝者はほとんどいないようでした
時は淡々と過ぎて、あなたの墓は
春の陽を浴び、
夏の蝉時雨に囲まれ、
秋の落ち葉に彩られ、
雪を積もらせ、
四季の流れとともに皆あなたを忘れて行きます
他には本当にどうしようもなかったの、と思います
それを避ける道はなかったのだろうか、と考えます
あなたが生きていた頃と風景は変わり、
桜の咲いていた公園は取り壊され、
自死をせずとも人は老いて死んでいきます
死とは何でしょうか
苦痛を生きたあなたのような人にとっては、 
唯一の出口だったのでしょう
命に意味はない、とあなたは口癖のように言っていました
誰も涙を流さない葬式、
参拝者のいない墓
たしかに命に意味はないのかもしれません
でも、空席のまま埋まらない空洞が一つできた気がします
だから何だよ、と言われたらそこまでですが
旅立つ者と見送る者はどちらが不幸なのでしょうか