幻影 / 清水優輝
部屋に入ると、絵画に見間違うほどの鮮やかな風景が私たちを迎え入れた。
風が通り過ぎるたびに揺れる水面は、魂をどこまでも遠くへ運ぶようであった。
行ってみたい場所があるのと妻に言われ、数十年が経った。
湖は彼女の想像を裏切らなかっただろうか。私は彼女の手に久し振りに触れる。
角部屋の南側と西側に開かれた全面窓はまさに生きたキャンバスだった。
古代の火山活動により生み出された緑豊かな山々を背景に
広大で穏やかな湖が描かれる。天は澄み渡り、時間とともに色が移り変わる。
窓際に並べられたソファに座して、妻はじっくりと外を眺めている。
その瞳に映された碧い輝きに目が眩む。手が汗ばむ。夢のようで。
晴天の空に自由に漂う雲の歩みを人差し指で追いかける。
「あれは兎、こっちは亀ね」
彼女の言葉は雲とともに流れていく、流れていく。
湖の中央に浮かぶ島は空豆のように可愛らしい形をしている。
ここからは見えないが、きっと動物たちが伸び伸びと暮らしているのだろう。
「不思議ね、故郷に帰ってきたような気持ちがする」
妻はその動物のひとりだったに違いない。
ふと彼女は立ち上がった。そして私の腕を強く掴み、窓のそばへ誘った。
誰よりも一緒に居た妻の、頬の皺を撫でる。いつまでもこの時が続けばよい。
たまに上の空で話を聞かないところなんかも、私には愛らしかった。
癖のある髪の毛がはねるのを気にして、ずっと櫛で梳かす仕草や、
買い物かごを重そうに一生懸命持つ姿が、浮かんでは、消えていく、彼女の顔の上で。
ここにね、私の秘密の友だちがいるのよ―――。
ゆっくりと湖の遠くを指差す。その先を、見ても、私の目には何も見えない、
何かを、見ている、妻は、私を置いて、懐かしさに耽る。
何かの声に、絶えず、耳を傾けている。優しい子守歌のようなものであればいいと思う。
彼女は今、どこにいるのだろうか。
まだ、私の手の中に彼女の手はあるだろうか。
私はずっと、あなたに逢いたかった―――。
紅い夕陽に照らされた湖。悠久の時を経て、私を覚醒させる。
妻の最後の微笑みを目に焼き付ける。私は、手を離した。
妻は窓の外へ出て行き、湖が静かに妻を抱き寄せた、
その瞬間、ぱっと淡い光を放つ。私は見た。
巨大な丸い背中、長くしなやかな首、睫毛の長い宝石のような瞳。
湖に住む、妻の秘密の友だち。
さようなら、また逢う日まで。