凍りついた掌 / Iriwo
彗星は氷の塊なのだという。
巨大な物体が宇宙を音もたてずに運行する。
太陽に近づくとき、融けた氷は彗星の尾となる。また遠ざかるうちに、太陽に照らされなかった冷たい影の部分に氷塊が生まれる。
誰も知らないまま、氷はゆっくりと成長していく。その間に僕は、ほかの誰も知らない部屋と、そこにいた2人のことを考える。
言葉が生まれるより少し前、2人の間には調和があった。白い部屋に、白いカーテン。
心意気が同じであればもちろん、たとえ意見が食い違っていたとしても、食い違っているという調和があった。
心が一致するなんて、まるで日食のように奇跡的な嘘だと誰かが言った。でもそう感じたときに、確かに調和はあったのだ。
呼気があり、筋肉が収縮して、表情が変化する。それはすべて言葉の手前にある意思の表出だった。無音の中にすらいくつもの交流があった。
音が響き、意味を与えた瞬間、収斂した空間はほどけた。
決定したのは言葉で、言葉がなければ何も起こらなかったのかもしれない。
調和は安心であり、停滞であるとともに寧静だった。丸く丁寧に切り取った光が、複雑に照り返すガラスの中で散乱していた。
天体はすでに系から切り離されて、別の方向に進んでいた。いつかきれいに、燃え尽きることがわかっていた。
決定したのは言葉で、川が流れるのと同じように、調和は崩れてしまった。
文字は過去を書き記す。すでに死んだ世界を、掬い取るためにある。
2人は崩れた世界の原因を言葉に求めようとしたが、なぜだかそれは、うまくいかなかった。
川が流れ、岩がだんだんと削られて、いつかつるつるとした小石に水が跳ねるとき、原因はどこにあるのだろうか。
原因?いったい何の?
そう、原因など、初めからどこにもないのだ。水は、水であったから岩を削った。その水が流れたのは地面があったからで、水が、流れるために流れることなどない。
言葉は、言葉として立ち現れなかったすべてに対する、原因を持たない結果だった。
文字は連なり、章をなしたが、言葉を待っていなかった。2人は言葉が音になる前の始まりのうねりを眺め、手に取って匂いをかいだ。丸みを帯びた、深い静寂。いや、気が付くと文字はうねりの中にあった。それは大きな森の中に、たくさんの生命が息づくのと似ていた。葉が風に擦れ、鳥が鳴いていて、遠くのほうで何かが動いている、それぞれに音があって、ざわめき、高らかに響いているのに、合わさったとき不思議と静寂が訪れる。
文体とは、森の景色を伝えるための道具だ。望遠鏡かもしれないし、梯子かもしれない。気球や、焚き火だって文体だ。どこへだって行けるし、吸い込んだ空気の欠片まで手の中でとどめることができた。
そして、道具を共有することだけはできないのだった。2人がすべての情報を交感することは、決してできないのだと、彼らは理解していた。
決定したのは言葉で、唯一平等な意識の表出が水面を燃やす。その水面すら一つとして同じものはないことに気づかず、でも燃えている熱は本物だった。
ついに2人はこちらを見た。白い部屋に色彩を求めた。今や僕たちは同じ景色を見ていた。
僕は凍りついた掌で、必死に世界を触ろうとした。言葉を尽くして彼らに、この部屋に色はないのだと伝えたかった。
声は届かないのだ。すでに死んだ世界で、彼らはすでに死んでいた。
一番遠いところに届くはずの文体が、凍てつくように僕を刺した。
だが僕は、止まるわけにはいかなかった。
目を閉じるとそこには凍りついた掌でも触れられるほど近くて、抱えきれぬほどの大きな氷塊があった。
船が航海するように、無音のまま進み続ける。遠くへ、遠くへ。僕たちはそれを見ることができる。
僕たちは白いカーテンを開いた先で、彗星を見たのだ。
書かれるべき物事、物語の真実がそこに存在した。