序文・偶然の中心

すべての言葉には意味がない。たとえばぼくの詩には意味がない。

意味のないものが何故そこにあるのか。
そういう目で現実を見つめ直すとき、きっと発見できるはずだ。すべての言葉、すべての出来事はそこにそのようにあること自体が意味なのだ。

意味はつねに逆説的に理解される。それはきみたちの内側に宿っている。

たとえば何もかもうまくいかないで気分が塞ぎこんでいる時、恩寵のように言葉と出会うことがある。前後の文脈も歴史的な経緯も関係なく、そこだけが強烈に照らされているように浮き出て見えるフレーズがある。

これはその瞬間その場所における発見者に必要な言葉だったということだ。それは本の中から発見されたというよりは、すべての現実世界のなかから発見された、その瞬間の彼にしか享受できない詩だった。その次元において著者はすでに無関係である。

すべての言葉には意味がある。たとえばぼくの詩には意味がある。

しかし、なにかを意味しているのではなくて、それがそこにあること自体が意味なのである。しかし、それを意味だと思う者にとってのみ、そのように理解される。当然それは誰にでも通用するようなありきたりの意味ではなく、個人的で唯一のものだ。解釈違いなどという間違いは起こり得ない。それを受け取ることのできた彼はそのとき自分自身を享受している。たとえ一瞬だったとしても、その瞬間だけは、あるものをあるがままに肯定している。そういう風に受け取れる瞬間がある。

言葉はすべてきみ自身です。

偶然手にした本も、街角で目にした広告も、カフェで聞こえてくる会話も、すべてがそうだ。その時々の精神状態によって、同じ言葉からまったく異なる意味を受け取ることがある。これはきみが受け取ることで言葉は初めて存在できるということ、そして同時に、きみ自身で意味を書き換えることが可能であるということの証左だ。意味は現実である。きみが生まれなければすべての現実は発生しなかった。生まれてしまった淀みは、書き換えることで流れていく。

“これから”の意味に祝福を与えるとき、知らずに背負い込んでいた重圧が錯覚だったことに気がつく。現実には夢を、夢には生と死を一心不乱に塗りたくることで、はじめの意味の向こう側に広がっていた本来の絵が見えてくる。

それが偶然の中心です。
正しい肯定の作法です。

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今回、傘と包帯に音が増えました。言葉だけが詩ではありません。流れる雲の形、紅葉の鮮やかさ、小鳥のさえずり等々、そこに詩を感じられるのなら、それ自体が詩なのです。

それを発見するために、必ずしも特別な出来事は要りません。むしろそれらは日々の些細な時間の中に潜んでいるものです。もしかしたら散らかった部屋に埋もれたままでいるかもしれないし、いびつな街の雑踏を彷徨っているかもしれない。病的なノイズの中に浮遊しているかもしれない。それはいまもどこかで当たり前のように存在しながら、きみの生きる理由になろうとしているかもしれません。


2019.08 早乙女まぶた