序文・例外一致のダンス
一度ぜんぶを間違えてみたい。そういう気分で街を歩くとき、間違えることの難しさに気づく。例えば靴を履かずに庭に降りるという単純なことがすでに難しい。目的地に行かないバスに乗ってみたり、傘を持たずに雨の中を歩いてみたりするのだってそうだ。なんなら知らない店に入るとか静かな場所でくしゃみをするなどといったことでさえ難しく感じる場合がある。これはきっと空気が汚染されていて、間違えるための力が出せなくなっているということなのだ。
空気を読み物の一種だと考えているひとたちがわれわれの呼吸する空気を汚染していき、こんなにまで息苦しくなってしまっている。というようなことは何年も前から言われているが、だからといって無害になったわけではない。選ばなければならない。汚れた空気を無視する強さを身につけるのか、あるいは空気を清浄に保つのか。難しいことに、われわれはこのどちらをも選ばなければならないのだ。
ここでひとつハッキリさせておきたいことがある。間違えるというのは、<彼ら>の意見に反対することでしかない。
彼らには読めない言葉を使うこと/彼らには楽しめない趣味を持つこと/彼らには理解できない信念を持つこと/彼らには認識できない価値基準を持つこと。
<彼ら>にはまなざしひとつでこれらを間違いと断定する力があるが、<彼ら>と異なる文脈で遊ぶにはこれほど便利な道具はない。
<彼ら>の例外にされてしまったぼくたちは、例外という点で一致することによって各自が生きやすい空気をつくり出し、あえて例外であり続けることで<間違い>とされた無念を晴らすことができるだろう。例外であるということは集団に依存しないということであり、一致するとは団結することではない。自分の唯一性に自覚的になり、相互にそれを尊重するということだ。
ここまで書き連ねてきた内容を何一つ否定するわけではないが、しかし<彼ら>は絶対に存在しないのだということも書いておかなければならない。<彼ら>はぼくたちの生を<間違い>にしてしまった張本人であり、つまり生きてなどいないからだ。では<彼ら>とは何だったのか? それはドストエフスキーにとっての自然の法則であり、アナキストたちにとっての国家であり、多くの現代人にとっての常識であるような、身体を持たない亡霊のことだ。<彼ら>は例外を許さない。亡霊に憑かれた人間は頼まれもしないのに他者を<間違い>にしていくが、その人物自身に意思はない。だからそれを打倒したところで徒労にしかならない。その徒労が人類の歴史であり、それはいまも続いている。「復讐は何も生まない」という知恵はそのことを指しているように思える。だがそれは感情を封じ込めろというわけではない。そんなことはできない。相手を間違えるなということだ。操り人形に消耗させられていても仕方がない。
やるべきことは一つだ。確信を持って例外であり続けること。それだけでぼくたちは亡霊から逃れ去ることができる。銘々が余計な金縛りに遭わず、勝手な踊りを続けていられること。それがぼくの願いです。
自己と他者を繋ぐ糸が断ち切られてすべてがモノクロに死滅した世界を見たことがおそらくあると思う。無意味はそこから繁茂する。そこに再び着色するためにはあらかじめ用意された意味から逃れて、眼前に広がった無意味を正面から見据えなければならない。人間が数字や道具なんかではなく唯一存在している個人として生きていくためには、その上に自分で色を着けていく必要があるのです。モノクロの世界に真っ赤な花が鮮烈に花開くように、例外一致のダンスの結果としてそれぞれの詩が現れてくるのならこれほど嬉しいことはありません。
最後に、例外へと踏み出すための最良の言葉を書いておきます。この言葉が腑に落ちる頃には自分自身を、そしてその素朴な生を思い出していることでしょう。
<君を運命から逃がしてあげられるのはDADAだけだ>*
2018.8 早乙女まぶた
*トリスタン・ツァラ「植民地風の三段論法」『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』
彼はこう宣言した。「DADAは何も意味しない」。したがって上に引用した文は0で割られた数式とそう変わらない。つまりエラーになるわけだが、このエラーこそがDADAの目的だった。システムの内部ではあくまでも決められた原理原則に振る舞いを制限される。しかしながら、素朴に存在しているぼくやきみはシステムよりも広い範疇を生きている。というよりも定まった範疇に収まることができない。それをツァラはシステムエラーを起こすことで指摘した。それを可能にしたのが「意味を持たない言葉」という魔法だった。しかしDADAとはそういう言葉だという理解の上で、もう一度元の文に立ち返ると、当たり前の文章として再び読むことができる。DADA(=エラー)は唯一、君を運命(=システム)から逃がしてあげられるのである。