序文 電池式被告
<生は博物館に飾られるべきものではない。私たちが好きに扱うものだ。自分の手で独占的に私物化しなくてはならない。>*
もし文学や芸術などというものが確実な形を伴って現れるのなら、ぼくたちに残された道は内側から破壊するか外側から破壊するかそのどちらかしかありません。なぜならそれらがどのような形を持っていたとしてもぼくたちとは関係のないまるで異質なものだからです。
ある作品に感銘を受けた時、もしそこに何らかの価値があるとすればそれは感銘自体に価値があるのです。5年後、10年後、その作品をいまと同じような感銘で受け取ることができるでしょうか? 作品は変わりません。ぼくたちが変わるのです。
次の瞬間にはどこかしら変わってしまう人間を理解することはどうやってもできませんが、孤独でいることができない人たちはそれを理解できた気になるという愚を犯すことになるでしょう。彼らは自分で組み立てた人間の形に固執し、実際に生きている人間を決して見ようとはしません。一度レッテルを貼り付けたらそれで安心してしまうのです。たとえば人間の男だとか人間の女だとかいう生き物は実在しませんが、その架空の生き物に詳しい人たちの間では、男や女といった生物に自分の理想の条件をつけるということをやっていて論争が絶えないようです。その条件を内包させた男だとか女だとかいうレッテルを貼り付けて現実に生きている人間を苦しめるのもそういう人たちです。つまり理解できたと思ってもそれは理解できた気になっているに過ぎず、実際のところは自分の中での分類が完了したというだけのことなのです。
そして現代人の直感に反して、理解とは考えた結果としてもたらされるものではありません。考えないということがすなわち理解なのです。人がものを考えるときに発生するものはなんでしょうか。空想です。眉間に集まったしわが空想しているその空想を人はただ眺めているに過ぎません。
空想といえば、たとえばモーセが海を割ったという伝説も空想です。なんなら毎日のように海の間を歩いているあなたがモーセでもよかったわけです。モーセはパフォーマンスをした。あなたはしなかった。その違いがあるだけなのです。逆に現代人が何気なくスマホを使っている様子をモーセに話して聞かせたとしても彼には空想的にしか理解されないでしょう。
すべては空想であり、デタラメであり、禅問答であり、そして詩なのです。
あなた自身でさえ空想であり、あなたが知っているあなたではありません。
軽薄な生を認めることです。
どんなものでも長針と短針の追いかけっこ以上に重要なものはありません。
ぼくたちはぼくたちのまま変わり続ける。時計の針は同じところを回り続ける。
電池が切れるまでただ続くだけなのです。
<永遠という尺度で測れば、すべての行動はむなしい——>**
永遠の天使たちがクリスマスツリーのなかで最後の眠りに落ちるとき、
ぼくたちは生まれたばかりの今日に出会えることでしょう。
2017.12 早乙女まぶた
* ジャック・アリエ「天体望遠鏡」
** トリスタン・ツァラ「ダダ宣言一九一八」