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打ち壊しや米騒動を起こせた昔の人の方がかしこかったのかも

SNSで非難しても意味がない、実力行使以外意味がない

現代では暴力は否定されるべき論が強すぎます。権威を笠に着た暴力は否定されるべきですが、弱者が強者の暴力に立ち向かう際の暴力は許されるべきではないでしょうか。
あまりに暴力を忌避している社会はストレスを暴力以外の方法で解消しようと人を傷つけます。SNSでの誹謗中傷は月日と共に酷くなっていきます。暴力を使わないというのは免罪符になるのでしょうか?拳で人を傷つけずとも、相手を傷つけることがあるのです。
ならば、言葉なんてより実力行使が使われることもそこまで非難されることもないのではないでしょうか?いや言葉よりも拳が人を傷つけます、その通りです。でも漫画でもアニメでもドラマでも映画でも演劇でも拳で分かり合う系の作品が一定数あって、一定数のファンがいることを考えるとどこかで非言語コミュニケーションを人は望んでいるかもしれません。

米騒動も打ち壊しもある意味効果あったのかも

民間の出来事が歴史に残るのは歴史という性質上珍しいことです。歴史とは当時の権力者の残した文献や資料をもとに作られます。民間の出来事である米騒動や打ち壊しが歴史の教科書に載っている現状をみると相当な出来事だったのでしょうか。そうであればすごく効果があったのでは無いでしょうか?実際の被害や影響は分かりませんが、権力者や資本家には恐怖に見えたと推測できます。
自由民権運動でも暴力が伴ったものの方が後世に名前が残っていら気がします。

言葉は感じられなければ

愛と勇気は言葉、感じられれば力とオーバーマン キングゲイナーのOPの歌詞でも言ってますが、言い換えれば相手に感じてもらわなければ言葉は力として影響が与えられません。階級格差があれば本当に階級格差のある集団同士は分かり合えないのかもしれません。言葉が力を持つためには前提がいくつもあるということなのかもしれません。
前提のなる状態がいくつもあり、人は互いに分かりあうために様々な手段、様々な機会を駆使して一緒にいる時間や互いの話を共有する必要があります。私が以前アップした蒼穹のファフナーの感想記事でも書きましたが、分かり合えないもの同士が接すると暴力も理解の手段となりえます。

終わりに

今回は愚にもつかない話を終始書いてしまったけど、変に言葉や理性の重視が近年のSNSでの問題の原因の一翼では?と思うと共に小林秀雄の平家物語を思い出すのです。感情むき出しに生きる人間の愛おしさはやはりあるのではと思ってしまう今日この頃でした。


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