見出し画像

貨幣の中の貨幣、バンコール

 ケインズは第二次世界大戦後の国際通貨体制を話し合ったブレトンウッズ会議でバンコールという国家間の決済制度を提唱した。

 バンコールは各国間の決済手段を一元化し、貿易収支不均衡是正のため、赤字の国の通貨を減価し、黒字の国の通貨には逆を行う。これにより、国家間の貿易摩擦を低減し、戦争の要因を減らすことを目指す。

 それは決済手段を一元化するという意味で、各国通貨を商品とする貨幣、それはいわば貨幣の中の貨幣と言える(ケインズはそれを普遍的貨幣とも呼んでいる)。貨幣に由来する問題の解消への第一歩を貨幣によって行なうという逆転の発想の飛躍がここにはある。

 ケインズは膨大な数の双務協定を結ぶこととバンコールの制度を一つ導入することを比較し、その簡便さや非人格性を主張している。さらにその勘定を緩衝在庫や常備安定穀倉、超国家的警察機構に開くことでそれを援護する性質をもたせることができると述べている。

 バンコールの構想はイギリスに優位を与える性質もあった。またそれは単独の長期的解決策ではないとも言われている。しかし、その構想は、明らかに貨幣という存在の本質的な性質―売りと買いの分離―への洞察を含んでいる。ケインズはこう述べている。

諸国間の国際収支の均衡維持の問題は、全く解決されていない。バーターの方法が、貨幣と為替手形の使用に道を譲ったからである。近代世界が発展し、労働の国際分業と海外企業による新供給源の開発が、中世の自給自足経済に取って代わるようになってからの大部分の期間に、この問題を解決できなかったことが、窮乏や社会的不満や、ときには戦争や革命の主要な原因にさえなった。

ケインズ全集25巻 p25

 岩井克人は貨幣論で、何も手を打たなければ、貨幣の存在そのものがインフレまたはデフレの不均衡累積過程をもたらすと言った。

 バンコールの草案の冒頭でケインズが述べていることは、売りと買いの分離という貨幣の性質を一国内でなく、国際関係の間で見たときに何が起こるのかということについて記述している。

 貨幣、売りと買いの分離の本質的な性質は一国内ではデフレまたはインフレの不均衡累積過程として現れ、国際関係の間で見たとき、貿易収支の不均衡として現れるのではないだろうか。

 ただし、後者が問題として発生するには、売りと買いの分離に加えて、国家間において、その時代で価値のある産業資源の分布の偏り(人材、鉱物、農地…)があるという条件が加わる。実際のところ、時々の価値のある産業資源の分布は国家間で一様ではないため、所与のものとしてかんがえてもいいだろう。その前提無しでは比較優位の原理すら成り立たない。

 だから、さらに厳密に貿易収支の問題が国内問題で何に対応するかと言えば、収入の格差の問題に対応するだろう。生まれついた家庭、育った環境の差異で自らの稼ぐ力に差が生まれる。

 一国民は環境を選び自らの能力を高めること、手持ちの資源の入れ替えが不可能ではない。国家の場合、自然の資源そのものを入れ替えることはできず、その活用方法を変えるか、人材資源に働きかけるしかない。後者の方がその改善は難しい。

 一国民の場合のその差は収入の差として現れ、国家の場合、直接貿易収支の赤字/黒字として現れる。

 ケインズはこの貿易収支の調整が資源に乏しい債務ポジションにある弱小国家に任せられているところに問題があると指摘している。

 このような問題の整理はケインズが国内においても国家間においても資本主義経済、貨幣に由来する暴力を問題にしていたということを示すだろう。バンコールは本質的に貨幣と国家に由来する暴力を高次元で解消せんとする一つの構想である。

 それは「自己責任」を問う姿勢を国家間に当てはめたようなものだ。一国家内の弱者はそれが福祉国家であるなら、国家の支援を受けることができるが、一国家は国際機関の支援をうける他ない。何も手を打たなければ、原理的には国際的にも不均衡な過程が進行していくのではないだろうか。

 国内において「自己責任」を問うならば、それは国家間においても問われなければならないのではないかと思う。そして、それの解決を一国家だけに求めることは難しい。国家そのものがそれに苦しむ当の主体であるから。

 一国内の経済的問題も普遍的で基本的な人権の問題の解決も、両者は必然的に超国家的な、ないし脱国家的な取り組みに繋がらざるを得ないのではないかと思う。一国内の解決が他国での問題発生に繋がりうる、「関係」が存在するこの世界では。

 そして、それはそれができたとしても、非常に困難で長い道のりであると思う。それはきっと私の生きているうちには達成することができない長い道のり。柄谷行人はそういったことを明瞭に認識しているだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?