【連載小説 第29話】初対面の小学生女児から「お父さんと結婚して」と言われた35歳、無職。
●第29話 お母さんの悲劇を喜劇に変えるお父さんと出会わせてくれた娘
まつりと駿は池袋のアニメイト前にある小さな公園で、石のベンチに座っていた。2人とも、メガネを外してハンカチで目のあたりを抑えている。
「ふ、ぶだりはさ、遥かな宇宙でじあわぜに……うっ」
映画のラストについて感想を述べようとするも、まつりは押し寄せる余韻に邪魔され、なかなか語れない。それは駿も同様だった。二人は映画の感動が収まるまで、30分ほど、座って目と鼻をぐずぐずさせていた。
ひとしきり泣き、落ち着いてきた頃、駿が「映画はどちらかと言えば悲劇だったけど」
「そうね。テレビシリーズも悲恋だったし、ってか他の描写も含めて、小学生が観てよかったのかと疑問。ちょっと大人向けじゃ――」
「俺らは喜劇にしようね」
まつりはメガネをかけ、隣に座る駿をみつめた。春の暖かみを持った黒髪の天パが、日の光で薄い茶色に見える。
「これまでだって、楽しいことばかりじゃなかった。これからだってきっとそう。例えば、真冬は進学で悩むだろうし、俺も変な同僚がやってくるかもしれないし、まつりさんも新しい仕事に加えてPTAやってくれるし、それに……」
駿は顔を赤らめ、無言になった。一向に口を開きそうにないが、まつりは彼を待った。
その間に、人の流れは次々に変化する。長らく待ち合わせをしていた女の子はいつの間にか友達と遊びに行き、コンビニ弁当を食べていた男性は食べ終えて居眠りを始め、公園内のカフェには次々と個性的な若者がやってくる。
「そ、そ、それに」
中断されていた駿の語りがやっと再開した。
「こ、こ、こ、子供? ま、まつりさんが欲しいとなったら、あの、子育ては大変ばっかりだし」
「付き合ってもいないのに、そんなこと考えてるの?」
駿の顔はさらに赤みが増し、指先までも赤く見える。額や耳のあたりにうっすら汗が浮かぶ。確かに付き合ってはいないし、手しか握っていないけれど、駿の心の中ではお付き合い以上であった。
「あ、あ、ででも、そ、そのうち、あの、一緒に住んでるからその」
「何も起こらないって言ってたくせに、起こすつもり? そういや、誰とも結婚するつもりもないって」
「い、いいいいや、その」
「もやしも男の人なんだね。まなみと違ってか弱いから安心して住めなくなっちゃうな。横浜に引っ越そう」
「そういう冗談やめてください! 俺を追い詰めるのも!」
羞恥と逆上で混乱する駿は、ギャグ漫画のような顔になっていた。まつりは女子高生並に笑う。
「何がおかしいんだよ、真面目に話してるのに!」
「ごめんごめん。真剣に考えてくれてありがとねぇーしゅんしゅん。私って若く見えるけど、これでもお年頃だからさ。子供は難しいかもしれないよー」にこにこと、駿の天パを優しくなでる。
年下とはいえ子供扱いされ、むかっとはする。しかし、どうもまつりは駿をからかうことが好きなようで、いつも、生き生きしていた。その無邪気さに怒ることはできなかった。
「それにさ」まつりの手が、頭から頬に移る。「血の繋がりじゃないとは言っても、もし私たちに子供ができたら、家の中で血が繋がってないのは真冬ちゃんだけになっちゃう。初めは喜ぶでしょうし、可愛いって面倒も見るでしょうよ。その後よ。時間が経つにつれ、私だけ本当の親子じゃないって、気にするかもしれない。そこが簡単じゃないかなって思うんだけど」
血縁はなくても、駿と真冬はそれなりに上手くやってきた。けれど、駿たちに「血の繋がる子供」が生まれたら、真冬はどう感じるのだろうか。まつりと自然に馴染んでしまっていたから、駿は娘の気持ちを慮るなどというアイデアすらなく、まつりとのこれからだけが頭を占めていた。このみとのこともそうだが、周りを考えずに突き進む性分に嫌気がさす。特にこの件に関して、真っ先に配慮せねばならない娘の存在を脇に置いて。
「ごめん、何も考え無しに、勝手に先走って」
「ううん。さっきも言ったけど、私とのこと真剣に考えてくれて嬉しいよ」
駿は頬にあるまつりの右手をつかみ、両手で包んだ。自分に足りないものをたくさん持つ彼女が、必要だと再認識する。
二人の鼓動は早まり、リズムが合っていく。
ゆるい日の光が、まつりの瞳を輝かせる。
さらにぎゅっとまつりの手をはさみ、駿が口を開く。と、同時に、
ぐう。
と、駿のお腹が盛大に鳴り、これまでに培われた雰囲気は崩壊した。彼はソフトクリームを路上に落とした幼児の顔になり、体中の力が抜けた。
同じく気が抜けたまつりだったがすぐに復活し、「私もお腹すいたなあ~お昼食べようよ」と気を利かせて肩を軽く叩く。そして立ち上がり、ラーメンかマックか、それとも回転すしがいいかなと、駿に話しかけた。
あまりの情けなさに、駿は背を丸め、下を向く。このみへの気持ちも整理されはじめ、この雰囲気なら言えそうだった。それが、まさかの自分の過失で台無しになった。あまりにも自分が愚かで、なかなか立ち上がれない。
まつりは大きくため息をつき、眼下で落ち込む彼に投げかけた。
「コメディっぽくていいじゃん、腹が鳴るって」
駿はまだうつむいたまま、彼女の声を耳に入れる。
「これがクラシカ・ハルモニだったら悲劇の始まりだけど、私たちだったら喜劇になるんでしょ? ほら、立って」
と、駿の腕を取り、立ち上がらせる。
「コメディなんだから笑顔! お寿司食べ行こ、お寿司」
わざとらしく歯を見せるまつり。駿は苦笑いで答える。
「あ、ああうん、えーと、はま寿司、すしざんまい、がってん、くら寿司……」
「真冬ちゃんたちはお昼ご飯何食べたのかな~」
まつりはそのまま駿と腕を組み、公園を出て池袋駅方面へ歩き始めた。腕からは、先日のハグのような心のあったかさが伝わり、駿の落ち込みもやわらいできた。
彼女には、これから起こるだろう宇那木家の騒動も喜劇に変える力がある。駿はそう確信する。それと同時に、あの夫婦のことに思い当たった。
「倫太郎さんがまなみさんと一緒になったのってさ」
「うん?」
「悲劇を喜劇にしそうだからだよね。あんな暴りょ…怖い人なのにって謎だったけど、分かってきた。そういうことなんだ」
ひとり納得顔の駿を、まつりは見上げる。
「私が思うに、倫太郎さんがまなみを変えられる人なのよ」
「そう?」
「まなみね、倫太郎さんの前だとびっくりするくらい聞き分け良い子なの。私と同じで自分が正しいと思ってるから、意見が通らないと癇癪起こす子でさ。何人病院送りにしたか不明なほど暴れん坊だったのに」
駿はまなみと二人きりになった状況を思い出す。聞き分けが良いのは小林の前だけと推測され、なるべく彼女を怒らせないように生きようと誓う。やはり、異常にモテる理由が駿には理解不能であった。
「悲劇しか起こさないあの子がもう災難を起こさないように、倫太郎さんが要石になってくれてる。本当に感謝。あとはあの子が捨てられないように努力することね。あんなに良い人いないわ」
と言うと、突然、まつりはぴた、っと立ち止まった。駿は体がよろけた。組まれていた腕はほどけ、まつりは手を口に添える。
「ど、どうしたの?」
「……駿君に捨てられないようにしないと」
「ええ!? いやいや、むしろ弱虫な俺の方が捨てられないよう強い人間になる努力をすべきであって、まつりさんはそのままで」
「ううん、駿君こそ、そのままで。そもそも弱くないし」
「よ、弱いし情けないよ。いつまでもぐずぐずしてるし、まなみさんにやられっぱなしだし、お、お腹……なるし……」
まなみにとっての倫太郎がそうであるように、駿こそまつりの人生を喜劇にしてくれる登場人物。まつりは「本当に面白い人」と心の中で反芻する。
もう、誰かと一緒に住むことはない。死ぬまで一人で生きていく。そう決めていたところだったのに、真冬という少女に出会ってしまった。無視してもよかったのに、声をかけた。生きるには邪魔でしかない正義感は人に迷惑をかけるだけのスキルかと思いきや、そのおかげで奇跡のような人たちと、一つ屋根の下で暮らすことになった。ほとんど家族のような関係も構築されている。これからもっと、深く、結ばれる。
短所は長所というけれど、短所も悪くない。
駿と出会わせてくれた真冬の顔が浮かび、自然とほほえむ。
「そのままでいいの?」
「もちろん。俺にないものいっぱい持ってるんだもん。逆に、俺は工作とかキャラ弁とかまつりさんができないことできるし、補い合ってちょうどいいと思うんだ」
「じゃあ、駿君もそのままのんびりね。私せっかちだから、足して割ればいいテンポじゃない?」
まつりは後ろで手を組み、広い歩幅でさくさくと横断歩道を渡った。駿もその後ろにつく。
「ねえ」まつりはくるりと後ろ向きになり、駿と顔を合わせる。駿はおっと、っと止まる。「今度の日曜日、福島行かない? 茄子を採りに」
妙に信一と仲良くなった真冬は、茄子の約束、とうもろこしの約束と、先々の予定を交わしていた。そのことをすっかり忘れていた駿。言われてすぐには意味が分からなかったが、ワンテンポ遅れて反応する。
「あ、ああそうだ、茄子ね、うん、来週行こうか」
駿の脳内に、あの日、信一に鉈で追いかけられた悪夢が蘇ってくる。今回は襲われないと信じたい――と思ったが、それは自分次第だと気が付く。まなみにしろ、信一にしろ、まつりを大切する気持ちから狂気が生まれている。つまり、駿が彼女を大事に扱っていないように見えているのだ。
駿は静かに力強く、両こぶしを握った。
勢いでプロポーズしてしまった記憶も浮かぶ。そして、あの日「もっとまつりといられたら」と感じた気持ちも。
まつりとの関係に決着をつけるのは池袋ではなく、気持ちが芽吹いた福島。駿は決戦の福島に向けて、前からくる人を避け、彼女の横に並んで一歩を踏み出した。
◇◇◇◇◇
その日の18時頃、真冬がまなみたちに伴われて帰宅した。頭には丸い耳とリボンの付いたカチューシャ、両肩にはドリームランドのキャラクターが描かれたショッピングバッグを掛けている。お茶でもと、駿は二人をリビングに誘う。じゃあ一杯だけと、二人は家に上がり、ダイニングテーブルに落ち着いた。
「今日は真冬と遊んでくださって、本当にありがとうございます。お土産もたくさん買ってもらって」
「僕たちも真冬ちゃんと過ごせて楽しかったし、全然気にしないでよ。僕らもう兄弟みたいなものなんだから。気楽にね」
いつも通り、金色のオーラが見える頼もしく優しい笑顔で、小林は駿に語りかける。良きお兄ちゃんが誕生し、駿は嬉しくなる。
「そだよー。あたしたち、あつーい口づけを交わした仲だろお。遠慮はなしよ~」
と、真冬とおそろいのカチューシャを着けるまなみ。アレは完全消去したい、できたらなかったことにしたい駿は、目の下がひきつる。良い人なのは理解するが、良き姉とは単純に思えなかった。怖い。
まつりは紅茶入りのマグカップを3人の前に出し「夕飯食べてってくださいよ。今日ホットプレート買ったから、焼きそばにしようと思って」駿の隣に座った。
「ホットプレート! 家族いっぱいいるみたい!」と、ソファでお土産を出していた真冬が高い声をあげる。
「ふゆ子の認識何それ?」
「だって、うちにホットプレートはなかったけど、6人家族の桜ちゃんちにはあるの。こないだホットケーキパーティしたんだけど、ほぼよっしーが焼いてくれた」
そのあと真冬は、誰も気が付かない音量で「あ」と口にした。
「せっかくだからごちそうになろうよ、まなぴい」
「ぜひぜひ、俺が作るんで」
まなみを足をクロスし「まじ男って、BBQとか焼く系だけはやるよなあ」
「駿君、料理めちゃうまいよ」
「おっ、それは楽しみだなあ。ソース? 塩?」
「ねえねえねえ、お父さん」
真冬が楽しそうにソファからテーブルに寄って来た。
「ホットプレート買ったってことは、家族増えるってことだよね」
「え? ああ、まつ」
「妹弟どっちかなぁ」
駿は手にしていたマグカップをするんと落とし、テーブルを紅茶の池にした。
◇◇◇◇◇
まつりと真冬、小林がソファで今日の写真を眺めている間、駿は台所で焼きそばの準備をはじめた。そこにまだカチューシャを付けるまなみが、下品な顔ですり寄って来た。
「妹弟どっちかなぁ」
「うー、まなみさんが期待するようなことは一切ありません。び、微妙に真冬の真似しないでください」
ざくざくと駿はキャベツを切る。まなみのいじり発言ごと、刻むように。
「ホットプレート買ったってことは」
「一人用もあります」
「今日、映画見ただけじゃないんだろお?」
駿は野菜室を開け「お寿司食べて、ホットプレート買いました」もやしの袋を取り出し、バコンと閉める。「それだけです。他人ですから」ぶちっと、もやしの袋を開ける。「でも……」
「でも?」
「今度の日曜、福島のおじいさんちに行くんです。そこで……い、いっぽ……1歩でも……まつりさんとの関係……進ませます」
湯だった顔を見られたくない駿は、うつむいたまま冷蔵庫から豚肉のパックを取り出して開封し、適当な大きさに切り分ける。
「一生グズグズしてると思ったけど。意外と仕事できるじゃん」
「……が、が、んばり、ます」
「ごほうびに、まなみ様がほっぺにぶっチューしてあげる~」
「ヤだ!」
駿は左足を思い切り踏み砕かれた。骨が折れていてもおかしくない痛みの中、我慢して焼きそばを作り、我慢して普通を装った。次の日、職場近くの病院に行ったが異常はなかった。
まつりにその話をしたところ「あの子は怪我しない要領をよく知ってるからね。機嫌を損ねないように頑張るしかない」という、役に立たないアドバイスをもらった。それはわかっているのだが。